*** 二〇二〇年 八月八日 土曜日

 アリスと出会わなくなってから数日が経過した。あの日以降、高架下へ行くのにどうしても躊躇してしまい自然と足を運ばなくなってしまっていた。小説を読む心の余裕もなくただひたすら時間を浪費し、部屋に閉じこもりながら生産性のない日々を過ごした。

 まだ三日しか経っていないはずなのに随分昔の記憶を思い出しているかのように感じられた。たしかにそれは現実のはずで僕自身が体験したことなのに、誰かの記憶を譲り受けて映写幕に映し出して見返しているような感覚だった。

 以前、ネットで夢を見てしまう理由を気になって調べたことがある。夢というものは記憶が整理されている段階で生まれてしまう個人的なドキュメンタリー映画のようなもので、願望の現れや無意識下での情報の描写や色々な要素が複雑に合成されたようなものらしい。つまり僕にとって著しい変化を感じ取った脳が最悪な形として、あのとき夢として処理したのだ。例の少女とアリスが重なって、彼女の存在は僕の中で誤魔化しきれないぐらい重要な意味を持つ存在へと膨らんでおり、強引に僕の中の明らかな変化を夢という形で見せつけた。夢の内容と覚める時に発した言葉は僕の本心を凝縮したもので、アリスとあの少女が同等の存在になっていることを示している。であれば、いい加減僕は認めなければならないだろう。

 僕は……アリスと『友人』になりたいのだ。彼女と会うのがまだ二回目のとき、高架下で同じような気持ちを抱いたが、それはアリスと少女の容姿が似ているだけでこれはただの錯覚だと頑なに認めることはなかった。独りであれば考える必要のない煩わしい他人の気持ちや感情というデメリットを受け入れてでも、あの眩しい笑顔を隣で見続けていたい。そう願っているのだ。

 僕は手っ取り早く周辺に撒き散らしていたお決まりのジーパンと黒Tシャツを掴んで着替えを済ませ、家を飛び出た。駆け足で駅に向かって走り電車へと飛び込む。電車に揺られている間、僕はアリスと過ごしてきた夏休みのことを頭に思い浮かべながら彼女に掛ける言葉を考えた。座席に浅く腰掛けて背もたれに背中を預けながら天井を見つめる。僕はアリスになんと言えば許してもらえるのだろう。ただ顔色の悪い人に対して心配しただけで拒絶されて一方的に訳もわからず関係を閉ざされたのだ。流石に怒っているに違いない。もしかすると僕のことなどとうに忘れて、僕と出会う以前の生活に戻っているかもしれない。

 それはそれでいいかもしれない。僕のような人間は他人と関わることに向いていないのだから、僕とのこの奇妙な関係を断ち切るのは正解かもしれない。それに夏休みが終われば僕と彼女は赤の他人に戻るのだから、遅かれ早かれこの物語の結末は同じだったかもしれない。

 ただ、と思う。

 もしアリスがまだ僕と友人になりたいと願ってくれているのなら、僕はそれを素直に受け入れて友人になりたい。夏休みが終わってもこの関係性を維持したい。そんな想いを胸に抱きながら未だに何も言葉を持ち合わせていない僕は自宅を出てから三十分後に高架橋のそばに辿り着いた。斜面をゆっくりと下りながら少し落ち着かせるために深呼吸を、何回も、何回も繰り返す。胸の鼓動が速くなり脈打つ間隔が短くなってきているのがなんとなく分かった。足を一歩踏み出して右に視線をやれば、アリスがいるかどうかを確認できる。もし高架下に彼女が来ていれば三日前のことを謝罪し、なぜあんな行動に出たのか素直に説明する。彼女が来ていなければそのまま高架下へと歩いていき座ってアリスを待つ。

 これが小説に書かれた物語であるのならばアリスはいるはずだ。できればそうであって欲しいと思いつつ僕は目を閉じる。心の中でカウントを始める。

 五……、四……、三……、二……。

 ……一。

 目を開きながらいつもアリスが座り込んでいる場所に視線を向けた。高架下は静寂を貫いており、ページを捲る音も誰かの話し声も泣いて鼻をすする音も、橋特有のそれらに対する反響も何もなかった。

 これが小説に書かれたような物語ではないことが証明されてしまった。いつもの場所へすたすたと歩いていきその場に座り込む。アリスが何かしらの事象でこの場を離れているだけなら、ここへ戻ってくる可能性もあるので僕は大人しく彼女を待つことにした。三日前から徐々に涼しい風が吹いていたので、多少汗をかいてはいるが特段暑苦しく感じることはなかった。

 ただじっとアリスを待った。時々、高架下の向こう岸に人が通るのを適当に数えながら、彼女の声が現れるまでひたすら待ち続ける。

 結論から言おう、結局アリスはこの場に現れることはなかった。高架下に来てから十分経ち、一時間経ち、夕日が沈んで周囲が暗闇に包まれても彼女はここへは来ることはなかった。いい加減諦めて僕は立ち上がって、自宅へと帰宅する。

 寝巻きに着替えてベッドに重力に身を委ねるように寝転んだ。とりあえず今日は眠りにつくとしよう、もう彼女と出会う術はないのだから。

 こうして僕と彼女の関係は断ち切られた。もうあの高架下へ行くこともないだろう。僕の記憶の中から描き出したアリスの笑顔を僕は深く脳内へと刻みつけて眠りについた。

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