*** 二〇二〇年 八月五日 水曜日
昨日の夜、微睡みの中で僕はある夢を見た。徐々に明確になっていく夢は、大金持ちになって人生を謳歌しているような華やかでカラフルに彩られたものではなく、誰かに追いかけ回されしまい挙げ句の果てには想像を絶するような方法で惨殺されるような悲劇的なものでもなかった。その夢は僕の脳に刻まれた過去を追体験するような、やけに現実味を帯びたもので、現実ではないことに気がつくのに十分な時間を要するほどリアルだった。
瞼をゆっくりと開くと、ドーナツ型をしたとある施設の中央の庭で、少女と僕は庭の真ん中に生えた木に腰掛けて隣り合いながら読書していた。煉瓦で囲まれた庭に茂る芝生は綺麗に手入れされていて、真横で読書に耽っている少女と同年代の子供たちが同じ庭の上を元気よく駆け回っている。鬼ごっこやかくれんぼなどの一般的な遊びをしている中で、僕達だけが大人ぶった様子でその輪から外れていた。
僕はここがどこなのかすぐに理解した。久しぶりに見るこの光景はほんの少しだけ懐かしく感じる。僕と少女はお互いに口を聞くこともなく、黙々と読書と向き合っている。この時間は何とも言い難い心地よさを僕に与えてくれていた。
久々に見た少女の姿は僕の記憶の中の人物と同一であることを指し示していた。肩にかかるぐらいのストレートの黒髪、光に反射しそうなきめ細やかな肌、心を見透かされそうになる双眸、薄い赤色の細い唇。とうに名前を忘れてしまった少女が僕の隣にはいた。普段、眩しいぐらいの笑顔を見せてくれるはずの隣の少女は真剣な眼差しでページに敷き詰められた文字を目で追っていた。その異様な差異が少女に備わっている美しさを際立たせている。今思えば、僕が美しいというひどく曖昧で主観的な感情を抱いたのは少女と友人関係を築いた時のように思える。十年にも満たない短い人生の中において、こんなにも容姿と表情が乖離している人間を僕は知らなかった。僕を除いた誰一人もこの少女に近づかなかったのはその異質な現実味の無さが起因していたのだろう。
そうだ。そこでようやく僕ははっと思い出した。
この少女には今の僕と同じように友人と呼べる人物が一人もいなかったのだ。奥底に押し込まれて隠れてしまっていた記憶の断片たちが次々に乱暴に掘り起こされていく。思い返せば、この少女と仲良くなりたいと強く思ったのは謎めいた彼女の存在が孤独に包まれているからだった。幼い頃の僕は誰とも馴れ合わずに全ての時間を読書に注ぐ彼女が不思議でならなかった。彼女をそこまで魅了させる小説がどんなものか知りたくなったのだ。
もしかすると僕は隣り合っているこの少女に対して恋のようなものを寄せていたのかもしれない。だとすると昔の僕は周囲の少年少女と相違がないまともな子供だったのだろう。こうやって捻くれてしまった自分に呆れて思わず溜息をつく。
「どうしたの?」
僕の様子がおかしいことを察知したのか、優しい声音をした少女が僕に心配の眼差しを向けていた。少女の声はアリスの声と同じような気がした。久しぶりに耳にした淀みのない透明感溢れる少女の声はどうしようもない懐かしさを僕にもたらした。過去に経験した匂い、記憶、声や音、感触といった不確かな感覚は長い月日によって意図せず美化されてしまうもので、再び感じ取った際には自分が思っていたほど綺麗ではなくて拍子抜けしてしまうものだ。だが声を掛けてきた少女の声は昔と比べて磨きが掛かってより透き通っていた。もちろん夢の中なので主観的なものが混ざっていることには頭の中で気付いていた。
「いや、何でもない」
一オクターブほど高い声が僕の喉から発せられたことに気付くまで時間がかかった。何とか不自然さを残さないように努めて言葉にしたが、変に間が空いてしまった。いつの間にか僕は少女と同年代ぐらいの姿に変わっていたらしい。単純に僕が大人の姿だと思い込んでいた可能性もあるが、僕の認識では大人から子供の姿へと変えられた感覚だった。
挙動がおかしい僕を不思議な様子で少女は見つめていたが、別の話題が思い浮かんだのか特に気にも留めず僕に声を掛けてきた。
「君はどっちが面白かった? 私はね――」
意気揚々と小説について捲し立てながら語る少女を見て、僕は久しぶりに安心感を得ていた。少女と会う機会を永遠に失ってしまった時から、僕は誰かの隣に居ることで安心感を得ることは一度もなかった。それに加えて、この感情は僕の中ではすでに記憶へと成り果ててしまっていて、何だか他人が感じたもののように思えてならなかったのだ。次々に言葉が溢れ出してくる少女の話に相槌を打ちながら、久しく忘れてしまっていたこの感覚を心の中で噛み締める。
一時間程度だろうか、少女の話に耳を傾けていると施設の従業員と思われる女性が中から顔を出して僕達を呼びかけた。さっきまで走り回っていたはずの子供たちはすでに施設内へと戻っており、暗闇に包まれつつある中庭には円型の蛍光灯に照らされた僕達だけが佇んでいた。隣の少女は腰を上げて僕達を呼んでいた女性の元へ歩いてく。僕も少女の後ろをついて行った。
すると突然、奇妙な光景を目撃した。少女と同じ速度で僕は施設内へ向かっているはずなのにどんどん少女との距離は開いてくのだ。違和感に気付いて全力で走ってもそれに比例するようにして少女からは遠のいていく。女性に連れられて行く少女は僕の存在がまるで無かったかのように後ろを振り返ってくれない。僕の存在に気づいて欲しくて必死に少女に対して声を上げるが、それが届く気配はない。
次第に消えて行く懐かしき少女に向かって僕は――。
「アリス!!」
「うわぁ!?」勢いをつけてベッドから飛び起きると、僕の叫び声に次いで甲高い悲鳴が部屋内に一瞬だけ響いた。状況を飲み込めなかった僕はしばらく視線が定まらず部屋のあちこちへと移動させる。四方を囲むネイビー色の壁、壁一面を覆うほどの大型本棚が二つ、中央に置かれた白の小型テーブル、木目調のフローリング。それらは見紛うことなき自室であることを指し示していた。
次々に湧き出てくる汗のせいで寝間着として着ているTシャツや半ズボンが所々湿っており、何とも不愉快な気持ちにさせていた。さっきの現実味を帯びたものが夢だと理解するのにそう時間は掛からず、自分の姿が幼少期の頃の姿ではないことを上から順に確認することで幾分か冷静さを取り戻した。とりあえず夢から現実へと戻ってきたことにほっと安堵の胸を撫で下ろす。同時に行き場のない寂しさが胸の中を埋め尽くしていたことに対して僕は見て見ぬ振りをした。あくまでも僕の記憶と夢が混ざったことによる幻想だ。そこに寂しさを感じて悲観する必要はなかった。
早くなっている鼓動を鎮めるかのように深く息を吸う。すると先ほど甲高い悲鳴をあげた主がベッドの端から現れた。
「急に大声出して起きないでよー、腰打っちゃったじゃんか」
「……未希か。悪い」
心ここに有らずと言わんばかりの謝罪に違和感を感じたのか、制服に身を包んだ妹の未希は腰を痛そうにさすりつつも訝しげな視線をこちらへと向けた。
「大丈夫だけど。すごい汗かいてるよ、大丈夫?」
「悪い夢を見ただけだから大丈夫だ」目を逸らしながら答える。
別に話すべき内容でもなかったので詳しくは説明しなかった。ベッドから降りると「シャワーを浴びてくる」と妹に告げて足早に一階の風呂場へと向かった。リビングを通る際、異様な汗のかきように両親にも反応されたが、これもまた「大丈夫」とだけ呟いてそそくさと脱衣所の戸を引いて中に入った。尋常じゃないぐらい汗で濡れた衣服をさっさと脱いでかごへと投げ捨てる。
持ち込んだスマホから曲を流しながらシャワーを全身に浴びた。体に纏わり付いていたはずの汗がどんどん流れていき心地よい感覚に包まれる。同時に心の裏側にこびり付いていた焦りや不快感も次第に消え去っていった。大雑把に頭と体を洗い、湯を張っているバスタブにどっぷりと浸かった。両手で浴槽に溜まっている湯を掬い上げて顔面に浴びせる。前髪をかきあげることで額を露出させてバスタブの縁にもたれかかった。鼻から空気を吸い込んで口から息を吐く。爽やかな気分に浸っていると、いつの間にか僕はついさっき見てしまった夢について思い出していた。
僕は夢の少女を、間違えてアリスと呼んでしまった。夢にあの少女が現れたということは僕があの過去を無意識の根っこの部分で、重要かつ大事な思い出として保管していることに他ならない。それは少なからず認めている。あの少女は僕の人生において運命の分かれ道の起点となった人物なのだ、当たり前だろう。久しぶりに再会した少女の姿を脳裏に思い浮かべる。夢の中の少女は思ったよりも華奢で背が低く、垢抜けていない印象を受けた。三つ編みに編んで左右に分けられた二房の髪、薄くのびた唇、全てを見通すような黒く澄んだ瞳、御伽話に出てくるプリンセスのような真っ白な肌。少女の声音は僕の中で全く美化されずにありのままの姿だったのだが、容姿に限っては幼少期に感じた印象と比べてかなり異なっていた。
問題はその少女をアリスと無意識に呼んでしまったことにあった。つまり僕はアリスを……。
ふとここで思考を中断する。これ以上先は思考すべきではない。今ならまだ知らぬふりができる段階だ。僕は脳に現れつつあった感情に意識を向けないよう強制的に思考を止めた。
風呂から上がって体をタオルで拭きながら時刻を確認すると、時計の短針は十一時を指していた。まだ時間は大いにあったのでゆっくりと朝食を摂って落ち着くことにした。リビングの椅子に座って差し出された朝ごはんを黙々と口に運んでいると、大型テレビから今日のニュースが流れてきた。これまた自殺に関する報道だった。一昨日、関西のとある学校で屋上から男子生徒が飛び降りて亡くなり、自宅からは遺書が発見され、内容から校内での虐めが原因だと判明した。下画面には虐めていた当人たちが綴った言葉が表示され、本人たちは自分達の非を認めたが悪気はなかったと述べているようだった。
ここ最近、未成年の自殺の報道が以前より増している気がした。チャンネルを変えても、同じ事件または別の自殺者の事件が画面に写し出されている。見ていて気分がいいものではなかったので、テレビを消して食事することに集中した。食べ終わると食器を流し台に置いて自室へと戻る。なお時間はまだ余っていたので、出かける準備を済ませてから小説を読むことにした。
高架橋のすぐそばに立ち止まると僕は橋の上で幾度か深呼吸を繰り返した。大丈夫だ、いつも通りに接すればいいだけだ。心を落ち着かせてから少しずつ斜面を下っていき直前で足を止める。もう一度深呼吸をすると意を決して高架下へ顔を出した。「おはよう」といつも通りの淡々とした挨拶を声に出す。しかし、僕の挨拶が橋によって若干反響するだけでいつもの元気が溢れた溌剌(はつらつ)とした挨拶は返ってこなかった。視線を地面から水平線へと向け直すとそこにアリスの姿がなかった。待ち合わせ時刻の十分ほど前だったので僕が早く来すぎたのかもしれない。僕は高架下の斜面に腰を下ろして読書することでアリスを待つことにした。
正直、僕はアリスがまだ到着していなかったことに胸を撫で下ろしていた。まだアリスに会うまで多少なりとも猶予があるおかげで心の準備ができそうだった。
目の前に開いた物語に浸り溶け込むことで精神統一を行う。小説は僕にとって愛すべき宝であるが、同時に安寧を与えてくれる存在でもある。物語に集中している間は僕自身のことを一切考えなくて済むのだ。
しばらくすると周囲の音や気配が段々と薄まっていき、読んでいる物語の場面が音や風景となって塗り替えられる。
僕が没頭しているこの物語はバットエンドの中にわずかなハッピーエンドが含まれているような作品だ。以前、この作家のデビュー作を読んだ時、予想だにしない結末と伏線の鮮やかな回収に僕は衝撃を受けてしまった。登場人物の心情を精密かつ丁寧に描き、救いようのない絶望の中に二人だけの小さな幸福を描写するのが上手い作家だった。それによって、読者が想定した結末をひっくり返しながらも強力な説得力を持ち合わせており、作家独自の物語が生み出されていた。
光が一切届くはずが無い深い絶望の中でほんのりと佇む幸福が僕はたまらなく好きだった。一見、他者からすればバッドエンドだとしても当人たちにとって、それはハッピーエンドで、どんなクズでも幸福になる権利があると教えてくれる気がするのだ。念のために言っておくが、ここでいうクズとは凶悪殺人者や人を道具だと考えている極悪人のことではない。他人に危害は加えないが人として何か大切なものを失っていて、自堕落な生活を送っているような底辺の人間のことを指している。
つまり、僕という感情が欠けた人間が最後の最後で救われるような物語を僕は欲している。空想の物語で救われる主人公に僕自身を投影して、擬似的にクズである自分自身を救っているのだ。
「あ、もう来てたんだ。おはよう」
彼女の声で一気に集中力が切れて物語が強制的に中断される。集中しすぎていつの間にか十分を超えてしまった。心を落ち着かせるために物語を頭へ流し込んでいたのにも関わらず、彼女に対する動揺への対処を怠ってしまった。僕は普段よりも努めて声の抑揚を抑えながら「おはよう」と挨拶を返した。彼女は隣に座り込んで小説を開き始める。彼女が小説と向き合って読書に励んでいる間、文字の上を上滑りしてしまい僕は物語に集中できなかった。
「大丈夫? 顔色悪いよ」とアリスが心配したのか顔色を覗いてくる。僕は逃げるかのように反対方向へ顔を背けた。
「なんでもない。ちょっとだけ眠いだけだ」
「ほんと? 熱でもあるんじゃないかな」
何度このやりとりをしただろうか、僕が「大丈夫」と平気な様子で言えば彼女は「絶対大丈夫じゃないでしょ」と食い下がる。ああ言えばこう言う状態がしばらく続いた。無意識にアリスは僕との距離を少しずつ詰めてきている。それがさらに僕の動揺を誘った。
我慢を切らしたのか、アリスは右手を自身の額に押し当てて左手で僕の額を押さえようとした。昔ながらの方法で無理やり僕の体温を測ろうとしたのかもしれない。そしてそれが僕の限界だった。
「しつこいな。大丈夫だって言ってるだろ!」
ぱちんっと手がぶつかる音が高架下に響く。僕は無意識に彼女の左手を手で勢いよく振り払っていた。
「えっ……」
「……やめてくれ」
気まずい沈黙が僕たちの間に流れた。アリスの表情からは笑顔が一切消え去って左手を右手で押さえている。彼女の視線は僕の顔から少し下がり、草が茂る斜面を焦点を合わせられずに見つめているかのようだった。
僕は何も言葉にしなかった、というよりも何と声をかければ良いのか分からなかった。
「ごめん、何か悪いことしたんだよね……」アリスは視線を僕には向けずにかろうじて呟いた。
いつもの明るくリズムのいい声音がか細く、そして空中に溶けて消えていくような言い方だった。やっぱり彼女と一緒にこの夏休みを一緒に過ごすべきではなかった。いつかアリスを傷つける日が来ると頭の中では分かっていたはずなのに僕は彼女と共にいることを選択した。それは大きな間違いだった。
本来ならば僕は謝るべき立場にいるはずなのに謝罪を口にはせずただ黙した。僕は僕の心が分からなくなっていた。夢の中の少女をアリスと呼んだ僕は彼女に何と詫びればいい。
正直に白状しよう。僕は彼女から無垢な笑顔を奪ったことをすぐに後悔して悔やんでいた。彼女を傷つけて感じた罪悪感が僕の心の中央に鎮座してぶくぶくと膨らんでいる。今までに感じたことのない心情に僕は戸惑っているのだ。だからこそこれは彼女に対して純粋に申し訳なく思っている初めての良心なのか、ただ許しを懇願するためだけの僕の偽善なのか判断できなかった。
ここ最近、彼女と過ごした日々によって忘れかけていた。僕は真っ当な人間なのだと思い込んでしまっていた。だけどそれはまやかしだった。僕は他人の痛みになんの心も持たないクズなのだ。となれば話は早かった。僕は起こすべき行動は一つである。
「悪いが今日はもう帰る」
「あっ……うん」
彼女が何か言葉を紡ごうとしたみたいで何か言いかけたが、首を縦に振ることで口を閉じた。無言になった彼女を横目に斜面を上って駅へ続く道に足をつけた。これ以上彼女と一緒にいれば僕は彼女に期待してしまうだろう。これ以上、アリスにかける言葉もなく僕は無言でその場を去ることにした。
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