*** 二〇二〇年 八月二日 日曜日

「うわぁ、凄く綺麗……」

 アリスは頭上の水槽で優雅に泳ぐ魚たちを眺めながら感嘆の息を漏らした。天井いっぱい広がるトンネル水槽の中を約九百尾の生き物がゆらりゆらりとあちこちを泳いでいる。ライトによって照らされた水槽内は隅々まで水が碧くきらめいていた。

「ねぇ、見て。すごいよ! こんな魚初めて見た!!」

 頭上の水槽から視線をアリスへと向け直すと、彼女は興奮した様子でアーチ状の水槽を忙しなく見回しながら楽しんでいるようだった。一心不乱に泳ぎ回っている魚たちを体ごと移動させて追って見ているほどだ。

 水槽内の珊瑚やウミキノコはじっと佇んでいてイソギンチャクはゆらゆらと波のせいか揺れていた。色鮮やかな魚たちはあちこちを自由気ままに泳いでおり、時々光に反射して美しいグラデーションが生まれている。どうやらこのトンネル水槽は浅瀬や珊瑚礁をテーマとして展示しているらしく、熱帯魚の様子を間近で見ることができるようだ。疲労が溜まりやすい日本人にとって小さな魚たちがゆったりとした様子で自由に泳いでいるのを見るのは癒しになるのだろう。ひとしきりにアリスが「この魚、可愛いなー」と連呼しているぐらいだ。

 僕とアリスは彼女のデートプランとやらに従って隣町の水族館へと来ていた。ここはアリスが一番好きな水族館らしく、最近は家族と全く来れず、どうしても来たかったらしい。館内全体の光量は極力抑えられているようで、転倒防止のためのフットライトと水槽を照らすためのLEDライトのみが取り付けられている。少し歩けば所々暗闇に包まれており、光と暗闇のコントラストが美しく館内の雰囲気に拘っているのが見てとることができた。時々、アリスはシルバーのスマホをポケットから取り出して写真と撮っていた。

 曲線状の廊下を五分ほど歩くとすぐに出口は現れた。アリスは名残惜しそうに何度もトンネル水槽の魚たちに視線を送っていたが、他の入館者の邪魔になりそうだったのでアリスを無視して次のコーナーへ向かう。すると彼女は肩を落としながらも仕方なく後をついてきた。元気が無くなったかと思えば、しっかりと次のコーナーの内容にハマってすぐに笑顔を浮かべていた。

 館内を歩き回ると様々なテーマを模した水槽が設置されているがわかった。種類分けされたクラゲが展示されているクラゲの世界の称した小型水槽や角質を食べてくれるドクターフィッシュのいるふれあい水槽、僕が一番驚いたのはテレビカメラを内蔵したカメ型ロボットを操作して遊泳する臨場感を味わえるコーナーが存在することだった。僕が持つ水族館の知識は小説や専門書でしか得ていないものだったのでそんな装置があることに驚きを隠せなかった。

 館内で一位を争うほどの人気コーナーなのか子供の人だかりができており、皆目を輝かせて操縦していた。

「すごいな。どこの水族館にもこんなのがあるのか……」

「最近は多いみたいだよ、こういうの。気持ちよさそうに泳ぐ魚を見るだけじゃなくて、海の歴史を解説したりプロジェクションマッピングを使ったりしているんだって」

「へぇ、そうなのか。面白いな」

 ある程度館内を見回ると僕たちはベンチに座って休憩を挟むことにした。

「はぁー、疲れたー」アリスは二人用のベンチに深く腰掛けながら呟いた。

「はしゃぎすぎだ。もう少し落ち着いたほうがいい」

 彼女の底知れない元気さに呆れながら注意すると「だってー」と言って口を尖らせながら弁明し始める。

「久しぶりに来たんだもん。仕方ないじゃんかー」

「結果的に体力がなくてバテてるだろ。水族館で体力切れって聞いたことがない」

「それは確かにそうだね」とアリスは可笑しそうに目元をくしゃっと細めて微笑んだ。僕は無意識にその表情から目を逸らす。

「じゃあ、君はどうなの?」

「僕か?」

「うん。初めての水族館はどう? 楽しい?」

 アリスは僕の顔を覗きながら尋ねた。「そうだな……」と間を空けて指を組みながら考える素振りをした。視線の先には息子を肩車している父親の姿があった。天真爛漫な男の子はいつもとは違う視線に高揚感を隠しきれず、遠目でも分かるぐらい興奮していた。父親もそれが嬉しいのか口を開けて大胆に笑っている。あれが本来あるべき親子の形なのだろうなと、ふと思った。

 アリスは僕の解答を待っているようでじっと見つめ続けていた。ようやく僕は口を開く。

「ちゃんと楽しんでるよ。来て良かったと思ってる」

 図書館と同じような落ち着きを得られることができていたので僕はすぐにこの水族館が気に入っていた。色鮮やかな魚たちが各々の自由に従って動いているのはなんとも言い難い心地よさを感じることができ、アリスほどの興奮は無かったが僕も案外楽しんでいた。

「そっか。それなら良かった」

 頬を赤く染めたアリスは魚たちの鱗から反射した鮮やかな光よりも数倍眩しい笑顔を見せた。彼女の笑顔は否応なく惹きつける魅力があった。どうやっても脳内に彼女の笑顔が焼き付いてしまい印象強く残ってしまうのだ。そして今日の笑顔がより脳内に刻印のように焼き付けられたことを彼女に教えるつもりはなかった。

 再度、館内を軽く歩き回って数十分楽しんでいると、閉館時間が近づいてきたので僕たちは水族館を後にした。駅へと向かって歩き始めた帰り道に僕は気になっていたことをアリスに尋ねることにした。

「アリスはどうして水族館が好きになったんだ? きっかけとかあるのか?」

「そうだなー」アリスは名残惜しそうな目で空を見上げて、後ろで手を組んでいた。「うーん」とか「どうしてかな……」と呟きながら時々手を空に翳した。その行為にどんな意味があるのかどうかはわからなかったが、霧のように不安定な中から明確な答えを探し出している最中なのだろうと勝手に解釈した。僕は黙って彼女の後ろをついていきながら答えを待つ。

 しばらくするとアリスはその理由を振り返らずに語った。

「青が好き? だったからかな」

「なんで疑問形なんだ?」

「自分でもよく分からない。ただ今でも確信して感じているのは青が好きだってこと」

「なんで青が好きなんだ?」僕は追加で尋ねることにした。

「うーん、赤色って攻撃的な色っていう感覚なんだよね、血の色とか。その反対の青色って争いの無い青空の象徴って感じがするんだよね」

「なるほど」

 なんとなくアリスの言わんとしていることは理解できた。青一色の水族館はたしかに静寂かつ穏やかな雰囲気を感じるだろう。彼女が生々しいミステリー小説を避けている理由と同じような理由で彼女の核心に迫ったような気がした。

 アリスと同じように顔を上げて空を見上げると、夕暮れにはまだ早いが僅かに星のきらめきが目に入った。僕たちは他愛もない会話を交わしながら急ぐわけでもなくアリスの歩行速度に合わせてゆっくりと駅へと向かった。

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