*** 二〇二〇年 七月三十日 木曜日
アリスと僕は蒸し暑い日差しをその身に受けながらも県内では有名な県立図書館へと訪れていた。今日は僕がデートプランとやらを披露する番だったので、僕がたまに来ている図書館で読書することにしたのだ。
「うわぁ、広いねー。こんなにも本があるんだ。図書館なんて学校のしか見たことないから驚いたよー」
アリスが目を輝かせながら図書館全体を見渡して、思わず感嘆の声をあげていた。確かに初めて図書館へ来る人からすれば大規模な本の量に驚きを隠せないだろう。実際、幼少期の頃の僕も初めて実際の図書館に訪れた際は、驚愕のあまり間抜けにも口を開けてその場に立ち尽くしてしまったほどだ。この市立図書館は僕の行きつけでもあり、初めて大型図書館へと訪れた思い入れの深い場所でもある。
一度目は例の少女に連れられて、二度目以降は中学二年生になってからになる。あの頃は相対的に巨大な部屋のように見えたので、海外ドラマにあるような超大型ホテルを目の当たりにしている感覚だった。もう高校生になったのでそんなイメージはすでに持っていないが、それでも大型の図書館には違いなかった。
リラックス効果と騒音軽減を狙ったスカイブルーのカーペットの床に、人二人分の間隔で本棚が並べられておりぎっしりとカテゴライズされた本たちが敷き詰められている。天井に取り付けられたライトは物柔らかな光源として機能し、時間がゆっくりと進んでいくような雰囲気を作り出していた。僕たちは先に席を確保してから互いに本を求めて館内に散らばった。
僕はひとまず館内をひたすら歩き回って、ゆったりとしたこの空間に溶け込むことした。音一つ立てず歩きながら綺麗に並べられた本の背表紙たちに触れていく。弦を弾くようにして不規則なテンポで撫でていると、次第に僕の心は穏やかになっていった。
僕はあの頃からこの図書館が好きだった。図書館や図書室の中で唯一、心から安らぎを得ることができるかけがえのない場所だった。他の図書室や図書館は少なからず雑音が耳に入ってしまったり、心が騒ついたりして目の前の物語に集中できなかった。しかし、この図書館だけは僕の読書を妨げるものは一切なかった。いくつか理由は考えられるが、主な理由は二つだと思う。
一つ目は他人の視界を上手く遮ってくれる本棚と椅子の設置間隔が広いことによる他人の存在感の無さだ。他人との距離に敏感な僕にとって他人の存在感の有無は生きる上での必須の確認項目である。この図書館は上手い具合にその他人の存在を掻き消してくれる場所だった。等間隔に設置された本棚が他人と重なることで互いに視界が遮られ、天井から吊るされたペンダントから照度の低いオレンジ色の光が優しく僕を包んでくれるのだ。基本的には風を感じられる場所で小説を読むが、たまにこの図書館に訪れて本に囲まれながら読むこともある。この図書館の中で一番落ち着く場所だった。
そして最後、二つ目は例の少女が教えてくれたからだった。色々理由付けはしたが、単純にこの理由が一番大きいように思える。初めて訪れた際、きっかけを与えてくれた少女が私のお気に入りの場所だと言って僕に教えてくれた。僕の片手を引きながら、棚に敷き詰められた本を心底楽しそうに眺める少女を見ているだけでも十分楽しかったのをよく覚えている。
僕たちが一通り館内を巡った後、少女は本についていろんな事を教えてくれた。哲学書は人生を彩るもの、自然科学や社会科学に関する本は人類の助けになること、歴史書はこれまで生きてきた先祖の証を追体験できるものなど様々な解釈を繰り広げてくれた。その中でも僕が目を引いたのは文学だった。少女の言葉を借りるのであれば、文学書は心を塗り替えることができる素晴らしいものらしい。小説というものは僕たちに第二の物語を与えてくれる存在で、僕自身に欠けた何かを補ってくれるのではないかとなんとなく感じたのだと思う。あの子も本の中で一番小説が好きだと興奮気味に教えてくれた。
こうしてこの図書館は僕にとって重要な場所となった。あれ以降、あの少女とここを訪れたことはないが、時々こうやって本に触れていきながら思い出すことで感傷に浸っている。
音一つ鳴らないカーペットの床を蹴って、複数ある本棚の周囲を一周して一瞥してから別の本棚へと移動してゆく。たまに人とすれ違いながらも僕はあらゆる物語を覗いては今日読みたいと思えるような本を吟味していた。僕がこよなく愛しているのは小説だが、学術書や専門書を全く読まないというわけでもない。この図書館に訪れた時だけ気まぐれに手に取っては目を通すほどだが、たまに興味のある分野があれば普段通りの集中力で読むことだってある。この前来たときは、数学者の歴史をまとめたものを確か読んでいた気がする。
ちょうど自然科学エリアに足を踏み入れたので、どんな内容だったか思い返しながら本棚に見渡して歩き回った。
すると、見知った影が視界の端に映った。枝毛一つない黒髪に深くかけたメガネ、間違えようがなかった。特に話しかける理由もなかったので踵を返そうとしたのだが、本を手に取る際に彼女はこちらに気付いたらしく視線を僕へと向けた。
「「あっ」」互いの声が重なり、目が合ってしまった。ここで無視する意味もないし、本に関する立ち話なら多少であれば問題なかったので声を掛けることにした。
「おはよう。一ノ瀬さんもよくここに来るのか?」
「おはよう。いや、初めてだよ。この近くを通りかかった時にたまたま見つけて」
「そうか」
一ノ瀬さんは片手に持つ本に視線を落として呟き、僕は高所に配列された歴史書を取り出してページをぱらぱらと捲りながら相槌を打った。一ノ瀬さんは僕に比べてはるか膨大な本を嗜む人種だった。僕が文学の中でも小説を好むのに対し、彼女にとってはこの世に存在する本全てが興味を引くものなのだ。本には作者の魂や想いがこもっており何かしらの知識を与えてくれるものだ。だからかもしれないが一ノ瀬さんはとても博識で学年でもトップになる程よく勉強ができる。しかし、その蓄えた知識を誰とも語り合えないのは寂しいものだろう。他人と関わりたくないはずなのに、感想を語り合うことができる人間が欲しいという矛盾を抱え込んでいる。
出会った当初、彼女とは面識はありつつも特に話すことはなかったが、中学二年生に上がった頃に小説の感想を交換し合うようになった。当時の僕は彼女から声を掛けられるとは思ってもおらず、若干の沈黙が流れてしまった。だがどんな人物かはなんとなく理解していたのでアリスのように警戒することはなく、彼女の申し出を了承した。互いに利害が一致したという感じなのだと思う。それから一ノ瀬さんとは小説の感想を伝え合ったり小説を勧めたりするような仲、と言っても友達ではなく孤独仲間とやらになった。
ここは僕のお気に入りの図書館なのだと紹介したり、彼女の最近読んだ本について教えてもらったりと多少の会話をかわしてから僕はある事を思い出した。
「あっ、忘れてた」
「どうしたの?」
彼女は視線を固定したまま、僕の声に淡々と反応する。
「次は僕の番だったよな。いま小説も感想を書いた紙も持ってきてないから、今日は渡せない」
「別にいいよ、待ち合わせしてたわけじゃないし。学校が始まってからでいいよ」
「そうか、わかった」
なんとなく共に行動しながら本棚を巡り回る。僕は時々だったが、彼女は三歩歩くごとに本を手に取っては立ち止まってざっと視線を走らせていた。本当に本が好きなのだと感心していると彼女は「もう帰ろうかな」と一言呟いた。
「もう満足したから」
「わかった。じゃあまた今度、学校で。次は持っていくよ」
「うん、また」と一ノ瀬さんが帰りの挨拶を口にしかけた途端、彼女の視線は僕から後方の何かへと移動して固定されてしまった。同時に彼女は口を開いたまま、次の言葉を発することはなかった。
様子がおかしい彼女に「何かあったのか?」と尋ねると、すぐに意識を取り戻したかのように「ううん」とかぶりを振ってなんでもないと答えた。昔の知り合いを見かけたとのことらしい。なんとなく様子のおかしかったのが気になっただけなので、それ以上の踏み入ることはなかった。
一ノ瀬さんと別れてから適当に本を見繕うと僕は取っておいた座席へと戻ることにした。自然科学エリアで今度は天文学に関連する本を一冊手に取り、文学エリアを通り抜ける際には青春小説二冊を本棚から取り出した。いくつかの本棚を通り過ぎるとアリスがミステリー小説の並べられた本棚の前に立っていた。
多分、本棚から取ったであろうミステリー小説を両手に持ちながら読んでいる、と思ったのだが少し違った。彼女の視線の先は本ではなく地面をぼんやりと視線を落としているようだった。それは初めてアリスに出会った時の印象に近かった。吸い込まれそうになる双眸は細く萎み、口角は横一線に引かれている。同じ容姿なのにも関わらず、あの時に感じた力強さが一切損なわれてか弱く哀愁が漂った印象を受けた。
「アリス、大丈夫か」
「えっ、あ、うん。大丈夫だよ、ちょっと読んでただけ」
浮かない顔をしたアリスは空元気を出してぎこちなく笑った。口角を上げて目を細めながら笑顔を作っていたが、仮面を張り付けたようなもので心から笑っているようには見えなかった。 アリスが手に持っていた小説が気になって「何を読んでいたんだ?」と努めて無表情に僕は尋ねた。
「有名なミステリー小説みたいだから気になったの。ちょっと読んでみようかなって思って」
タイトルを覗き込むと、僕も知っている有名な作家が執筆した復讐系ミステリー小説だった。残忍な虐めによって自殺へと追い込まれた友人の仇を打つため、主人公の女学生が復讐の鬼と化すという物語だ。主人公や登場人物の狂気を描いた描写と殺人における生々しい表現が話題になっている。
「でも」とアリスが言葉を続ける。
「描写があまりにもリアルすぎて、ちょっとまだキツかったよ。また今度かな」
アリスは元気がない様子で手に持つその小説を本棚へと戻した。この小説は暴力的な描写がえげつないので、僕も読むことは中断したまま続きを読んだことがない。あまりにも胸糞悪かったので僕は受け付けなかった。この先、多分一生読むことがない小説のうちの一つだ。となれば読書を始めてまだ一週間ほどのアリスにとってその過激さはより鮮明かつ生々しく映ってしまっただろう。珍しくミステリー小説を読むのだなと思ったが、もう読めるだろうと思い挑戦してみたのかもしれない。アリスはとぼとぼと覇気のない様子でライトミステリーの本棚へと移動して一冊手に取った。彼女にとってライトミステリーあたりが今の限界だろう。僕たちは互いに興味のある本を手に持って座席へと戻り、隣り合う形で着席した。この図書館には個人用と複数人用の読書机が設置されおり、僕たちは複数人用の読書机に置かれた椅子に座っている。多くの利用者が一人で来ることが多いので自然と複数人用の読書席は空席が多く、アリスと僕以外に数人の客が席に座っているほどだった。
ちらりとアリスの方を盗み見ると、読書に集中しているようで瞼とページを捲る手しか動いていなかった。先ほどの元気のない様子はなく物語に耽っているようだ。視線を小説へと戻して僕も読書に耽ることした。
一ページ目を開き、目次にざっと目を通す。またページを捲ってプロローグと書かれた文字を念頭に入れて、僕は物語の海へと飛び込んでいった。
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