*** 二〇二〇年 八月九日 日曜日

 もうアリスと会うこともないだろうと僕は思い込んでいた。彼女の行動を考えれば、遭遇する可能性のある高架下や学校にさえ赴かなければアリスの人生と僕の人生が一生交わることはないはずだと。

 なんとなくいつもの中型書店へ行き、ぶらぶらと店内を意味もなく歩き回っていたときだった。前方から見知った女子が現れたのだ。見間違えようのない、力強い双眸を持ちながらもミスマッチな笑顔で人々を魅了させる人。僕が一方的に関係を断ち切ろうとした彼女だった。

「アリス……」

 気づいた時にはすでに遅く、僕は彼女の名を無意識に呼んでいた。呼び声によって向こうも僕の存在に気付いたらしく、こちらを振り向いて目を見開いて唖然とした後、気まずそうに顔を隠しながら視線を逸らしていた。僕たちの間に流れる沈黙が物凄く心地悪かったので、僕も彼女と同じように目線を合わせなかった。このまま立ち止まっているわけにもいかなかったので彼女を避けてこの場を離れようとしたが、急に片手をがっちりと両手で掴まれたために逃げ出すことができなかった。振り返らずとも誰がそのような行為をしたのかは明白だった。どうやら彼女は勇気を振り絞ってでも僕と会話することを選択したらしい。

 僕はすぐにこの場を離れることを諦めてアリスに「高架下に行こう」と視線をそのままにして提案した。アリスもぽつりと「分かった……」と呟き、僕が先行する形であの高架下へと向かった。

 アリスと隣り合って座り込んでからも僕たちが会話を交わすことはなかった。互いにどんな言葉を繋ぎ合わせたらいいのか分からなかった。

 高架下へ向かっている途中も互いに終始無言だったが、街中を歩いている間は周囲の喧騒があったために様々な声や音が耳に入ってそこまで静けさを感じ取ることはなかった。だが今現在は、この世に僕たちしか存在しないかのような錯覚に囚われているほど不自然に静寂だった。

 強いて言えばアリスの息遣いと服の衣擦れの音、僕の心臓が激しく脈打つ鼓動音だけがやたらと耳に入った。彼女が頭を一生懸命働かせて次にどうすべきかを考えているのが分かる。きっとアリスのことだから僕が黙っているのは自分のせいなのだと責任を感じているのだろう。あくまできっかけなのであって彼女のせいではない。謝罪すべきなのは突然腕を振り払って君を意味も無く拒絶した僕なのだ。

 そんなことは頭で理解しきっているはずなのに僕の口からは何も出てこない。下を向きながら何度も口を開いて何か言葉にしようと思っても、舌を切り取られたかのようにぱくぱくと口を動かすだけでどうにもならなかった。同時になぜ言葉を紡ぐことができないのか分からなかった。

 いつの間にか三十分ほどが経過した。静寂を破ったのは僕ではない、意を決した様子のアリスの方だった。

「あのときは……ごめんね」

 アリスの震えた声が僕の耳に届く。彼女から謝らせた僕自身に僕は腹が立った。

「きっと、私が知らないうちに君を傷つけたんだよね……。本当にごめんね……」

 彼女の謝罪と僕自身へと苛立ちが入り混じって僕の心に嵐が吹き荒れる。

「……もう終わりにしようか」

 その一言で僕は一気に現実へと引き戻された。隣に座っていたアリスは立ち上がって……涙を溢している。

「本当は夏休みまでの予定だったけど、今日までにするよ。今まで私のわがままに付き合ってくれてありがとう。すごく……すごく、すごく楽しかった!! ありがとうね、バイバイ」

 無理して雰囲気を明るく見せようとした彼女の姿が実に痛々しかった。彼女が僕の目の前を去ろうとしている、僕との関係を終わらそうと。さっきまでの僕なら受け入れていたはずだ。アリスが僕たちの関係を終わらせたいのならそれに従うべきだと。だけどアリスは泣いている。僕たちの関係を終わらせるのが彼女の本心ではなく僕を考慮した上での諦めという結論であるなら、僕はアリスと……。

「悪かった……。君は悪くないんだ、自分勝手だけど僕は、本当は……君と友人になりたい!」

 僕は衝動的に立ち上がって去ろうとしているアリスの腕を掴んだ。アリスは足をぴたりと止めて僕の方へとゆっくりと振り返る。アリスの目元には多くの涙が溜まっていて彼女には似合わなかった。再び涙が溢れそうになるのを堪えているようで口元に力が入っている。

 この隙に僕はありのままの言葉をアリスにぶつけた。僕の声が高架下に何度も反響したがお構いなしに言葉を吐き続けた。

「僕は怖かったんだ……、友人になってから僕の本心を曝け出したらいつか君を傷つけるんじゃないかって。笑顔が似合う君に苦痛を浮かべた表情をさせるのが怖かった。だから友人にさえならなければ、赤の他人として僕の本当の姿を曝け出す必要はないと思った。だけど……僕は君を傷つけてしまった。だからこそ、もう僕は君と会うべきじゃないって……そう思ったんだ。本当にごめん、アリス」

 僕の言葉が吐露し終わると、少しだけ間を空けてアリスは僕に質問した。

「じゃぁ、私のことを嫌いになったわけじゃないの?」

「嫌う? 君を嫌うなんてない。君は何に対しても無邪気な笑顔を浮かべていつも楽しそうにしているじゃないか。君を嫌うことなんて絶対にありえない」

 アリスを嫌うなんてことは万に一つもありえない。僕は君のその笑顔を間近で見続けたから君のそばにいたいと思うようになったのだ。

「ほんと?」とアリスは恐る恐る僕に尋ねた。

「ほんとうだ。だからあの時の理由や僕のことを話した上で、僕は君と友人になりたい。僕の話を聞いてくれないか、アリス」

「……分かった。君のこと、私に教えて」

「あぁ」

 それから僕はアリスに全てを話した。あの日見た夢のこと、それが原因であの日アリスを傷つけたこと、僕には善意が欠けていること、僕には唯一の友人がいたこと、それ以降は友人を作らないようになったこと、アリスの容姿がその友人に酷似していたこと。何もかも話している間、僕の声は震えっぱなしだった。しかし、アリスは真剣な眼差しで僕の話に耳を傾けてくれた。

「――ということなんだ。僕の中で君が重要な意味を持つことに気付きたくなかった。認めてしまったら僕は君と友人になりたいと思っていることになるから。僕は君を傷つけたくないし、僕の全てを見せて否定されるのが怖い。だから僕は君と一線を引くことで自分を守っていたんだ」

 ありのまま全て告白し終えると、アリスはしばらく間を開けてから「君は……」と言葉を口にし始めた。

「君は……一生懸命、完璧で正しくあろうとしているんだね」

「正しく?」

 彼女の言葉の意味が僕には理解できなかったので、口を開かず耳を傾けた。

「うん。君は友人が全てを曝け出すものって考えているけど、それは違うと思う。全てを曝け出して偽ってはいけないなんて苦しすぎるよ。君にとってそれは上辺の関係のように見えるのかも知れないけど、隠して当たり前なんだ。すぐに何がなんでも晒し続けてしまったら、きっと壊れてしまうよ」

「……」僕は彼女が紡いでいく言葉に黙り込んだままだった。

「君は君自身を否定しすぎなんだ。善意が欠けた人間なんてそこら中にいるよ。その中でも君は明確な悪意を持って他人に危害を与えようとしているわけじゃないでしょ。むしろそうなってしまうことを恐れてる。それって偽善なのかもしれないけど、他人にとっては優しさと同じなんだ。君は善意が欠けていても優しい人なんだよ」

 諭すようにかけてくれた彼女の言葉が僕にはまるで理解できなかった。他人に優しいのと人が持つ善意とは同義のはずだ。

「僕が優しいって? 僕は一度も君に対して優しくした覚えはない。そんな僕が優しいなんて思えるわけない」

「そうかな。君に自覚はなくても私からすれば優しかったよ。夏休みを私と過ごすっていうわがままに付き合ってくれたし、お気に入りの図書館だって教えてくれたよね」

「前者は君が学校へ来るって言い出したから君の提案にのったほうが面倒臭くないと思っただけで、後者は気まぐれだ」

「本当に面倒なら学校を休んで家に閉じこもればよかったんだよ、君はそうやって避けるタイプでしょ? それに気まぐれで教えてくれたとしても私は十分嬉しかったんだ」

 アリスに何を言っても無駄な気がした。どんな言葉をぶつけても彼女によって上手く言い返されてしまうだろう。

「私は……君の読書している横顔が好きなの」

 脈絡のない言葉に僕は何も言えなかった。真意を計りかねていると彼女は続けて言葉を紡ぎ始める。

「君は私にとって憧れなんだ。一生懸命になれるものが私にないから、小説というものと本気で向き合っている時の君がかっこよく見える。だから私は君と一緒にいたい。それだけじゃダメかな?」

 何故だか僕はその言葉に無性に泣きたくなった。こんなにも僕のことを肯定してくれているのが不思議でならないが、想像を絶するほどに嬉しくもあった。どうしようもなく抑えることができない感情の濁流によって、目頭が熱を帯びて涙が溢れそうになる。涙に堪えるのに必死で口を開いて話すことができなかった。

「今は君に、私の全てを曝け出すのはまだ難しいけど。いつか私自身のことも全部君に話せたらいいなって、私は思ってる」

 アリスの優しさが心に染み込んでいく。

「僕は、また君を傷つけるかもしれないし、たぶん僕自身を肯定するのに結構な時間はかかると思う。それでもいいのか?」

 僕は僅かに震える声を発しながらもアリスに問いかけた。彼女は無言で少しだけ笑いながら頷く。僕は覚悟を決めると心の準備をしてからアリスの真正面を向いた。

「僕と……友人になってくれないか。アリス」

 ようやく僕はありのままの本心をアリスに語った。彼女は「もちろん」と微笑んで答えてくれた。

「辛いのに話してくれてありがとう」

 僕たちはこうしてまた同じ時間を過ごす赤の他人ではなく、大切な『友人』へと変化した。僕にとっては二人目の大切な友人だった。

 仲直りが終わった後、涙を溢したアリスの泣き顔と僕の泣きだす直前の顔に互いに笑い合った。二人の高校生が高架下で泣き合っている状況があまりにも可笑しかった。最初に吹き出したのはアリスで、泣き笑いするアリスに続いて僕は我慢していたはずの涙を溢しながら、泣いた時間を取り戻すかのように一緒になって盛大に笑った。僕たちの笑い声は周囲に反響して小道を歩いている人たちにきっと聞こえてしまっていた。しかし、そんなことはお構いなしに僕たちは友人らしくただひたすら笑顔で同じ時間を過ごした。

 その行為に終わりが来るとアリスの自宅へと一緒に向かった。道中、この四日間のことを互いに話し合った。僕が高架下へ行ったことを伝えると、アリスは頭を掻きながら事情を説明してくれた。実はその日、体調を崩していたらしく、向かおうにも行けない状況だったらしい。別に彼女に拒絶されたわけではなかった。

 数十分歩いているとアリスの家が姿を現した。江戸時代のような塀に囲まれた古くから残る伝統的な自宅で立派なものだった。よくドラマで見るような木造の門があり、彼女がお嬢様だということを改めて認識した。今は高校に通うため家族とは離れて一人で住んでいるらしい。おそらく別荘のようなものだろうと僕は納得した。

 黒塗りの門の前で明後日の予定を決めた。明日はアリスの学校の登校日なので明後日に集まることになった。ついでに僕たちはいつでも連絡を取れるようにしとこうと話し合って電話番号とメッセージアプリのIDを交換した。

 ある程度の予定を決めると、僕たちは別れの挨拶を交わした。

「じゃあね、また明日」

「あぁ、また明日」

 こうやって明日の約束を交わせていることが僕は嬉しかった。

 やってきた道を戻る際に何度か後ろを振り返ると、その度に門の前にいるアリスが何度も手を振ってきて僕はそれに応えた。自然と顔が緩み、笑みが溢れる。小説以外でこんなにも明日が待ち遠しいと感じたことはないほど、僕は明日以降のアリスとの日々が楽しみだった。

 同時に僕はアリスの過去を知りたいとも思うようになっていた。どんなふうに家族と過ごして、どんな学生生活を送っているのか。昔はどんなものが好きで今はどんなものに興味を持つのか。

 僕はそこで気付いた。僕は彼女の現在は知っているが、過去については知らなかった。多少であればアリスとの会話で家族との思い出など聞いていたが、詳しく彼女のこれまでについて聞いたことはなかった。僕が彼女を赤の他人だと思い込むようにしていたので仕方がないだろう。逆にアリスは一方的に僕に質問ばっかりしていたので、僕の根深い問題を除いたものに関しては知っているだろう。僕がアリスについて知っているのは彼女のほんの一部でしかないのだ。

 これから彼女のことについて質問する機会も増えるだろう、何故なら僕たちは友人なのだから。僕は頭の中で彼女について知りたいことを考えてリストアアップしてゆく。

 今からでも遅くはない。少しずつアリスに知っていけばいい、と僕は考えて駅へと向かった。道中、今日の出来事をどのような形で日記に書こうか言葉を選び取っていた。

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