*** 二〇二〇年 七月二十一日 火曜日

 放課後、借りていた小説を返却しようと学校の図書室へ向かった。教室のある三階から一階へ降りて丸出しになっている廊下へ出ると、サッカー部員の掛け声がグラウンドからこの廊下まで聞こえてきた。どうやら練習試合をしているらしい。反対側の校庭にはダンス部が女子と男子に分かれてそれぞれ練習に励んでいる。この高校のダンス部はどうやら男子の方が技術的に高く、この前の府大会では全国大会に出場できる高校のうちの一つに選出されていた。以前正門から登校した時、出場を祝う旨が書かれた垂れ幕が校舎の側面に垂らされているのを見かけたことがある。惜しくも全国優勝まではいかなかったらしいが、県代表になるほどだから強豪校なのだろう。ど派手にビートがのった曲に合わせて部員が激しく動き回っているのが視界の隅に映る。こういうヒップホップやEDMといったアップテンポの曲はあまり好きではなかったので、逃げるようにして僕は足早にこの場を去った。

 この高校の校舎は王の形に建てられており、下から順にC棟、B棟、A棟と呼ばれている。ダンス部が練習しているのはB棟とA棟の間の瓦礫に敷き詰められた庭で、僕の目的である図書室はA棟の一階の左端に位置していた。今いる廊下からA棟に入って角を曲がる。そのまま廊下を直進すると僕がこよなく愛する本の宝物庫へと到着した。開け放たれた扉の横の掲示板には今月のお勧めの本を紹介しているビラが多数貼られている。軽く確認してから図書室へ足を踏み入れた。

 図書室へ入室すると、充満していた紙特有の匂いが僕を迎え入れてくれる。いつものように一度深呼吸をして、思う存分香りを楽しんだ。周囲を見渡すとありがたいことに利用している生徒は数名見かける程の人数だった。放課後に図書室に用がある人は少ないし、この間期末テストもちょうど終えたからだろう。とりあえず借りていた小説を返却するためにカウンターへと向かう。図書委員に返却の旨を伝えて借りていた小説を返却し、諸々の手続きを済ませる。

 目的を果たすと、せっかくなので読書してから帰宅することにした。例の場所があの女子学生に占拠されている可能性を捨てきれなかった。カウンターと読書用の机の間を通って図書室の奥へと歩いていく。左右に連なって並んでいる本棚を横切ってどんどん奥へ進むと、ぽつりと設置されている対面式の六人用の机が見えてきた。右端の席には、メガネを深く掛けた黒髪ロングの女子生徒が静かに本を読んでいる。僕は対角線上にある席について読書に集中し始める。しばらく持ち込んだ小説に読み耽っていると、視界の左端から一冊の小説とびっしりと文字で埋められたメモ用紙が差し出された。その主は端に座って読書していた黒髪ロングの彼女だった。

「……これ、おすすめだよ」

「ありがとう、いちさん」

 僕は表情何一つ変えずに礼を言って差し出された小説とメモ用紙を受け取った。

 いちかすみ、僕の唯一の読書仲間でクラスメイトだ。仲間と言っても友達ではなく、あくまで古くからの知り合いである。僕も一ノ瀬さんも教室内では一心に本を読んで過ごしており、お互い会話を交わすことはない。たまにこの図書室だけで小説に関することを意見交換する程度だった。小説以外の互いのプライベートには一切干渉しないので、気を遣う必要がなく知り合いとして接することができている。それは一ノ瀬さんも理解していることで、互いに友人は必要ない、小説に関して交流できればそれでいいと考えていた。彼女とは幼少期の頃に知り合ってこの高校で再会した。それからはこうやって一ヶ月に二回ほど小説をお勧めし合っている。お互いに気が向いたら図書室に赴いて、相手がいれば感想を書いたメモを小説と共に渡すといった感じで、決まった日に交流するわけではない。一度も図書室で会わない月だってあるぐらいだ。前回は十二日前に僕が感想を手渡したので、今日が彼女の番だった。僕は一ノ瀬さんから受け取ったメモと小説を片手に持ってカウンターへ向かう。先程と同じ図書委員に貸し出しの手続きをしてもらい、図書室を後にして昇降口へと歩いていく。専用のロッカーから下履きを取り出して、上履きから履き替えた。

 正門の近くまで歩いていくと、おかしな光景が視界に入った。僕と同じく帰宅部であろう生徒たちが正門を通り抜けると、全員が門の端に視線を向けているのだ。訝しげな視線を送る女子生徒もいれば、こそこそと何か話している二人組の男子生徒たちもいる。正門を抜けて彼らと同じように一瞥する。

「よっ」

 僕は間抜けにも口を開けて、驚愕のあまり動かしていた足を止めてしまう。目の前にいたのは高架下で出会ったあの彼女だった。紺色を基調としたチェック柄のワンピースを着ており、制服よりもさらに大人びた雰囲気を纏っている。思考が定まらず咄嗟に言葉が出ない。

「昨日ぶりだね」

「なんで、ここに……」

 頭の中に浮かんだ疑問をかろうじて言葉にする。

「なんでって、やっぱりどうしても君と友達になりたかったから」

「……言っただろ、友達にはならないって」

 僕は目を背けて答える。彼女がここに来るとは思わなかった。僕が彼女の制服を見て在学している高校が分かったように、彼女も僕の制服を見てここの学生だと分かったのだろう。もう少し警戒してもよかった。きっぱりと断ればもう会うことはないと決め込んでいしまっていた。 門を通ってきた生徒達が僕達に視線を向けながら追い越してゆく。制服姿の男子と私服の女子が門の前で何か話し合っている光景はどうしても注目を集めてしまうだろう。そのうち注意しに教師がやってくるかもしれない、それを察したのか彼女は「とりあえず、喫茶店でも行こうか」と言って駅へと歩き始める。自宅へ帰るにしても駅に向かわなければならないので、仕方がなく彼女の後をついていくことにした。

 学生で溢れかえっている駅に到着すると、僕と彼女は近くの喫茶店へと入った。店員に案内された座席に彼女と向かい合う形で着席する。彼女はココアを、僕はブラックコーヒーを注文するとすぐにテーブルに運ばれた。

 会話を切り出したのは僕の方だった。

「何回言われても無理なものは無理だ。君とは友達にはなれない」

「なんで? 昨日お喋りしたし、こうやって二人でお店にも来たんだよ。もう友達みたいなものじゃないかな?」

「君が勝手に待ってたんだろ。僕は強引に連れて来られただけだ」

 淡々と答えると、彼女は「強情だなー」と呟いて拗ねた様子で窓の外を眺めた。昔から僕は人として抱くはずの感情のうち一つだけが周りに比べて一際薄かった。よく映画や漫画で『この薄情者!』という台詞があるが、まさしくこの言葉を浴びる側の人間に僕は近い。他人のために優しくする理由が分からない、他人のために自分を犠牲しようとする意味が分からない。優しさや心配などといった感情を僕は理解できなかった。これらは善意に付随するもので、僕は人として当たり前に備わっているはずのこの善意に疎かったのだ。クラスメイトが大怪我をしてもどうでも良かったし、虐められているクラスメイトを見てもどうも。

 となれば当然友人などできるはずもなく、中学生に上がる頃には僕は孤独になっていた。だけど、それを苦痛とは感じなかった。なぜなら僕には小説があったからだ。皆がカラオケで歌って騒いだり、恋人と甘い時間を過ごしたりしている中、僕はひたすら小説と向き合っていた。幸いなことに両親はそのことに対して口出しはしてこなかった。

 だから僕は友人を作ろうとはしなくなった。小説があれば独りでも構わない、むしろ孤独の方が都合良かった。無理して他人に合わせて退屈な日々を過ごさなくて済んだのだから。

 過去の記憶を思い返しながらコーヒーに口をつけて飲み込む。彼女はどう見ても一般的な女の子で、僕のような人種とは関わるべきではない。この違いは友人関係を築く上で大きな妨げになるだろう。心の奥底にもやっと霧がかかるような感覚を覚えた。

「なんでそんなに友達はいらないって拒否するの?」

「独りが好きなんだ。僕にとって他人と関わることは、面倒臭くて鬱陶しくて煩わしいものだ」

 人と関われば必ず善意が見え隠れする。その点、一ノ瀬さんとの関係には善意が必要なかった。一ノ瀬さんとは互いに小説を読んだ感想や意見を言い合って、多種多様の面白い小説を共有することだけを求めているから、純粋に心地が良いのだ。僕という人物に対して感情を抱かず、黙々と小説について語ってくれる。たとえ相手の家族が亡くなって涙を流していたとしても、僕達はいつも通り接して励ましたり慰めたりはしないだろう。一ノ瀬さんとはドライな関係なのだ。それも一ノ瀬さんは理解してくれているはずだ。しかし、彼女はそういう関係ではなく友人としての立場を要求している。それが大きな隔たりで問題だった。

「じゃあさ、友達にならなくてもいいから、夏休みだけ一緒に遊ぼうよ。夏休みが終わったらもう会わないからさ」

 友達になるのはどうでもよくなったらしい。むしろ彼女にとってそっちが本当の目的ではないかと疑ってしまう。

「もし、断ったらどうする気だ?」

「毎日、君に会いにいくかもね」 満面の笑みで彼女は即答した。昨日と今日の彼女の行動力から夏休みまでの学校生活を想像すると、背中に悪寒が走った。

「……夏休みだけだぞ」

 僕は渋々了承した。彼女の行動力には二度驚かされている。毎日学校に来られるのも面倒だったし、下手をすれば僕の自宅の住所を調べ上げてそちらにも来そうだった。夏休みはひたすら読書に充てようと計画していたのだが、早速予定が頓挫して思わず溜息をついた。

 そんな僕を気にも留めないで彼女は「やった!」と無邪気にはしゃぐ。様々な感情のうちの一つが欠落している僕にとって、コロコロと変わる彼女の表情の豊かさに少し羨ましく感じた。もし僕に至極当たり前のように善意が備わっていれば、彼女のように誰かと笑い合ったりできたのだろうか。

 僕にとって人生のターニングポイントは例の親友と出会った日だと確信を持って言える。あの少女と出会ったことで良くも悪くも僕に変化を強いられた。あの少女と別れる前の僕は今に比べて感情を表に出していたと思う。嬉しければ素直に喜び、むかついたら素直に怒りをぶつけた。ではなぜ僕が今のような性格になったのかというとあの少女と離れ離れになったのが大きな要因だった。ある都合によって彼女と僕は引き離されて、それ以来連絡を取ることはなかった。それからというもの、唯一の親友を失った僕は以前より増して食い入るように読書に集中するようになった。他人と関わることが少なくなると感情を表に出す回数は必然と減少してゆく。自然と人と関わることがなくなっていた僕は感情が表に出にくい人間へと次第に変化していき、今のような人間へと悪変したのだ。

「じゃー、今日はもう帰ろうか」

 彼女に賛同して席を立つ。肩を落としながら彼女の提案に了承した後、明日以降の予定を聞かされた。夏休みがいよいよ始まる二十七日までの五日間で夏休み計画を立てるらしい。明日は十六時半に高架下に集合で作戦会議を開くとのことだった。

 会計の際、財布を鞄から取り出そうとすると彼女が「私が払うよ」と言って僕の分も支払いを済ませてしまった。彼女曰く、自分が強引に連れて来たからという理由だった。小説以外にはあまりお金を使いたくなかったので、ありがたくその厚意に甘えることにした。

 喫茶店を出て彼女と一緒に改札口へ向かおうとすると、彼女が「私、こっちだから」と言って僕とは逆方向を指差す。どうやら彼女はこの駅に併設している本屋に用事があるらしくここで別れることとなった。熱心に小説を読んでいた僕に影響されて少しだけ小説に興味を持ったらしい。

 互いに別れの挨拶を交わしていざ自宅へ帰ろうとすると、ふと重要な疑問が脳裏をよぎった。僕の人生においてその機会が極端に少なかったので忘却の彼方へ消え去ってしまっていた。すぐに振り返って少し離れた彼女にその質問を投げかけた。

「そういえば、君の名前は?」

「あ! そういえば教えてなかったね」

 彼女は立ち止まって顔だけ振り返ると、顎に指を置いて思い出したかのように呟いた。僕と同じようで忘れてしまっていたらしい。案外、彼女は天然なのかもしれない。

 彼女が改めてこちらへ体を向き直すと、微笑みながら自分の名を名乗った。

「私はねー、アリス!」

「アリス? それって本名なのか?」

 返ってきた名前が日本とは思えないほど違和感のあるものだったので思わず訊いてしまう。

「まぁ、ニックネームみたいなものかな。本名は秘密!」

 彼女はにかっと悪戯っぽく笑った。名前が分からなければ不便だと思って訊いただけなので、本名でもニックネームでもどちらでもよかった。

 彼女が口に出した名前を反芻する。アリス、僕にとってアリスという名から連想されたのが純粋無垢な少女というイメージだったので、彼女に相応しい名前だと思った。

「バイバイ、また明日」

「あぁ」と短く答える。

 こうしてアリスと僕の物語が幕を開けた。これからアリスと過ごすであろう日々に面倒くさいなと溜息をつきつつも、僕は彼女と一緒に居られることに錯覚ながらも喜びを感じていた。たとえ、彼女とあの少女の面影が同一のように思えてならなかったとしても。

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