*** 二〇二〇年 七月二十日 月曜日

 あの変な女学生と出会した日から一週間が経過した。僕はいつも通り学校が終わって帰路に就いている最中だった。学校の門を通り抜けると、ちょうど正面の信号が青に変わったので二メートルほどの短い歩道を渡る。帰宅部と思われる男子生徒の集団が自転車に乗って騒がしくしながら僕のすぐ隣を駆け抜けていく。速度を落として上り坂を登っていた僕は自宅ではなくあの高架下へと向かっていた。ここ最近、僕は例の彼女のせいで読書に集中できなくなっていた。意味不明な女に意味のわからない誘いを受けたのだ、当然だろう。

 他にも読書に耽ることができる場所はあったのだが、今日はあの高架下でどうしても読みたい気分だったので仕方なく足を運ぶことにした。さすがに一週間も経過すれば居なくなっているだろうと鷹を括っていた。学校からの最寄り駅に着くと電車がまだ来ていなかったようなので、階段下の待合室に入って電車の到着を待つことにした。周囲には僕と同じ制服に身を包んだ生徒が多く、私服やスーツを着た人の姿はあまり見かけなかった。

 電車が到着すると、後方の車両に乗り込んで空いている座席に腰を下ろす。読み終えた小説の感想をメモアプリに打ち込んだ。読み終えて抱いた感情、物語としての構成、結末。時間を掛けて内容を咀嚼し、抽象的なイメージを言葉へと変換する。書き連ねた文章の順番や誤字脱字の訂正、ニュアンスを変えるために細い修正を加えていった。完成した文章を読書コミュニティサイトに投稿してから息を吸う。普段から読み終えた小説の感想を投稿するのが僕の日課だった。僕が書いたこの感想は先週読み終えた自殺未遂をした少女と止めることができなかった主人公のあの物語だ。結局、少女が意識を取り戻すことはなく主人公が彼女の手を握りながら涙を零している場面で物語は幕を閉じた。

 何ともやり切れない結末に多くの読者は困惑しており、それはサイトのレビューを見れば一目瞭然だった。コメントの内容を見ると否定的な感想が多く、面白いと感じたコメントはごく少数に思えた。僕はどちらかと言うとその少数派の意見に近かった。確かにこの物語には救いがない、あったとしてもかろうじて少女が死なずに済んだことだけだ。僕はこの物語には現実的な内容が含まれていると思えてならない。自殺を決行しようとしている大切な人間を止めることは困難を極め、それを引き止めることは現実において不可能に近いはずだ。きっとこの世で自殺者を引き止めることができるので数パーセント、ほんの一握りだろう。この物語はその残酷性や問題を提示しているように感じた。僕はこの小説が好きだ、と言うことはできないが嫌いではなかった。

 そうこうしていると乗換駅に電車が到着したので階段に一番近いドアから下車する。いつも通りの道筋を通って例の高架下へと向かった。

 高架橋のたもとに着くと周囲を見渡す。あの女子生徒の姿は見当たらない。橋近くの斜面を少しだけ下ってコンクリート製の壁に寄りかかった。何度から深呼吸を繰り返しながら心を落ち着かせる。詐欺ならとっくに居なくなっているだろうし、いつ来るかも分からない僕を待つわけがない。意を決した僕は顔を少し露出させて、薄暗く陰っている高架下を覗き込んだ。そこにはあの時の同じ紺色のブレザーに身を包んだ容姿端麗な少女が三角座りをしてスマホを片手でいじっていた。僕は急いで顔を引っ込ませる。

「嘘だろ……」

 無意識のまま独り言を呟いていた。夏にしては涼しい風が吹きながらも僕の首筋に一筋の汗が流れる。彼女はずっとここで待っていたのだろか。何のためにここにいるのだろうか。彼女の目的を再度推測するがやはり何か詐欺のような犯罪に関わっているとしか思えなかった。今日はあの日と同じ月曜日だから、たまたま遭遇した可能性の方がここで待ち続けている可能性よりも断然高い。だとすれば、月曜はここで騙すターゲットを決めているのかもしれない。そう考えると背筋が凍りついた。

 この後の行動を考える。

 帰ろう、それが最適解だった。どう考えても彼女は怪しすぎる、もう一生ここへ来るべきではないだろう。貴重な読書の場を失いたくなかったが別の場所を探せばいい。そう自分に言い聞かせて斜面を登って駅へ戻ろうとすると、足元で何かが転がって高架下に音が響き渡った。視線を落とすと、歪に潰れたコーヒー缶が斜面を転がっていった。おそらく僕が蹴ってしまったのだろう。まずい、と冷や汗をかきながら高架下の彼女へ視線を向ける。僕と彼女の視線が交わってしまった。

 一瞬、お互い時間が止まったように硬直したが、すぐに彼女は勢いよく立ち上がる。まずいと思った僕は斜面を一気に駆け上がって逃げ出そうとした。

「この前はごめん!!」

 予想していなかった彼女の叫び声に足をぴたりと止めてしまう。僕は地面に向けていた視線を一度彼女の方へと向けると、またもや予想だにしない光景を視界が捉えた。上半身を九十度に折り曲げて髪は重力に引っ張られて垂れていた。深々と頭を垂れている彼女は微動だにしない。誠心誠意を伝えようとするそのお辞儀に僕はどう答えればいいか分からなかった。

「えっと、君は誰だ?」

 僕は距離を保ったまま一番知りたい事を彼女に尋ねた。彼女は顔を上げて深く息を吸い込む。

「私は帝柄川女子高等学校の一年生で、この近くに住んでるんだ」

 通りで見たことある制服だった。帝柄川女子高等学校とは僕が在学する泉東高校より北にある学校で、乗換駅で時々見かけることがあった。この女子校は所謂お嬢様学校で偏差値も高く県内では有名な学校だった。

「僕に何の用なんだ?」警戒したまま、僕は気になる質問を彼女に投げかけた。すぐに答えてくれるかと思っていると、彼女は芝生の上に座り込んで手招きした。

「ちゃんと話すから。座って話そうよ」

「……わかった」

 本当であれば断るつもりだったが、何か事情があるのかもしれないと思い了承した。またここでデートという言葉を耳に入れてしまったら逃げることを真っ先に選択しただろう。しかし、彼女は僕に対して非礼を詫びてくれた。とりあえず彼女の話を聞くぐらいは良いだろうと思った。彼女から一メートル離れた場所に腰を下ろした。

「君って、たまにここへ来てるよね?」

「あぁ。本を読む場所としてよく使ってる」

「私もよくここへ来るんだ。橋のおかげで影になってるから夏はちょうどいいよね」

 僕は視線を彼女には向けず、黙って彼女の話に耳を傾ける。

「一週間前、いつもと同じようにここに来たら君が居たの。確か十六時頃だったかな。君は私が普段涼しんでいる場所に座り込んで本を読んでた。ここって滅多に人が来ないじゃない? だから仲間みたいだなーって思って少しだけ観察することにしたの」

 なるほど、と思う。僕がここに訪れたのも大体十六時頃だったはずだ。となれば僕のすぐ後に来たのだろう。

「君ってば、すごく本に集中してたから、よっぽど好きなんだろうなーって。私が好きな場所で本を読んでいるのがなんだか嬉しかったの。そしたら無性に仲良くなりたいと思って。それで男の子が喜ぶ誘い方って何だろうって考えた結果があれだったんだ」

 彼女は少し照れながら話をしてくれた。その様子から自分でも間違えた誘い方をしたと反省したのだろう。だから開口一番の言葉が謝罪だったのだ。

「あれは逆効果だ。怪しすぎる」

「まぁー、そうだよね」

 そのまま十分ほど会話を交わした。どんな本が好きなのかという質問には青春ミステリーと答え、どんな場所が好きなのかという質問には風が吹き抜ける場所と僕は答え、好きな天気は曇りだと答える。思い返せば、彼女からの一方的な質問責めに僕がぽつぽつと回答してだけで、とても会話と呼べるものではなかった。僕はもう彼女を警戒していなかったので、質問には答えるぐらいであれば構わなかった。

 ふと思う。恥ずかしそうに頭を掻く彼女は一週間前の印象とはだいぶ異なっていた。凛とした佇まいから感情をあまり表に出さないタイプだと思ったが、この短時間で、実際の彼女は喜怒哀楽がはっきりと出る表情豊かな少女なのだと気付いた。

 インタビューを受けるかのようにひとしきり彼女の質問責めに応対した後、彼女は少し間を空けてから先程より声のトーンを落として言葉を紡ぐ。

「でさー、デートっていうのは大袈裟だったけど、私と友達になってくれないかな? 同じ高架下仲間として」

 回答に困り押し黙る。当然、僕は「友達にならない」選択をするつもりだった。しかし、声に出すことを躊躇してしまった。読書に魅了された僕にとって独りで本を読む時間が最大の幸福になっていた。故に友人とは僕の人生において必要な存在ではなかった。小学生のときクラスメイトにドッジボールをしようと誘われても僕は読書を優先したし、中学生の修学旅行でどうしても小説の続きを読みたくて休んだこともあった。読書の方が僕にとって友人を作ることよりもよっぽど大事な存在だった。ではなぜ、一度だけ親友ができたかというと、そもそも読書に魅了されたきっかけがその友人による影響だったからだ。僕はその友人のおかげで小説をこよなく愛するようになり、唯一の最初で最後の親友となってしまった。

 かすかに吹き抜ける風が彼女の髪をなびかせている。

「ねぇ、だめかな?」

 彼女が懇願するように僕の顔を覗き込んできた。いつの間にか彼女は僕のすぐ隣にまで移動していて、拳一個分の近さだった。彼女の姿が昔の友人とどうしても重なってしまう。彼女の容姿と過去の友人の姿はよく似ていた。だからだろう。この短時間で、僕は彼女と友人関係を築くのも悪くないと考えていた。今まで友人が欲しいと思ったことはあの子を除いて一度もないのだから、これはきっと勘違いだ。もし彼女の容姿や雰囲気が全く似ていなければ、僕はなんの感情も抱かないはずだ。

「悪いけど、君とは友達になれない」

 僕は淡々と答えることに徹した。彼女は「そっか」と呟いて両膝の上に顎を乗せる。落ち込んだ雰囲気の彼女は遠くを見つめている。会って一週間しか経ってないのに、僕と友達になりたいなんて変わり者だ。ほぼ赤の他人である僕に拒絶されただけで、ここまで落ち込むことができるだろうか。きっと彼女は優しい人間だ。こんな彼女であれば信頼できる友人はたくさんいるはずだから、僕なんていらないだろう。僕と友達になりたいなんて本当に物好きな人間だ。僕は「じゃあ」と一言だけ呟いて立ち上がる。座り込んだままの彼女を横目に僕はこの場から去った。

 帰りの道中、彼女のことを考える。彼女と会うことはもうないだろう。偶然会ったとしても拒否された相手である僕とはもう関わろうとしないはずだ。お気に入りの読書の場ではあったが仕方ない、新しく条件に合う場所をまた探そう。

 高架下から十歩ほど進んだ場所から振り返ると、わずかに顔を出した夕日に照らされて伸びてく僕と彼女の影が交差しているのを視界が捉えた。

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