第一章 アリスと僕と高架下

*** 二〇二〇年 七月十三日 月曜日

 余命幾ばくもない蝉が木にへばり付いたまま、この世に生きた証を残そうとして五月蝿く鳴いている。教室内のクラスメイトの喧騒も相まって、僕は読書に集中できずにいた。紙に印刷された文字の羅列に視線を走らせるが内容が全く入ってこない。普段であれば書かれた言葉が僕の保有している知識によって咀嚼し補完され、風景や登場人物の表情を映像のように自然に脳内へ映し出す。しかし、周囲の騒音が耳を通じノイズと化して僕のイメージを阻害していた。諦めてブックカバーに取り付けられた紐を中断したページの間に挟んで鞄へ収納する。

 溜息を吐きながら机に頬杖をつく。仕方なく窓の外へと視線を移動させた。開け放たれた窓の外には木の枝に張り付いた蝉が忙しなく鳴いている。他の枝を見回しても仲間が見つけられないことから、どうやらその蝉は独りのようだった。孤独に鳴いているその蝉は遥遠い仲間へ届くようにと必死に叫んでいるのだろうか、それとも独りでも構わないと表明しているのだろうか、後者であれば僕と同類だ。今日まで生きてきた十数年、僕には友と呼べる人物がいなかった。いや正確には一度だけ信頼できる友人が幼少期の頃にできたことがあるが、彼女と出会わなくなって以降、ずっと独りで過ごすことが多かった。だからこそ昼休みであるこの時間にクラスメイトと談笑もせずに読書に励もうとしていた。

 この蝉を小説の主人公として組み込むのであれば、僕は独りを好む人として登場させるかもしれない。誰とも馴れ合わずに孤独に生を全うする人生。卑屈な思想を抱いて特に救いもない、淡々と彼の人生を描く大して面白くもない物語になるだろう。まぁ、この蝉が鳴いているのは単純な求愛行動らしいので、こんな複雑な感情を持っているわけもない。

 意味のない空想に耽っていると昼休みの終わりを告げるチャイムが教室に鳴り響いた。ゆったりとした一定のリズムで鳴るその音はわずかなショックを生徒達に与えたようだった。

 「えー、もう終わりー」と不満を漏らすクラスメイト達は落胆した様子で次々に席へ着いていく。教室の前方の引き戸が開いて年老いた教師が姿を現した。短い歩幅で時間をかけながら壇上へ上がると彼の担当である国語の授業を始めた。クラス内を見回すと授業をまともに聞いている生徒は誰一人いなかった。五限目の数学の宿題を済ませようと急いでいる人、部活のために睡眠時間として割り当てている人もいた。かくいう僕も先生の解説に耳を傾けていなかった。

 正直に白状すると僕はあまり国語が好きではない。小説は好んで読むが国語は苦手、むしろ嫌いでもあった。どちらも同様に作家独自の様々な表現や言い回しを読み取ることで、作者の意図や登場人物の心意を押し量る。相違がないように見えるが実際には決定的に異なる点がある。それは読み取れる感情や解釈の多様性に対して、絶対的な解答が存在することだ。漫画や小説、エッセイなどの書籍は作者の想いや登場人物の心に触れることができるものだ。十人十色という言葉があるように、読書という行為を通して人それぞれ僅かに異なる感情を読み取って解釈する。要は人によって感じ取るもののは違うのだ。本来各々の答えに良いも悪いもないはずなのに、国語というものは必ず正解が存在し、それ以外は間違いだと指摘されて不正解の烙印を押される。それは一般的な回答であって決して正しいものではないはずなのに。だからこそ国語という科目を好きになれないし、授業さえ聞く気にもならないでいた。

 眠気の誘うような声を聞き流しながら先程の蝉を眺める。頭を空っぽにしてなんとかこの授業をやり過ごすことにした。

 五限目の数学をある程度は真面目に受けてからやっとの思いで放課後を迎えた。机の横に掛けた鞄を右肩に掛けてから正門を抜けて駅へと向かう。ポケットから取り出した定期券を差し込んでから改札口をくぐると、電車が出発しそうだったので急いで駆け込んだ。ぎりぎりの所で扉が閉まり胸を撫で下ろす。視線の片隅に映った空席へと向かい座り込んで息を整えた。

 挟んである紐から中断されたままの物語を探り当ててページを開ける。右端から順に視線で文字を撫でていくと、文章が映像へと変化して頭の中のスクリーンへ映し出される。いま読み進めているのは学校の屋上で飛び降り自殺を図ろうとしている少女を主人公が止めようとしている場面だ。

 少女の目から溢れ出る涙を床に零しながら乱暴に言葉を放つ。彼女の顔は湧き出る感情に支配されて歪んでいた。それは死への畏怖やこれまでの壮絶な出来事に対する悲観の表情とも感じ取れた。一歩また一歩と屋上の端に近づいていく。主人公は次々に言葉をぶつけて自殺を止めようと訴えかけるが少女の足は止まらない。彼女の自殺を防ぐことができる言葉を組み立てるために主人公は何度も思考を巡らせるが何も思い浮かばない。しまいには主人公は言葉に詰まってしまい口を閉じる。黙ってしまった主人公から目線を外した少女はついに彼に背を向けて走り出した。主人公が思わず手を伸ばすが当然ながらその手は宙を掻いてしまい、彼女は――。

 というちょうど良い場面で目的駅に辿り着いてしまった。物語の続きを一刻も早く読み進めたかったが乗り過ごすわけにはいかないので、すぐに読むことができる様に小説を手に持ったまま降車する。乗り換えのために短い距離を歩いて改札口をくぐろうとすると、線路情報が表示されたディスプレイを囲むように人だかりができていることに気付く。近づいて人混みの隙間から覗き込むと画面には人身事故の内容を伝えるメッセージが表示されていた。どうやらここに到着する数十分前に二つ離れた駅のホームから高校生が飛び込んだらしい。運転の再開に目処は立っておらず、画面には『運転見合わせ中』と謝罪文を添えて書かれている。ふと今朝やっていたニュース番組の報道を思い出した。二年ほど前から学生の自殺が急激に増加しているという内容で、ニュースキャスターや専門家がそのことについてあらゆる推測を立てて議論をしていた。確かにここ最近、自殺による人身事故が多発している気がする。SNSでも度々トレンドになっているほどだった。

「ちぇっ、電車動かねーのかよ」

「うぜーな。こんなところで死ぬなよ、クソガキが」

 僕と同じく画面を見ていた茶髪の男二人組が吐き捨てるように呟く。男二人組は改札口とは逆方向に踵を返して歩いていった。飛び込んだ学生の気持ちを全く考慮していない無神経な言葉に思わず顔を顰めてしまう。なぜそんなにも悪気がなく悪態をつけるのだろうか。何を感じて何に苦しんで、挙げ句の果てに自殺を選んでしまった学生に対してそんな感想しか抱かないのか。ディスプレイを囲んでいた人達も各々の相手に迎えの電話をしながら階段下のロータリーへとぞろぞろと向かっていく。電車が動かなければ自宅へ帰ることもできないので、僕はすぐ近くの二番出口を通ってある場所へ向かうことにした。出口を抜けてすぐ真横の角を曲がり真っ直ぐ歩いていく。周囲にはインドカレー屋やラーメン屋といった様々な店舗が立ち並んでおり、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。空腹感はないが匂いに釣られてお腹が鳴りそうだった。目的の場所はここではなかったので匂いを断ち切るようにして、奥の線路下の細いトンネルを突き進んでいく。トンネルから右側に続く道へ体を向けて少し歩いていくと大きな河川敷が目に飛び込んできた。中央に低く位置している川では小さな子供やその保護者が水遊びをしており、手前の道にはランニング中の男性や犬の散歩をしている中年女性がいた。ここから数分歩いた場所には川を斜めに横断する形で高架橋が建てられている。

 僕は目的地であるその高架下へと向かった。この場所は読書の場として気に入って使っており、中学生の時にたまたま見つけて以降、よく訪れている。リズムよく流れる川の音は心地良く、あまり利用されない橋で車も少なかったので騒音もなく読書にはもってこいの場所だった。

 道から外れ、芝が生えた斜面ではなくコンクリートの壁に寄り掛かって座り込む。深呼吸を数回繰り返してから鞄の中から読みかけの小説を取り出した。ページを開いて途中だった文字を再び読み進めていく。脳内スクリーンに映像が徐々に映し出されて、停止していた場面が動き出した。

 主人公が伸ばした手は宙を掻いて届かず、少女は屋上からゆっくりと落ち始める。その瞬間、こちらを振り向きかけた少女と主人公の視線が交錯するが、すぐに彼女の姿は見えなくなった。彼女の顔は悲痛な感情で歪んでいたはずなのに、地面へと落下する瞬間は瞼に涙を溜めながら微笑んでいた。そしてすぐに地面の近くで鈍い音が耳に入り、すぐに複数の女子生徒の叫び声が校庭中に鳴り響いた。主人公はその場に膝から崩れ落ちる。床に両手と頭を擦り付けて、涙を溢しながら喉の奥から嗚咽の交じった叫び声を上げた。

 思わず文字の羅列から視線を外して目を閉じながら顔を仰いだ。僕は人と関わりを持つことを好まない。だからこの主人公の感情を完全に理解できるわけではないが、きっと目の前で大切な人を失うことは想像を絶するような痛みを伴うのだろう。深く息を吸ってからもう一度、目の前の物語に浸る。

 少女の自殺から一ヶ月経った日から物語は再開する。どうやら奇跡的に一命をとりとめたようで主人公は彼女が横たわっている病室のベッドのすぐ脇で椅子に座っていた。目を閉じたまま少女の手を握りしめて、学校での出来事や最近見た映画の感想を話している。結果的に彼女は死ななかった、しかし意識を取り戻すこともなかったのだ。大脳に重度の損傷を負ったために植物状態となっており、一ヶ月が経過した今でも目を覚まさないらしい。主人公は彼女の病室に毎日訪れているが、意識が戻る気配もない。それでも懸命に少女へ語りかける主人公の様子は読んでいて胸が痛かった。この物語に救いはあるのだろうかとふと思い、ページを確認するとすでに残り四分の一をきっていた。なんだか読み進めることに抵抗を感じて手を止めてしまう。その時だった。

「ねぇ、君」

 突然若い女性の声がした。そちらの方へ顔を向けると、見知らぬ女子学生が制服に身を包んで僕を見つめながらすぐそばに立っていた。肩にかかるぐらいのストレートの黒髪、光に反射しそうなきめ細やかな肌、吸い込まれそうになる強い双眸、紅色のリップに薄く塗られた細い唇。世間で言う絶世の美少女だった。僕はその容姿から力強い印象を受けた。辺りを見渡しても僕たち以外に人影はいない。僕が喋らないことを察したのか彼女が言葉を続ける。

「夏休み、私とデートしない?」

「……は?」

 凛とした彼女の意味不明な申し出に思わず間抜けな声を上げてしまった。目の前の女子学生が口にした言葉を脳内で咀嚼したが上手く思考と結び付かず僕の頭は理解不能に陥っていた。いや正確に言うと、言葉の意味自体はすぐに飲み込めたのだが、それゆえに彼女の本意がわからなかったのだ。僕と彼女は別に友人でも、ましてや恋人ではなく赤の他人だ。いま初めて彼女の存在を知覚したのだ。そんな一ミリも知らない他人が発言した『デート』という言葉はこの状況にあまりにも似つかわしくなかった。

 彼女と僕の間にとても長い沈黙が流れる。時間にすれば数秒ほどしか経っていないのだろうが、僕には数十分経過したように感じられた。

 この状況だけを考えれば彼女は誰がどう見ても怪しすぎた。赤の他人である女性にデートしようと声を掛けられて、真っ先に考えつくのは詐欺だ。彼女は詐欺集団の実行犯で僕のことを騙そうとしている。それがこの状況に当てはまりしっくりくる理由だろう。だとすれば僕がすべき行動はたった一つしかなかった。

 手に持つ小説を出来る限りゆっくり、そして丁寧に鞄に仕舞い込む。鞄を持ち上げながら立ち上がって彼女の真正面に向き合った。

 そして、僕は息を最大限吸って――彼女から逃げるように彼女の側を通り抜けて駅へと猛ダッシュした。

 途中、彼女は一瞬の出来事に遅れながらも振り向いて「ちょっと!」と叫んでいたが、僕はそんなことはお構いなく無我夢中で足を動かした。ここまで歩いてきた道を戻って行き、駅へと入り込む。ちらっと後方を確認するが、駅構内は疲労感が溜まっているサラリーマンで埋め尽くされていて学生服の姿は見当たらなかった。どうやら追ってきてはいないらしい。一安心して、急いで走る動作からゆったりと歩く動作に切り替えた。脈打つ心臓を落ち着かせようと肺に酸素を送り込んで二酸化炭素を吐き出す。改札口を通る頃には何度か繰り返していたうちにいつもの落ち着いた状態へと戻っていた。

 例の人身事故による運転見合わせから二時間ほど経過していたので、すでに電車は動いているようだった。階段を降りると電車が発車しかけていたので、駆け込み乗車を注意するアナウンスを無視して急いで駆け込んだ。電車に揺られている中、座席に座って小説を読んでいたが先ほどの出来事に意識を捉われてしまい、視線で文字列を追っても上滑りして集中できなかった。

 自宅へ辿り着くとリビングより手前の階段を登って真っ先に自室へと向かった。階段を登り切る直前に僕の帰宅に気づいたのか「晩ご飯は?」と家族に聞かれたので「後で食べる」と答えた。自室のドアを潜るとすぐにベッドに倒れ込んだ。久しぶりの運動と変な女学生に捕まったことによって疲労が溜まっていたのかこの日はすぐに眠りについた。

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