*** 二〇二〇年 七月二十二日 水曜日

 放課後、高架下へ向かうとアリスはすでに到着しており、壁に腰を預けて眉間に皺を寄せながら小説を読んでいた。僕とは違って読書においては素人なので、革製のブックカバーも購入時にもらえる紙のブックカバーを取り付けていなかった。丸見えになっている表紙に書かれたタイトルから高校生が主人公の恋愛小説だということがわかる。偶然、クラスメイトの秘密を知ってしまった主人公とそのヒロインが恋に落ちるという物語で確か虐めがテーマだった気がする。若手人気女優がSNSで取り上げたことが話題になり、爆発的に売れてはじめていた。書店でも大々的に宣伝されているはずなのでアリスがこの小説を選んだのも納得がいく。難解なミステリー小説より高校生に共感が得られやすい恋愛小説の方がきっと読みやすいはずだ。

 ゆっくりと彼女との距離を詰めて出会いの挨拶をするが応答がない。慣れていないなりに集中しているのかもしれない。アリスの邪魔しないように、昨日と同じように一メートルほど離れた場所に腰を下ろして、僕も読書に耽ることにした。今年は去年に比べて気温が低く、涼しい風がよく吹いていて清涼感を体いっぱいに感じることができた。

 縦に並べられた文字列を視線で撫でていくと、僕の意識が物語に同調して溶け込んでいく。広大な海の中で、次第に音も光も届かなくなってただ一人溺れていくような、どっぷりと眠るように溺れていく感覚だ。登場するキャラクターの感情があたかも自分自身のものであるかのように錯覚するのが僕はたまらなく好きだった。小説の魅力とは、現実世界と物語を隔てている見えない壁を通り抜ける瞬間だろう。精神を極限まで研ぎ澄まして物語に飛び込む瞬間、幕を閉じた物語から勢いよく引き剥がされ現実に戻される瞬間、あの一瞬のギャップが僕をどうしても惹きつけてしまう。映画や漫画に比べて、文字だけで構成された小説という媒体は多大な集中力を要する。物語の時代背景、舞台となる場所、大小ある心情の変化、登場人物の行動、それら全てをページにびっしりと書かれた文字から抽出しなければならない。別の娯楽媒体よりも巨大なずれが生じてしまう。そのずれこそが小説の魅力なのだ。

 僕が今読み進めているのは青春ミステリーにカテゴライズされる小説だ。これもまた高校生が舞台の話で、学年の異なる男女が日常に潜む謎を解き明かしてゆくという物語だった。この物語はシリーズ作品で僕がいま手に持っているのは二作目だ。今まで計五週ほどは読んでいる作品で、ベスト三に入るほど気に入っており、こうやって何回も読んでいる。僕はこの作品に感銘を受けた。僕に欠けている善意に対して答えが提示されていたからだ。

 要約すれば以下の通りである。『世の中の善意は全て偽善だ。誰かに対する善意は結局、自身のメリットに帰着する』

 つまり、誰かに対して思いやることや優しくすることは自分にとってメリットがあるからやっているだけだと登場人物は言っているのだ。だからこそ善意は偽善だと断言している訳だ。 善意を持ち合わせていない僕にとってそれは真実のように思えた。優しさを理解できない僕は肯定してくれた気がしたのだ。善意は偽善、その通りかもしれない。もし、世界が本当に善意に満ち溢れていれば、きっと虐めはほぼ無くなるはずだ。現実がそうならないのはこの言葉通りだからだ。虐められている他人を助けても、感謝されるといったメリットより暴力を受けてしまうデメリットの方が圧倒的に大きい。自分にとって不利益だから、果敢に立ち向かわずに傍観者になる選択をしてしまうのだ。

「わぁっ!」

 突然の悲鳴に近い大声に肩がびくりと跳ねて、思考が強制停止された。

「びっくりしたー。居るんだったら声掛けてよー」

 頬を膨らませたアリスは「もー」と文句を言いながら胸に手を当てて息を吸う。どうやらいつのまにか到着していた僕に気付かなくて驚かせてしまったようだ。

「悪かった。集中してるようだったから」

 ちらっと腕時計を見ると、僕が読書をし始めてから二時間ほど経過しているようだった。ということは少なくとも二時間以上アリスは集中していたことになる。彼女に怒られているにもかかわらず、場違いにも僕は感心していた。小説を読まない人が活字に慣れるのは時間がかかるはずだ。にもかかわらず、ここまで集中できるのは素直に驚くべきことだった。

「いつから居たの? 全然気付かなかったよ」

「二時間ぐらい前だ。君があまりにも苦戦しながら読書に集中してたから、そっとしておこうと思って」

「別に声掛けてくれてもよかったのに。意地悪だなー」

「次からはちゃんと声を掛ける。それにしても結構集中して読んでたみたいだけど、面白かったか?」

 素直にアリスを褒めてから感想を尋ねた。ただ機会が少ないだけで、善意が欠けている僕でも人を褒めることはある。

「うん、面白かったよ。でもやっぱり活字は苦手かな、細かい内容は頭に入ってきてないし。一度集中すれば読み進められるんだけどね」

「いや、集中して読み進められるだけすごいと思う。普通だったら集中して読もうなんて思わない」

 三角座りで座るアリスは、てへっ、とやや照れながら視線を逸らした。わずかに頬赤く染めて両手で小説を掴んだまま、膝に両腕を挟んで置いた。なんとなく絵になるポーズだなと思った。僅かに傾いた陽から覗くように照らされて、露出している白肌に赤みが加えられて輝いているように見えた。

「ねえ、また今度おすすめの小説教えてよ」

「あぁ、わかった」

 僕とアリスの好みは当然違うだろうが、薦めるだけ薦めてみるのも悪くはないだろう。もしかすると意外にも気が合うかもしれない、読書家として仲間が増えるのは喜ばしいことだ。アリスが「やった!」と小さく控えめにガッツポーズをすると、手に持ったままの小説をそそくさと鞄の横ポケットへと入れた。

「それで今日は何をするんだ?」と今日の予定をアリスに尋ねた。

「んー、とりあえず夏休みにやりたいことを挙げてみようかな。君は何をやりたい?」

「読書」と僕はすかさず即答する。アリスに強引に誘われたのだ。読書以外で特にやりたいことなんてあるはずもなかった。

「絶対言うと思った……」アリスもなんとなく察していたのだろう。僕の返答に呆れながら溜息を吐いたアリスに「君は?」と訊き返した。

「私はね、水族館や遊園地に行きたい!! あ、夏なんだから花火とかバーベキューもいいね!!」

「もしかして、それ全部やるのか?」と否定の意を期待しながら、元気そうに次々に挙げていくアリスに問う。アリスは「もちろん!」と活き活きした様子で答えた。もしかすると夏休みの間は一度も小説を読むことができないのかもしれないと絶望する。アリスの誘いに乗った時、休暇のうち半分は読書ができないと踏んでいたが、一度も物語に浸ることができない覚悟はできていなかった。もし、読書時間を確保できなかった時はアリスに抗議しようと固く決意した。しかし、その決意は案外あっさりと必要のないものとなる。

「それで具体的な予定だけど、お互い考えたデートプランを交互に披露するっていう感じにしようと思うんだ。初日は私、二日目は君、三日目はまた私っていう感じで」

 アリスの言葉にホッと胸を撫で下ろしたが、デートという言葉に顔を顰めた。わかりやく表情を変えた僕を見て、アリスは特に意味は無いよと慌てて付け加えた。深い意味はないとだろうと思い、特にそれ以上触れはしなかった。それより僕もアリスのいうデートプランを披露する日がある。ならば僕が当番の時に、一日中読書するというプランにすれば読書時間は確保できそうだ。よし、これで――。

「あ、読書でもいいけど何かしら工夫はしてね」

 アリスは口元だけに笑みを作って一言付け加えた。面倒臭いが多少は真面目に考えなければならないみたいだ。

「わかった。ちゃんと考える」諦めて素直に反省した素振りを見せると、今度は目元をくしゃっと細めて微笑んだ。こんなにも豊かな表情を見せることができるなら俳優業に向いてそうだなと密かに思った。

「まぁ、今日はこのぐらいでいいかな。まだ日にちはあるから少しずつ決めていこう」

「そうだな。じゃあ、これで」僕は相槌を打って立ち上がろうとすると急に右腕を引っ張られる。

「ちょ、ちょっとー、まだ帰ったらダメだよ!」

 アリスが急に僕の腕を引っ張ってきたので少しよろめく。再度その場に座り込んで「なんだ?」と尋ねた。

 詳しくアリスの話を聞くと、夏休みを一緒に過ごす上でルールを決めようというのだ。ルールは全部で二つ、夏休みの間に日記をつけること、互いに記した日記を夏休み終了後に見せ合うこと、以上がアリスの提案するルールらしい。

「なんで、日記なんてつけるんだ?」

 抱いた疑問をアリスに問う。するとアリスの口からするりと言葉が流れ出した。

「日記っていうのはその時に感じた本心を記すものだと思うの。実は嬉しかったとか、ムカついたとか、その人の本心が見れるんだよ。お互いに日記を書けば、思い出と同時に相手が感じた本当の気持ちを知ることができて面白いと思うんだ」

 なるほどと感心すると同時に、日記なんて書いたことがなかったので何を書けばいいかのわからなかった。そのことをアリスに伝えると、彼女は「なんでもいいんだよ」と言った。普段から小説の感想を投稿しているので、文章の構成を思索したり言葉を紡いだりするのは嫌いじゃなかったので、少しは前向きに挑戦することを伝えた。

 その後僕たちは解散した。帰り道、例の読書コミュニティサイトを起動すると十件程のメッセージが届いていた。このサイトの機能として、他人が投稿した感想にメッセージを送ったり、SNSでいう所の『いいね』のマークを押したりすることができる。そのうち大半はマークが押されたという自動的に送らせてくるお知らせのメッセージで、残り数件が生身の人間からのメッセージだった。

 たとえば『精密に練られた文章構成、感情豊かな言葉選び、作品の魅力を最大限引き出す感想で大変感動しました!!』とか『プロの小説家のような感想ですごい!!』といった僕の感想を褒めてくれている内容で溢れていた。僕は誰かと交流するためにこのサイトを利用しているわけではなかったので特に返信もしない。しかし、こうやって僕の感想を称賛してくれるのは純粋に嬉しかった。

「小説家か……」独り呟く。

 正直、小説家には興味があった。物語に浸ることはあっても物語を創造したことはなかった。自信が創り出した登場人物や物語が評価されればきっと嬉しいのだろう。僕ならどんな書き出しで始めるだろうか。そうなればアリスとの出会いは物語のネタとして面白そうだ。いきなりデートしようと赤の他人に声を掛けられる異質な出会いは小説の書き出しにぴったりだ。自宅に辿り着くまで、僕自身がどんな物語を描きたいのかを考えていた。

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