第2章 霧の樹海エリスニーシェ

2.時の彼方に咲く花よ

『君たちを待っていた』


 万感の思いを込めて、私は語りかけた。

 迷いの森を越えて、大樹わたしのもとへとたどり着いた人の子らへと。


「──待っていた? あなたは一体……」


 一人は、使い込まれた分厚い帳面を片手に大樹を見上げる男。精霊わたしたちの姿は人の眼に映らなくなって久しく、その視線が交わることはない。

 けれども彼は私の《歌》を捉え、その意味を正しく読み解き、言葉を返してくる。


『私はこの大樹に宿り、霧の樹海エリスニーシェを統べるもの。この地に根ざし、私の《歌》が届く人の子をずっと待ち続けていた』


 そしてもう一人は、どこか懐かしい空気をまとった少女だった。その琥珀色の双眸は、空を覆うように広がる枝葉をきょろきょろと見渡し──やがて、真っすぐに私の宿る枝を捉えた。


『君には、私の姿も視えているんだね』


 人の子がするように笑いかければ、少女も淡い微笑みを返してくれる。

 けれども彼女は、程なくしてどこか申し訳なさそうにその瞳を曇らせ、傍らの男にそっと問いかけた。


「あの、クライスさん。今、なんとおっしゃったのか解りますか?」

「……君、は見る……〝君には私が視えるのか〟と」


 男が伝えた言葉を受け、少女はこちらに向き直り、こくりとうなずいてみせた。


「あなた方の《歌》を知り、その姿が視える者でなければ、森を抜けてここにたどり着くことはできなかった。──やはりあれは、僕たちを試していたのか」


 そう問いかける男の声には、どこか険が混じる。仕方あるまい。ここまでの道のりで彼らが──殊更、傍らの少女がどんな目に遭ってきたのかは、森の木々を介して把握している。


『木霊たちの悪戯が過ぎたことは謝るよ。怖がらせてすまなかったね』


 私の《歌》に呼応するように、ふわり、ふわりと小さな森の精霊たちがどこからともなく集まり、人の子らを取り囲んだ。


『遊んでほしかったの』

『ここまで来た人間なんてうんと久しぶり』

『トレントに会わせていい人間かどうか』

『見極めるのが僕らの役目なの』

『君たちは合格』

『よくできましたなの』


「──と、彼らは言っているようだけど」


 精霊たちが代わる代わる紡いだ《歌》をかいつまんで伝える男に、少女はほわりと顔をほころばせた。


「ふふ。ちょっと怖いこともありましたけど、楽しかったですよ」

「喉元過ぎれば何とやら、か」


 男は呆れたような、どこか安堵したような苦笑をこぼす。


「だってこの子たちとっても可愛いくて、何されても許せちゃいます。ちっちゃくて、ふわふわしてて、お花みたいで。クライスさんにも見せてあげたいです」

「君の〝可愛い〟はどうも信用ならんからな……」


 樹下に響く、楽しげな人の子らの声。それはまるで、かつての森が戻ったかのような温かな光景だった。

 なれど、感傷に浸る暇はもはやない。私の使命は伝え残すこと。そのために、朽ちゆく定めに抗い、この森の時を歪め続けてきたのだから。

 《歌》を解する男と、私たちの姿をその目に映す少女。互いを補い、支え合うように、霧深き樹海を歩んできた彼らなら、きっと果たしてくれるだろう。私が護り続けてきた悲願を。


『君たちに物語を語ろう。この森と、人と精霊の、私が識るすべてを──』




 今でも鮮明に思い出す、一つの光景がある。


『ねえ、トレントさん』


 在りし日の大樹のもと、一人の幼子に手渡された小さな花、その瑞々しさ。


『ずっと、ずっと見守っていてね』


 花ひらくような、その眩しい笑顔。


『わたしが大きくなって、お母さんになって、おばあちゃんになって、いつか大樹あなたのもとへ還る日まで、ずっと……』


 それは他愛もない、そして造作もない約束であるはずだった。私の森に生まれ、森に生きる民と、幾度となく同じように交わしてきたもの。

 こうして殊更に思い出すのは、ついぞ果たせぬものとなったからだろうか。

 霧深き樹海の奥に築かれた、小さな村里。われらと人の子らのささやかな営みは、永く、永く続いていくはずだった。──迷いの森が暴かれる、その日までは。

 形ある人の子らは、限りある大地におのれの在り処を求め争い、奪い合う。その戦禍が森を脅かした。

 およそ戦う術など持たぬエリスニーシェの民を、誰一人欠くことなく森の外へと逃がす。そのために、この大樹のもとへ半ば招き入れるようにして〝彼女〟と相対した。

 光さえ呑み込むようなくろがねの鎧をまとった、人の国の女王。


『あなたの望むものはここにはないよ、人の国を統べる女王よ。私はこの森を、大樹のもとを離れられぬ身だからね』


 私がそう語りかけると、彼女はひどく可笑しそうに口角をつり上げた。


『まつろわぬものは滅び去ればよい。それもまた、わたくしの望みに資すること。――わたくしが望むのは、あまねく事象を人の手が統べる世界。お前たちの気まぐれに決して縛られることのない、人の世よ』


 精霊わたしたちの力を掌握せんと望むその冷たい眼差しには、強い憎しみが宿っていた。

 私たちの気まぐれ、と彼女は言った。私がこの森に築いた楽園が、恵みを持たざる人の子らにそのように映るのも無理からぬことだろうか。


 大樹の根は、あまねく大地へ通じる。ゆえに、閉ざされた樹海の外で変わりゆく世界を、おぼろげには知っていた。精霊たちがその姿を隠し、《歌》を秘め、人の世との隔絶を選んだこと。

 かの女王は望み半ばに斃れ、されどその遺恨は、楔のように未だこの大地に息づいていること。

 それは必ず、人の手で解き放たれねばならない。なればこそ私は、いつかその役目を担う人の子に伝え残すことを自らの役目と定め、時を歪めたこの森に生き永らえてきた。


 まもなく私の願いは果たされる。

 ならば木々たちよ。在るべき時の流れを、今こそ還そう──。




『小さき翅よ、お前に最後の役目を託そう。私に代わり、再び彼らを霧の向こうへ導いておくれ』


 私の分け身である小さき蝶は、応えるように翠玉の透き通る羽をはためかせ、指先に宿った。

 そのとき──はらり、と大樹の一葉が枝先を離れた。

 後を追うように一葉、また一葉。

 みずみずしい緑色をしていた葉は、舞い落ちながら次第にその色をくすませ、乾いていく。


「あなたは枯れてしまうのか、トレント」


 男の静かな問いかけに、傍らの少女がはっとして私を見た。

 持てる力のすべてを、この蝶へと込めた。これから目まぐるしい時の流れに呑まれる霧の樹海を、彼らが無事に抜けられるようにと。

 ゆえに、大樹わたしに残された時間はもはや無いに等しい。


『そんな顔をしないでおくれ。森が閉じてから私が生きてきた永い永い時間は、今この時のためにあった。──《歌》を識る者よ。どうか、われらと人の子らを繋ぐ希望であっておくれ』

「──」


 ほんの一瞬、男の目に迷いとも恐れともとれる色が浮かんだ。私が託し、背負わせてしまったもの。その重さに戸惑うように。

 それでも──。


「──〝I je(僕たちは、)〟」


 男のわずかに緊張をはらんだ声が、その韻律をなぞる。


「〝fas liu mi nai la hant o dilei(決して忘れない。この森を、あなたの願いを)〟」


 一つ一つかみ締めるように、正しく紡がれた精霊わたしたちの《歌》。

 私にとって、それ以上の答えはなかった。

 ふいに、張り詰めた糸が切れるように、私の瞳に宿る花がはらりとほどけた。褪せた花弁が、散りゆく葉に混ざり、はらはらと舞い落ちていく。


「トレントさん……!」


 異変に気付いた少女が、悲痛な声で叫んだ。

散りゆく花を、零れていく時を、少しでも受け止めようとするように、懸命にその手を伸ばして。

 ひたむきに見上げるそのさまが、在りし日の光景と重なる。

 樹下を訪れては、いつも私を真っすぐに見上げ、語りかけてきた──かの幼子の面影を、確かにそこに見た。



『ねぇ、トレントさん』


 ──ああ、そうだったのか。


 花が咲き、実を結び、種となって新たな地へ芽吹くように。

 繋がっていたのだ。

 かつてこの森で私と共にあったいのちは、目の前のこの少女へと。



『さあ、行きなさい。この翅が消えてしまう前に』


 解き放った翠玉の蝶が、差し伸ばされた少女の手にふわりと宿る。

そのさまを見届けたのを最後に、視界が霞み始めた。

 たとえ姿が見えたとて、互いに触れることはかなわない。同じようで異なる世界を生きる、精霊わたしたちと人の子ら。

 それでも心を通わせ、共に在ることはできると、最期まで信じさせてくれた君に、君たちに──。


『〝shafe lis lotei i du shas (また逢えてよかった)〟』

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