1.湖岸にて(下)
時おり姿を現す精霊たちの《歌》を書きとめながら、湖の周縁を四半ほど進んできただろうか。
「先生はどうやって、精霊さんの《歌》を読み解いていらっしゃるんですか?」
歩きながらも《歌》を書き記した帳面を片手に真剣な表情で読み返しているクライスに、ミーナは傍らからそっと声をかけてみた。
「君もやってみるか?」
「そんな簡単にできるものなんです?」
「君が普段聴こえる何気ない音の一つ一つに意味がある、とわかったら楽しくないか? 少なくとも僕は、〝これ〟を通して聴こえる音が《言語》だと確信したときは、大興奮でひと晩眠れなかった」
右耳に着けた集音器を指して、クライスは生き生きとした表情で語った。普段は沈着冷静な印象の強い男のその様子を想像すると、なんとなく微笑ましい。
クライスほどの熱量は持ち得ないにせよ、日常的に耳に飛び込んでくる精霊たちの声に意味を見いだせたら、面白いのかもしれない。
「では、ぜひ教えてください」
ミーナが乞うと、クライスは使い込まれた帳面をぱらぱらとめくり、あるページを開いてみせた。
そこには、いつも板書で目にするよりいくらか崩れた彼の字が並んでいる。
「〝tiss〟――てぃす……雲、青、水、雨」
「それが今まで記録してきた《歌》から導ける、〝tiss〟という音に想定される意味だ。同じように〝lac〟は下、大地、落ちる、影、〝esfa〟が大きな、町、巣」
クライスはペンを手に取り、読み上げた単語を紙の上に書き加えていく。
「そして先ほど精霊たちから聴こえた《歌》は、〝esfa lac tiss〟――さて、どういう意味になると思う?」
問いかけとともに手渡された帳面に何度も目を走らせながら、ミーナはしばし考えてみた。
「えっと……雲の下の町、雨の降る町、大雨が降る、大きな青い大地? あとは――」
「どれも正解だ」
「……え?」
思わずきょとんとしたミーナに、クライスはどこか楽しそうに笑った。
「方法としては、いくつかの意味を仮定して、
「結構果てしない感じなんですね」
「そもそも最初はこの仮定の積み重ねすらなく、とにかく聴こえた音を記録しておくことしかできなかったんだ。それに比べたら、今は何の手がかりもなく途方に暮れるということはほとんどないよ」
「先生がその研究を始められたのって、いつごろなんですか?」
「《歌》が聴こえる、と気づいたのは二十年近く前になるか」
「そ、そんな前……」
思った以上の膨大な年月の積み重ねに、ミーナは唖然とした。
先ほど語られた、興奮して夜も眠れなかったというエピソードから浮かぶ光景が、幼い少年の姿に変わる。
何ならミーナは、そのころまだ生まれてすらいないのだ。
「ちなみに僕は水の下の町、つまり〝水底の町〟と読んでいる」
水底の町――つまりは、この湖の底に眠るといわれる古代の都市イルタヴィナを指すのだろう。
「もう絶対それじゃないですか」
「いや、その思い込みが危ないんだ」
いつしか辺りには、魚やクラゲの姿をした精霊たちが数体、ふわり、ふわりと浮かび、ミーナたちの後をついてくる。
そこから発せられる《歌》に、クライスもはっと顔を上げた。反射的にペンを取るも、結局それを紙の上に走らせることはなかった。
ミーナに聞き取れる限りでも何か短い音の繰り返しだったので、殊更に書き記すほどではなかったのだろう。
「精霊さんたち、自分たちのことを噂されてるってわかったのでしょうか」
「あながち冗談ともいえないぞ。彼らは人の言葉、あるいは思考や感情をある程度読める可能性もある。試しに話しかけてみたら、こちらの言葉を解しているような《歌》が返ってきたこともある」
「そ、そうなんですか!?」
ミーナが思わず叫ぶと、魚形の精霊の一体がくるりと宙に大きく円を描くような泳ぎを見せた。そういう目で見れば、何かこちらの意図を解した動きに見えないこともない。
「精霊たちと相互に意思疎通を図り、対話できるようになること――ひいては、この世界の歴史に彼らが存在したと証明することが、僕の研究の目標なんだ」
力のこもった声に、ミーナはクライスを振り返った。
その眼差しは、真っすぐに前を見据えている。
「考古学が解き明かす歴史には、時折、不可解な齟齬がある。例えば、いにしえの時代にぽつんと浮かび上がる機械文明、気候にそぐわぬ作物や住居の痕跡」
「もしかして、このイルタヴィナの遺跡も?」
「そうだ」
クライスはうなずき、傍らに広がる湖に目を向けた。
「かつて湖上に一つの都市があり、一夜にして湖の底に沈んだと今日まで伝わっているが、湖の上に街を築くなどという技術があの時代に存在し得たのか、そもそも人の暮らす都市が湖上にある必然性は何か」
ふいに、その目がミーナを捉えた。
「その陰に、人智を超えた存在との関わりがあったとしたら? あらゆる調査研究を根底から覆す大発見だ」
語られた言葉の熱量にミーナ思わず息をのんだのも束の間、クライスは困ったように肩をすくめてみせた。
「――などといっても、大抵の人間は端から取り合ってくれないだろうな。なぜなら人智を超えた存在、僕が呼ぶところの〝精霊〟というものを誰も知覚し得ないから」
「今、こちらに思いっきりいらっしゃるんですけどね」
ちょうどこの辺りに、とミーナは腕を広げ、精霊たちの泳ぐ宙を示してみせた。
「でしたら、あの石碑が精霊さんの《歌》だった、って先生の研究的には本当にものすごい大発見じゃないですか!」
「それを理解してくれるのは、今のところ君だけだな」
聞きようによっては結構な殺し文句をさらりと落として、クライスは前方に何かを見つけたのか、にわかに歩調を速めた。
「ああ、やはりここだ。ちょうど湖を中心に見て東にあたる位置」
たどり着いた湖岸には、風化し崩れかけた石柱が等間隔に立ち並んでいた。もとは何かしらの建物が立っていたのだろうか。柱のいくつかは湖岸に倒れ込み、水に浸かっている。
よく見ると柱の一つ一つには、あの石碑にあったのと同じ象形文字が刻まれていた。
「わぁ……またこれを解読していくわけですね」
「読み方がわかっている分、いくらか気が楽だよ」
そう言ってクライスは、そこからはすっかり解読モードに入ってしまった。
再び手持ち無沙汰になったミーナは、倒れた柱の一つに腰を下ろした。辺りをふよふよと漂うクラゲのような精霊たちに、戯れに手を伸ばしてみる。
指で突いても、手で撫でるようにしても、いつものことながらそれらは何の感触も返しはしないのだけれど。
「ミーナ君」
「はい。……すみません、気を散らせてしまいましたか?」
「いや、そういうわけではないんだが……ふと気になったことがあってな。君の、その――体質とでもいうのかな。見えること、聴こえることを、君のご家族や友人たちは知っているのか?」
――一瞬、息が詰まった。
手元の帳面に視線を落としたま、何気なく投げかけられた問いが、あまりに不意打ちだったので。
「いえ……実を言うと、先生の他には誰にも話していません」
動揺を気取られぬようにと、ミーナは淡く笑みを作った。
クライスの質問の意図はすぐにわかった。見えない者からすれば、ミーナの所作はいくらか奇異に映るはずだ。そこにどう折り合いをつけているのか、自然と疑問が湧いたのだろう。
「周りの方からどう見えるか、これでも普段はもう少し意識して気をつけているつもりなんですよ。それでも、目に映るものにはつい気を取られてしまうので、ときどき不思議がられることはありますけど」
「話していないのか。誰にも……家族にも、か」
重ね連ねた言葉で覆い隠したつもりだったけれど、クライスは的確に掬い上げた。
気づけばこちらに向けられていた
足元でさらさらと揺れる湖面に視線を逃して、ミーナは口を開いた。
「幼いころは、つたない言葉なりに伝えようとしていたんですよ。五つの時、頭でも打っておかしくなったんじゃないかって、お医者さまを呼ばれてしまって。あれは私だけに見えてるものなんだって、それで子ども心にもわかり始めたので」
ずっとふたをしてしまい込んでいた記憶は、言葉にすればいっそう苦い。
喉の奥で詰まりそうになる息を吐きだして、ミーナは言葉を続けた。
「それから、誰にも話してません。ただ見えるだけ、聴こえるだけですから、見えないふり、聴こえないふりをするだけです。……それで、特に困ることもないですし」
「だが、話したいと思ったから、君はこんな場所まで僕を追いかけてきたんだろう?」
それは、ひどく優しい声だった。
「君の、いささか強引で無謀な行動の理由が今わかった。ずっと独りだったんだな、君は」
おずおずと顔を上げたミーナを、受け止める眼差しは温かい。
「先ほどの話だが――好きで始めた研究とはいえ、君に理解してもらえたのは嬉しかったんだ。それは君にとっても同じことなのかもしれないと思い至った。君の場合、望まずとも見えてしまうのだから尚更だろうと。精霊たちの姿が見える、といつか僕に打ち明けてくれたのも、本当はとても勇気がいることだったんだろう」
「……先生は」
ミーナはきゅっと拳を握り、ずっと胸の奥にしまっていた問いを吐き出した。
「先生は本当に、私の話を信じてくださっているのでしょうか? その……私にしか見えていないものが、本当に正しいかどうかなんて、確かめるすべもないわけですし」
ずっと気になっていた、けれどずっと聞けずにいたことだった。
ミーナとしては一世一代の勇気を振り絞ってこの体質を打ち明け、それを何ということもないように受け入れられてから今日まで。クライスは一度として、ミーナに見えているものを彼自身から積極的に問い質すことはしなかった。
どんなふうに見えるのか、本当に見えているのか。彼の追究するものからすれば、それこそミーナをあれやこれやと質問攻めにして当然のはずなのに。
かといって、ミーナが伝えた情報を疑われたこともまた、一度としてない。いわば正しく中立なのだ。
本当のところどう考えているのか――知りたくもあり、同時に怖くもあった。
「さて、どう答えたものかな」
クライスが、思案げに口を開いた。
「信じる、と言い切ることは難しい。ミーナ君の言うとおり、君にしか見えないものの真偽を確かめるすべはない以上、君のもたらす情報が不正確である可能性も、偽りである可能性も、常に念頭に置いているつもりだ」
「……はい」
「以上は、一研究者としての心構えの話」
神妙な面持ちでうなずいたミーナに、クライスがふっと相好を崩した。
「僕個人としては――信じたい、と思っている。君の見ている世界が本当にそこにあると証明する、それこそが僕の研究の目指すところだから」
胸が詰まるくらいに、それは力強い言葉だった。
「そうだな……何をしてやれるわけでもないが、君がその目に映るものを偽ることに疲れたときは、話し相手くらいにはなろう。僕としても、君には興味が尽きないからね」
そう言って再び手元の帳面を繰り始めたクライスだったが、ほどなくして、何かを思い出したようにぽつりと付け加えた。
「興味、というのは別に変な意味じゃないぞ」
「私は変な意味でも構いませんけど」
「……うん?」
なんでもないです、と笑ってミーナは立ち上がった。
こみ上げる喜びに、胸が熱くなるのを感じながら。
――始まりは、およそ二年前の真夏のある日。
在学中の兄を訪ねたキャンパスの片隅で、マロニエの梢に宿る精霊たちの《歌》を読み解くクライスを見かけた。
この人には私と同じ世界が見えているのかもしれない。それは、雷に打たれたような衝撃だった。
確かめてみたかった。話をしてみたいと思った。それでも、自身を守るために築き上げた心の壁は簡単に打ち破れるものではなく、声をかけることすらできないまま、その一度きりの邂逅は終わった。
同じ大学に飛び込んで、さらに半年。ようやく打ち明けることができた。
自身を突き動かす気持ちの名前を、ずっと知らずにいた。生まれて初めて出会った、同じ世界を知覚し得る相手。だけど決してそれだけではない。
ひたむきな横顔に、静かな熱を宿す眼差しに、目が離せなくなったあのときから、きっとこの恋は始まっていたのだ。
「かつて精霊の存在を世に示し、彼らと自在に言葉を交わした一人の考古学者がいた。その名はクライス・ルイン。後の人々は彼を精霊学者と呼んだ」
「なんだ、突然」
「蘇りし湖上の都イルタヴィナ。今、ここからクライスさんの物語が始まるんですね! ……はっ!? もしかすると私も先生の助手として、後世に名前が残ってしまうかもしれないです……!」
「いつから君は僕の助手になったんだ」
「精霊さんの言葉を読み解くクライスさんと、その姿が見える私。ほら、最強コンビじゃないですか?」
ミーナは湖面に浮かぶ石柱を飛び石のように渡り、振り返り際ににっこりと微笑んでみせた。
――高鳴る鼓動と、かすかに震える声を、うまく隠しきれただろうか。
何を隠そう、勢いに任せてファーストネームで呼んでしまったのだ。せっかく学外で二人きりなのだし、ほんの少しでも距離を縮められたら――なんて。
もっとも呼ばれた当人は、今のところまるで気づく様子はないのだけれど。
おかしい。結構何度か口にしたはずなのに。
「ちょっと待ってくれ、ミーナ君」
「はい、なんです?」
「さっき君はなんと言った?」
やっと気づいた!
ミーナは意気込んで答えた。
「クライスさんと私、最強コンビじゃないですか? と申し上げました。その、お近づきの印に大学とは呼び方を変えてみようかな、なんて」
「いや、その前だ」
と思ったら、あっさりと流された。
「蘇りし、と君は言ったな。蘇りし湖上の都。それであの石碑の〝彼女の目覚め〟の意味がわかった」
興奮を隠しきれない表情で、クライスは早口に言葉を続ける。
「〝彼女〟とは恐らくイルタヴィナの街そのものを表している。古い言葉で船を女性に例えるように、湖に浮かぶ街をそのように表したのかもしれない。あの石碑に書かれていたのは、街を目覚めさせる――すなわち、再び湖上に浮上させるための方法だろう。そうなると〝光を灯せ〟というあの記述は……」
ミーナに説明していたはずの口調は、いつの間にか自身の思考を整理するだけの独り言と化している。
手元の帳面を繰り始めるその眼差しは情熱にあふれ、きらきらと輝いていた。
どうしたって、その視界にミーナが入る余地はないのだ。
仕方ないな、と小さくため息をこぼした。
何せこの横顔に恋をしてしまったのだから、道のりは随分と長そうだ。
精霊学者クライス・ルイン奇譚。
後の世に『精霊学者』と呼ばれることになる一人の考古学者と、彼の軌跡を描き記した一人の女子学生の物語は、ここに幕を開ける。
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