第1章 湖上都市イルタヴィナ

1.湖岸にて(上)


「私、精霊さんが見えるんですよ」


 春めく新緑のマロニエの木陰で。高鳴る鼓動を気取られぬように、どこまでも平静を装って告げた少女の言葉に、男は膝にのせた帳面から顔を上げた。


「先生が書き留めていらっしゃる、その《歌》も聴こえます」

「――そうか」


 しばしの思案の後、男が返したのはごく短い相槌だった。


「あの……驚かない、ですか?」

「《歌》が聴こえるのだから、〝彼ら〟はそこにいる。あり得ないことではないだろう」


 少女のおよそ二年越しの〝告白〟は、ひどくあっさりと受け止められたのである。



 * * *



 青く深く澄みわたる、広大な湖。

 その岸辺に程近い草地に大判のレジャーシートを広げ、革のトランクや脱いだブーツなどで重しをしつらえると、ミーナ・プリエーラは、ほぅと一つ息を吐いた。

 湖面から吹きつける涼しい風が、耳の下でゆるく二つに結んだやわらかな金髪を揺らしていく。日に透かした琥珀の色をした瞳が、ふと、何かを捉えたように中空に焦点を結んだ。


「お魚さんみたいです」


 傍目には何もない空間を見つめ、ぽつりとつぶやく。

 ――もっとも、ミーナ自身の目には、宙を泳ぐような薄青く透き通る小さな魚の群れが確かに映っているのだ。

 トランクを開け、中に収納していた木製のマグカップと皿を二人分、シートの上に並べていく。

 そんな様子が珍しいのか、気づけば先ほど中空を泳いでいた透き通る魚の群れが、ミーナの周囲をふわふわと取り囲んでいた。

 小さな魚の群れと思っていたものは、こうして近くで見ると、ほとんどシャボン玉のように形がはっきりしないものから、あるいは魚というより小さな人の形をしたものまで、さまざまな形状をしている。


「――あっ」


 その中の一つが群れを離れ、ミーナが並べたばかりのマグカップの中にぴょこんと飛び込むのが見えた。

 カップを手に取りそっとのぞき込めば、どこか居心地よさそうに、流線型の身体をくるりと丸めて収まっている。

 その可愛らしさにくすりと笑みをこぼし、ミーナはそっと声をかけた。


「すみません、精霊さん。今からそこにお茶を注ぎたいのですよ」


 この不思議な生き物――といえるのかも定かではない存在を、ミーナが〝精霊〟と呼ぶようになったのは、ここ最近のこと。

 小さな精霊は心なしかミーナの言葉に反応するかのように身を乗り出したが、まさしく魚が水面に跳ねるような動きで、再びカップの中に戻ってしまった。どうも気に入ったらしい。


「精霊さん……はっ、そういえばですね、精霊さんのことは〝精霊さん〟とお呼びするので良いのでしょうか? もしかして、皆さんそれぞれにお名前などお持ちなのでは……」

「なるほど、ミーナ君はなかなか興味深い発想をするな」


 独り言のつもりだったつぶやきに、思いがけず言葉が返ってくる。

 振り向いてみれば、けれど声の主は、岸辺にたたずむ古びた石碑の解読に忙しく、濃緑のカーゴジャケットに包まれた背をこちらに向けたままでいる。

 クライス・ルイン。考古学者であり、ミーナの通う大学の准教授であり、あの不可思議な光たちに精霊という呼び名を与えたまさしくその人である。


「確かにそうだ。彼らが言葉を持ち、互いに意思を通わせているならば、互いを識別するための名前があっても何らおかしくは――」


 何かの切りがよかったのか、クライスがそこで初めてミーナの方を振り返った。

 マグカップを手にたたずむミーナと、視線が交わり、数秒。

 原石の藍晶石カイヤナイトにも似た青灰色の瞳が、怪訝そうにすがめられる。


「ミーナ君」

「はい」

「先ほどから何を広げているのかと思っていたが……それは一体なんだ?」

「お茶とお菓子です」

「……見ればわかる」

「先ほど先生が碑文の解読に時間がかかりそうだとおっしゃっていたので、何か私にもお力添えできることはないかと思いまして、ご休憩用にお茶の準備を。湖畔でアフタヌーンティー、素敵じゃないですか」


 そこで何気なく手元のマグカップに視線を落としたミーナは、思わずあっと声を上げた。


「精霊さんが……!」

「何があった!?」

「いなくなってます。よかったです、これで気兼ねなくお茶が注げます」


 クライスがいまだ釈然としない顔をしているので、ミーナはさらに補足した。


「淹れたてを詰めてきたので、まだ少し熱いと思うんですよね。手で触れられない精霊さんに熱い冷たいがあるのかはわかりませんけど、可愛らしいお魚さんがカップの中に入っていたら、やっぱり躊躇しちゃうじゃないですか」

「君の視界で何が起きていたかは、今の話でおおよそ理解した。そのうえでミーナ君、次の質問だ」


 気づけば石碑のもとを離れ、ミーナのすぐ傍まで来ていたクライスが、ひとつ咳払いをして問うた。


「君は一体、ここへ何をしに来た?」

「先生の研究のお手伝いです」


 ミーナは即答し、ステンレス製の保温瓶を手に取った。ふたを開ければ、湯気とともにほわりと芳醇な茶葉の香りが立ち上ってくる。


「果たしてそれは手伝いなのか……というのはこの際どうでもいい。僕が聞きたいのは、なぜ君がさも当然のようにここにいるのか、ということだ」

「だって先生、この前おっしゃっていたじゃないですか。近いうちに精霊さんの研究の一環でイルタヴィナ遺跡の調査をする予定だって」


 二つ並べたカップに慎重に紅茶を注ぎ入れながら、ミーナは答えた。


「具体的な日付までは話してなかったはずだが」

「明後日の講義が休講になっていたので、休日とつなげて出向かれるとしたら今日かなと」

「君のその洞察力と行動力はもう少し違う使い方をした方がいい」

「はい先生、温かいうちにどうぞ」


 ミーナは紅茶を注いだカップと、数枚のクッキーをのせた皿を、シートの片隅にことりと置いた。

 胡乱げだったクライスの視線が、クッキーの一つに施された特徴的な幾何学模様の焼き印にぴたりと留まる。


「……パティスリー・エリカ」

「はい、お好きだと伺ったので」

「君にそんな話をした覚えはないような」

「友人からの情報です。先生が研究室で書類入れにされているのがエリカのクッキー缶で、しかも幻の会員限定デザインのものという噂を伺ったので、これは間違いないと思いまして」

「なぜそんな話が僕の知らないところで共有されているんだ」

「女子大生の情報網をあなどってはいけないのです」


 というか、ミーナの周辺ではその辺りは周知の事実である。

 すらりとした長身と、穏やかで理知的な眼差し、おまけに年も学生たちと十も離れていないとあって、クライスは考古学科の女子学生たちに人気があり、しばしば話題の的になる。

 資料を読みふける真剣な横顔と、時おり甘味をつまんでは無防備に顔をほころばせるギャップがひそかに注目を集めていることなど、この反応では微塵も自覚がないのだろうけれど。


「せっかくだし、ありがたくいただくことにするよ。ちょうどこちらも袋小路でな」


 そう言ってシートの一角に腰を下ろしたクライスは、紅茶をひと口含み、クッキーを一つ口に運ぶと、満足げに深くうなずいた。


「このほどけるような繊細な食感、鼻に抜ける芳醇なバターの香り。知ってるかミーナ君、何事も単純なものほど完璧を追求するのは難しい。卵と小麦粉、砂糖とバター、たったそれだけでここまでの芸術品を作り上げる、その裏にどれだけの研鑽と試行錯誤の積み重ねがあったのか――」

「お気に召していただけて何よりです」


 紅茶が冷めそうな気がしたので、ミーナは適当なところで相槌を打った。学者肌の人間に安易に好物を語らせてはならない、とは肝に銘じておこうと思う。

 ひとまずミーナがここにいることに関しての詰問からは話がそれたので、甘味差し入れ作戦は大成功である。

 とはいえ、クライスがくつろいだ表情を見せたのはその一枚のクッキーがなくなるまでのほんの一時で、すぐに分厚い本とのにらめっこを始めてしまった。よほど煮詰まっているらしい。

 手持ち無沙汰になったミーナは、クライスの手の中の本を横からそっとのぞき込んでみた。


「うぅ……見たことのない形の文字がいっぱいです……」

「そのうち君も、嫌でも覚えることになるぞ」


 入学しておよそ半年、考古学という分野に足を踏み入れたばかりのミーナの反応に、クライスが苦笑する。


「これはイルス文字といって、二千年以上前にこの辺りで広く使われていたとされる、象形文字の一種だ」


 そこでクライスは、先ほどまで解読を試みていた湖岸の石碑を指差した。


「あれもイルス文字で書かれていたのだが、イルス語としては文法もめちゃくちゃで、意味が全く通らない。風化でほとんど消えかかっている文字を判別するだけでも一苦労だし、すっかりお手上げでな」


 ――ふと。

 視界の端を淡い光が横切り、ミーナははっと顔を上げた。

 光の向かった方向に目を向けてみれば、穏やかに凪いだ湖面に、日の光とは異質なきらめきがいくつも躍っている。

 透き通った泡のような、あるいは小さな魚の群れのような――精霊たちだ。


「……ミーナ君?」


 傍らから、怪訝そうな声がかかる。

 当然だろう。この不可思議な現象は、ミーナにしか見えていないのだから。

 目の前の光景をクライスにどう説明したものか、と頭を悩ませたのも束の間、すぐにその必要はなくなった。


『――――』


 《歌》が響き始めたからだ。

 クライスの表情に、わずかな緊張が走る。そして、もはや反射的な行動のように、ウエストポーチのポケットから使い込まれた帳面とペンを取り出した。

 精霊たちは時折、歌うような節回しの不思議な音を発する。その《歌》もまた、通常は人の耳に聞こえない音であることをミーナはよく知っているけれど、クライスが右耳に着けた小さな機械は、本来は聞こえないはずのその音を捉えるのだという。

 そして、ミーナにとっては風の音や鳥のさえずりのような無秩序な音でしかなかったそれらに、彼は〝言語〟を見いだし、今もこうして書き留めては、その体系に迫ろうとしているのだ。

 歌を捉える片耳と、言葉を書き記す利き手。あらゆる感覚をその二点にだけ集中した横顔は、普段の彼が決して見せることはない無防備さと危うさを秘めている。

 ミーナは息をひそめてその様子を見守った。



「今の《歌》は……そうか……!」


 《歌》が止むやいなや、クライスはにわかに立ち上がった。

 いつしか、湖面を舞う精霊たちの姿もどこかへ消えている。

 そのまま足早に石碑の方へと向かうクライスを、ミーナも慌ててブーツを履いて追いかけた。


「何かわかったんですか?」

「ああ、大発見だよ。石碑に刻まれた文には、彼らの《歌》と共通する響きがいくつも出てくる。恐らくこれは、イルス文字を用いて音だけを記録したものなんだ。意味が通らないのも、それなら納得がいく」

「つまり、えっと、えーっと……」


 流れるように語られた言葉を、ミーナは必死に咀嚼する。


「この石碑は精霊さんの《歌》を書き留めたもの、ということになりますか? ちょうど今、先生がなさっていたように」

「ご明察だ」


 クライスはどこか楽しそうに口角を持ち上げた。


「この石碑を築いた人間は彼らの《歌》を聞くことができた。そこから導ける推測は色々あるな。僕のように何らかの方法で精霊の声を捉えていたのか、あるいは、かつては誰でも当たり前のように彼らの声を聴くことができたのかもしれない。ミーナ君、君のように」


 石碑にたどり着くと、クライスは帳面の新しいページを開き、右手にペンを持った。

「しかし、そうなると振り出しだな。意味ではなく音で読み直さないといけない。……エスティ、ヤ、エスティ、イェーレ……か」


 かすれた文字を指先で辿りながら、クライスがそこに刻まれているらしい音を読み上げていく。

 すると――先ほどの精霊たちが再びどこからともなく姿を現し、石碑の周囲を取り囲むようにふよふよと漂い始めた。


「〝esti ya esti yele〟――以前にも何度か出会ってるんだよな、この音。確か……」


 《歌》を発することなく沈黙を保っている精霊たちに、むろん、クライスは全く気づく様子はない。

 けれど精霊たちの方は、彼の発する言葉に反応するような動きを見せていた。


「はい、先生!」


 ミーナは意気込んで挙手した。


「どうした、ミーナ君」

「今そこに精霊さんがいらしてるのですけど、どういうわけか、皆さんそろって同じ方向を向くんです。なんとなく、先生が先ほどから発音されているその言葉に反応している気がするのですけど……」


 ふむ、とクライスはしばし思案した後、碑文の一節を読み上げた。


「〝esti ya〟」

「こちらの方向を向きます」


 ミーナは右手を掲げ、方向を示してみせる。


「〝esti yele〟」

「今度は逆です」

「精霊たちは特定の言葉に反応して……意思を持って、特定の方向を指し示している?」

「はい、間違いないです」


 ミーナは力強くうなずいた。


「だとすると〝esti ya〟は右、あるいは方角で東ともとれるが、ひとまずそのどちらかと仮定しよう。〝esti yele〟はその逆、と。これならだいぶ絞り込めるな」


 帳面にペンを走らせていくクライスの表情は、喜色に満ちて明るい。


「私、少しはお役に立てました?」

「ああ、助かったよ」

「一緒に来てよかったですね」


 その言葉に、クライスの片眉がぴくりと上がった。


「既成事実を作ろうとするんじゃない。君が勝手についてきたんだ」

「バレちゃいましたか」


 今度は作戦失敗である。


「〝北へ南へ、西へ東へ、光を灯せ。水面に星を望めば、彼女に朝が来る〟……と、一応は読めたわけだが」

「何かの暗号でしょうか」

「ひとまず示された方角のとおりに湖の周りを調べてみるか」


 そのとき、背後でばさばさと大きな音がした。


「その前に、後片付けだな」

「私、お茶残ってたかもしれないです……」


 風にあおられ翻るレジャーシートを振り返り、苦笑いで顔を見合わせるしかなかった。



「早めに切り上げて君を街まで送らないと、日が暮れてしまうな」


 シートを畳みながら、クライスがぽつりとつぶやく。


「大丈夫ですよ、お泊まり用品一式持ってきてますし」


 茶器を重ねてランチョンマットに包みながら、ミーナは答えた。


「何も大丈夫じゃない。というか君、ご家族には何と言って出てきたんだ?」

「考古学科のルイン先生の課外授業です、と」

「こっちの責任重大じゃないか……」


 頭を抱えるクライスをよそに、ミーナは収納を終えたトランクの金具をパチンと止め、軽やかに立ち上がった。


「時間がもったいないですし、出発しましょう~」


 傍らから向けられる胡乱げな眼差しには、気づかないふりである。

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