3.流転輪廻

 秋めいたやわらかな日差しが、黄金色に色づき始めたマロニエの枝葉越しに降り注ぐ。

 もはやキャンパスで思索に耽る際の定位置ともいえるそのマロニエの木陰のベンチで、クライスはもう何度反芻したかわからない一つの文字列を、帳面の片隅に躍らせた。


〝shafe lis lotei i du shas〟


 エリスニーシェ、と精霊たちが歌うような響きで呼称した異界の森で、森の主たる大樹の精霊が響かせた、最期の《歌》。

 これまで読み解いてきた彼らの言葉に照らせば、〝再会を喜ぶ〟、〝また会えて嬉しい〟といった意味になるはずだ。

 初めて相まみえたはずのクライスたちに、かの精霊がなぜそのような言葉を用いたのか、その意味を問うことはもはや叶わない。あるべき時の流れを取り戻した森は生まれ変わり、あの大樹は枯れ果ててしまった。

 今ならまだ克明に思い出せる。あの森に響いた精霊たちの歌も、彼の声も。けれど時が流れるほどに、記憶はその鮮度を失っていくだろう。

 そうなる前に、一つでも多くの言葉を掬い上げておきたかった。かの精霊に託された物語を、その切なる願いを。霧の樹海の終焉と再生を見届けてからのここ数日を、クライスはそんな焦燥とともに過ごしていた。

 彼女なら――と脳裏に描くのは、共にあの森を訪れた少女のこと。不可視の存在をもその眼に捉える彼女なら、行き詰まった思考に新たな視点をもたらしてくれるだろうか。

 そんな折、ふっと手元に影が差した。

 視界の端に、見慣れたラクダ色のコートの裾が揺れる。

 顔を上げれば、今しがた思い描いたばかりの、日に透かした琥珀の色をした双眸がそこにあった。


「すみません、お取り込み中でしたか?」


 示し合わせたかのような――さしずめこのマロニエの木に棲む精霊たちの導きだろうかと、思わず口元に笑みがこぼれた。


「いや……ちょうど今、君に会いたいと思っていたんだ、ミーナ君」


 そう告げた途端、ミーナの腕に抱えられていた大きなトートバッグがするりと滑り落ちた。

 どさり、と派手な音を立てて着地したバッグからは、書籍やスケッチブック、色鉛筆の入った缶箱が滑り出る。はずみで開いてしまった缶箱からは何本かの色鉛筆か飛び出し、辺りに散らばった。

 ころころと足元に転がってきた一本を、ひとまず拾い上げる。

 奇妙な間が続いているのは、当の持ち主であるミーナが、未だ心ここにあらずといった様子で立ち尽くしているためだ。


「ミーナ君?」

「……はっ、私としたことがつい取り乱しました」


 声をかけると、そこで初めて事態に気づいたとばかりに、ぱたぱたと慌てて荷物を拾い始めた。

 何やら様子がおかしいと訝りつつも、クライスも立ち上がって手伝うことにする。


「……わかってますよ、ちゃんとわかってます。クライスさんが特に他意もなくそういったことをおっしゃる方なのは。はぁ~……」

「僕が、なんだって?」

「なんでもないですぅ。というかすみません、お手をわずらわせてしまって」


 拾い集めた何本かの色鉛筆をミーナに手渡しながら、クライスはふと、一つの違和感に気づいた。

 彼女の目元には、隈が色濃く沈んでいる。


「顔色がよくないな。どうしたんだ?」

「あ……やっぱりわかっちゃいますか。大丈夫です、少し寝不足なだけなので」


 そう答えつつもミーナは、クライスの視線を避けるようにうつむきがちにベンチに腰を下ろした。散らかった色鉛筆を缶箱にしまうのかと思いきや、それらはひとまとめに傍らに置いただけで、いそいそとスケッチブックを手に取りめくり始める。

 そうしてあるページまで至ると、彼女はそれをクライスに掲げて見せた。

 そこにあったのは、何色もの色鉛筆を用いて、繊細な筆致で彩られた森の風景。


「エリスニーシェの森か」

「はい。描きたかったものをようやく描き終えたので、クライスさんにお見せしたくて」


 スケッチブックを受け取り、ざっとページをめくってみれば、その枚数はゆうに十を超えていた。


「ここ数日で描いたって量じゃないぞ、これ」

「忘れたくなかったんです。少しでも記憶の新しいうちに描いておきたくて。……クライスさんにも、きっとご理解いただける感覚だと思います」


 傍らに広げたままの、乱雑な筆致で書き散らした帳面を指してそう言われてしまえば、クライスとて苦笑するしかない。

 改めて、描かれた絵を一枚ずつじっくりと眺めていく。



 ――なんだかここ、森というよりお花畑みたいです。色とりどりのお花が咲いていて……それに、ちょうちょみたいな子もいます。


 あの樹海の中でミーナは、自身の目に映るものを――精霊たちの姿を、そのように表現していた。

 画用紙の上に広がるのは、その言葉からクライスが想像した以上に、さまざまな色にあふれた世界。本来の木々の色を見失うほどに、森は極彩色に染め上げられていた。

 美しく幻想的であり、それゆえにおよそ現実と思えぬような恐ろしさも秘めた森の姿が、数枚にわたって描かれている。

 次に現れたのは、白い霧の中に浮かび上がる小さな村里。それはクライス自身もこの目で見た光景であったけれど、ミーナの絵にはさらに、そこかしこに亡霊めいた人影が浮かんでいた。

 一目見て古い時代の造りだとわかるのに、今にもそこから住人が顔を出してもおかしくないほどに、人の営みの気配を色濃く残した集落跡。その異様な光景こそが、霧の樹海の歪められた時間を体現していた。

 次に描かれていたのは、翠玉エメラルドのような透き通る深緑色をした一羽の蝶。

 幾重にも重なる精霊たちの《歌》の中に、かすかに響いた一つの呼び声。クライスがその《歌》を突き止め、ミーナが声の主であるこの蝶を見つけ出した。

 蝶に導かれ、迷いの森を抜けた先で出会った雄大な大樹と、そこに宿る、霧の樹海の主。

 トレント――古き伝承に語られる、意思を宿す樹と同じ名を冠する精霊。スケッチブックに描かれた彼は、みずみずしい花を宿した瞳でこちらに向かって優しく微笑みかけている。

 大樹のもとに降り立った彼は、人と精霊の永き歴史をクライスたちに語り聞かせ、切なる一つの願いを託した。

 そして――。

 花が散りゆくように、木々が枯れゆくように。時の流れを取り戻した森の奥で、その命はついえていった。自らの枯れゆくさますらも、どこかいとおしそうな眼差しで見つめ、帰路へ誘う翠玉の蝶をそっと手渡して。

 そのようにして彼は消えていったのだと、ミーナの描いた絵はどんな言葉を連ねるより詳細に、雄弁に語りかけてきた。



「不思議な夢をみました。昨日……その、絵を描きながらうたた寝をしてしまったんですけど」


 描かれた森の情景にしばし入り込んでいた意識を、ミーナの声に引き戻される。


「夢の中で私は、あの樹海の村に暮らす小さな女の子になっていました。これから戦争が起こるから、村を離れなくてはいけないのだといわれて、トレントさんに見送られて森を出るんです」


 それは、トレントが語り聞かせ、クライスたちが読み解いた一つの歴史。人と精霊の共生する楽園であった森の村里が、その営みを失うに至った理由。

 ミーナが夢にみたという光景は、あるいは本当にかつてそこで繰り広げられた一幕なのかもしれない。


「きっと私が……その女の子が心細そうな顔をしていたんでしょうね。トレントさんは安心させるように優しく笑って、そっと目を合わせて語りかけてくれました。大丈夫だよ、必ずまた会えるから、って」

「……また会える、か」


 その言葉が、クライスの脳裏にこだました。


「きっと、その約束は叶わなかったのでしょうし……叶わないと、トレントさんもわかっていたのでしょうけど」

「いや、果たしてそうだろうか」


 ぽつりとつぶやくと、ミーナは意外そうにクライスを見た。


「永い時を生きる精霊の考える〝再会〟が、必ずしも僕たちと同じものとは限らないだろう。樹海の民は村里を離れて戦禍を逃れ、次代に命をつないだ。そうして脈々と受け継がれるその先で、いつか巡り会えることを信じたのかもしれない。例えば、僕や君の祖先を辿ったらあの樹海の民につながる、という可能性もあり得ないとはいえないわけだ。

 あるいは……分かたれた世界で、人の目に映ることのなくなったトレントの姿を、君は捉えた。人々に届くことのなくなった彼の声を、言葉を、僕たちは聴いた。それこそが、彼にとっての再会であったのかもしれないな」


 スケッチブックの最後のページに描かれた、枯れゆく大樹を背に穏やかに微笑みながら、あるべき時の流れへと還っていくトレントの姿。

 そこに、あの言葉が重なる。


「〝shafe lis lotei i du shas〟」


 確信を込めて、クライスはその響きを口にした。


「それは、なんですか?」

「トレントが最後に遺した《歌》だよ。そうだな……〝君にまた会えてよかった〟といった意味になるはずだ」

「しゃふぇ、りす、ろて……」


 しばらくその響きを反芻していたミーナが、あっと小さく声を上げた。


「あのとき……私にあの蝶を託してくださったとき、トレントさんはそうおっしゃっていたんですね。とても優しい響きの《歌》だなって、それだけは覚えていたんですけど……意味を、知ることができてよかったです」


 はらり、と枝先を離れた黄金色の葉が、木漏れ日の中で鮮やかにきらめき、舞い落ちる。

 それを掴もうとしたのか、あるいはそこに別の〝何か〟が見えていたのか。ふいにミーナが、中空へ手を伸ばすような仕草を見せ、ふっと微笑みをこぼした。


「枯れてしまっても、森にはまた新しい芽が生まれます。そうしたら……巡り廻って〝私たち〟も、いつかまた彼に会えるんですね」

「ああ、そうだな」


 クライスはうなずき、黄金色に染まるマロニエの梢を見上げた。

 霧が晴れ、開かれたあの森も、これから秋の色が深まっていくことだろう。そうして冬を越え、芽吹きの季節がやってくる。

 時が巡り、命が廻る。枯れゆく大樹が――トレントが、そう在ることを望んだように。

 途方もなく永い時間なのかもしれない。けれど、幾度となく繰り返すその果てで、いつか同じように巡り会うのだろう。人と精霊の世界が、ほんのわずかでもつながっているならば。

 それが――それこそが、彼に託された願い。


 ふいに、ことん、と右腕にわずかな重みを感じた。

 視線を向ければ、ゆるく波打つ金髪がすぐ近くにある。

 ミーナが頭をもたせかけているのだった。


「少しだけ……十分だけ寝かせてください。このままだと私、先生の講義で居眠りしてしまいそうなので」

「ちょっと待ってくれ。今、ここで? 君は自分の言っていることの意味がわかっているのか?」

「はい、とってもねむたいのです~……」

「まったく答えになってないぞ……ミーナ君? おい、ミーナ君!?」


 ふっ、と一瞬で腕に預けられた重みが増した。

 程なくして、すぅ、と深い呼吸がかすかに漏れる。

 さすがに冗談だろう、と揺り起こそうとしたが――しばしの逡巡の末、思いとどまった。

 木漏れ日に縁取られた睫毛の下には色濃く影が差し、その頬は青みがかって見えるほどに白い。机に突っ伏す程度の睡眠しかとっていないのは、恐らく昨日に限ったことではないのだろう。

 ミーナが連日、夜を徹してまで熱心に筆を走らせた理由。それは、彼女にしか捉えられない風景を、クライスに見せるために他ならない。

 見えざる存在たちを視認し、不確かな世界と独り向き合う彼女にとって、こうして同じ世界へ手を伸ばし、少なくとも彼らの《声》を聴くことはできる自分の存在が、いくらかの支えになっているのなら。できる限り力になってやりたいとクライスは思っている。

 けれども、それはそれとして。

 滅多に人の通らない場所とはいえ、紛いなりにもキャンパスの中である。社会的にこの図はよろしくない。一教員として色々まずいだろう。

 クライスは深いため息を一つ吐き、ひとまず懐中時計を取り出してみた。

 時の歪められたあの霧の樹海ではぴくりとも動かなかった秒針も、今は正しく時を刻んでいる。

 規則正しく一定な針の進みを、けれどもひどく緩慢に感じながら、クライスは彼女の求めた十分間が平穏に過ぎ去るのを待った。

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