迫る手4

 あの塵旋風は、北門で見たものだ。いや、あの時よりもずっと大きく凄まじい。

 アーバルは咄嗟に、両の手で大きく剣を振りかぶると地面に突き刺した。彼一人を除いて、屈強な騎士たちがまるで小さな木片のように軽々と暴風に巻き上げられる。

「お前たち!」

 アーバルが叫ぶ。


 轟々と荒れ狂う風の唸り。上空で掻き消される騎士たちの叫び。その渦中で、魔女は高らかに笑っていた。

「死んじまえばお叱りなんぞ受けなくっても済むだろう? ご主人サマへのお土産は自分らの亡骸ってね! ああ、あたしゃ何て気が利くんだろ、ねぇワンころども!」

 ひとしきり笑った後、その仰け反らせた体をぐるりとひねり、魔女ラズダは呆然とその場に立ち尽くす少年ニグレドを振り返った。

「どうだい、殺せそうかい? あんたに、あたしを」

 魔女の口の端が歪む。ニグレドはへなへなと地面にへたり込んだ。

「じゃあ、ま……、行こうか」

 魔女ラズダはニグレドの返答も待たずにそのまま手を伸ばすと、その枯れ木のような骨ばった手からは信じられないほどの力でニグレドの首根っこを掴んだ。


「待て!」

 踏みとどまった足、剣を握り込む手。吹き飛ばされまいと喰いしばった歯の間から、老騎士アーバルは声を上げた。顔を流れる赤い血の中で、その黒い目が魔女を鋭く睨む。

「待てって言われて待つ馬鹿なんているモンかいね」

 魔女は嫌らしく笑った。

「あんたは自分の心配をした方が良いんじゃないかい?」

 魔女のその言葉でピタリと風が止む。鼓膜を揺るがす轟音が嘘のように消え去り、上空からの苦痛の叫びがはっきりと耳に届いて聞こえる。

 魔女ラズダは一際大きく高笑いを上げた。

 アーバルが手を伸ばす。その手は虚しく空を切った。先ほどまではそこにあったはずの魔女の姿が、その手に掴んだ少年ごと掻き消える。

 アーバルはハッと上を向いた。その顔に影がかかる。

 枯草の原に、魔女の高笑いの残響と、もうもうと上がる土ぼこりだけが残った。






 豪奢なベッドに体を埋めるようにして、青ざめた顔で横たわる国王サムエル。部屋は薄暗く、彼の枕元に置かれた燭台のわずかな灯し火だけが照らすのみ。

 その薄闇の中を、かすかな衣擦れの音が歩き回る。

 浅黒い肌に濃紺のローブをまとった王室付き魔法使いスターズは、ベッドに横たわるサムエルの真一文字に引き結ばれた口元に、湯気の立つ薬湯を差し出した。


 丁度その時、部屋の扉が音を立てゆっくりと開かれた。スターズは王の口元に薬を運ぶ手を止め振り返る。

 視界に映ったのは扉のノブにかけられた手。そしてその視線の先、思っていたよりもずっと下方に、血を流し肩で息をするアーバルの姿があった。

「…………、逃がしたか」

 サムエルはゆっくりと目を開け、静かに言った。

 老騎士の顔を赤々と染め上げたまだ乾き切らない血糊。あちらこちらが大きくひしゃげた鎧。敗北は明らかだった。


 杖を手に取り、かざそうとするスターズ。アーバルはそれを片手を上げて制した。その目はサムエルに向けられたままだった。

「王よ、どうか聞いていただきたい」

「……申してみよ」

「恐れながら、事態は深刻です。……魔女が、あの魔女めが、生きておりました」

 ぜいぜいと吐く荒い息の下、アーバルは辺りをはばかるように抑えた声で告げた。

「な……」

 サムエルは絶句した。かすれた声で、どうにか次の言葉を口にする。

「……あの魔女が、……だと?」

 アーバルがうなずく。

「は。左様です。……あの魔女が、王子を連れ去って、そのまま逃げおおせました」

 その言葉にサムエルは目を閉じ、口の中でつぶやいた。

「連れ去って。連れ去って、か……。……あの魔女が。あの……」


 そのまましばし黙り込んだかと思うと、サムエルは唐突に目を見開いた。らんらんと光る、充血したその暗い褐色の目を。

「……軍略会議を、いや、兵を集めろ、進軍だ、進軍を……」

 喉から声を絞り出しながら、サムエルは無理矢理に体を起こそうと身をよじった。それをスターズが押しとどめる。

「王、なりません。もう夜も深い。それに第一に、貴方様は体を休めなければ……」

「探せ、追え、逃がすな、決して……!」

 サムエルは血走った目を見開いて虚空を睨み、うわごとのようにぶつぶつと唸り声を上げながら、己を押さえる魔導士の腕を振り払うようにもがいた。

(ああ、だめだ、ならぬ、あってはならぬ。それは、それだけは、何が何でも――)

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