迫る手3

 ニグレドは己の目の前、先頭で立ちはだかる馬上の騎士を見上げた。夜の闇の中、更に月の光の陰になってその表情は一向に読めない。

 しかし、この男のことは知っている。王国騎士団、騎士団長のアーバルだ。

 鋼のような老境の騎士。直接に言葉を交わしたことは無かったが、あのサムエルが頼りにし、腹心の一人と言って差し支えのない扱いをしていたことは強く印象にある。剣の心得はないニグレドだったが、度々訓練所で見かけた彼の、苛烈かつ精練された動きは目を見張るものがあった。そしてこの老騎士は、ミディアの師匠でもある……。

 ニグレドは改めて、目の前のアーバルの表情をうかがい知ろうと視線を動かした。


 しかし。

 鈍く光る抜き身の剣、月の光を冷たく反射した切っ先。

 それが、ニグレドの視界に飛び込むように映った。


「ぁ、あ……」

 全身に走る戦慄。あの時の感覚が蘇る。

 冷たく光を反射して飛んでくる凶刃、あるいは喉元に突きつけられた切っ先。己を殺すものが、すぐ目の前にあると言う事実。

『間違っても、むざむざ殺されるんじゃあないよ』

 先ほど耳を撫でた魔女の囁きが、再び聞こえたような気がした。

 背筋から凍りつくように体が冷えていく。そのくせ心臓は早鐘のように打ちつけ、燃えるように熱い血を全身に送った。全身がガクガクと震える。もうそのまま一歩も、いや、わずか小指の先すらも動かせない。

 ニグレドの正面。陰になった顔の中で、銀色の髭を蓄えた老騎士の口が動いた。


 しかし、騎士の口から発せられる何かしらの言葉が立ち尽くす少年の耳に届くよりも先に、けたたましい魔女の金切り声が夜の空気をつんざいた。

「手を出そうったって、そうはいかないよ!」

 その声と同時に、びょう、と甲高い唸りを上げて一陣の風が吹きつける。


「むんっ!」

 アーバルは抜き身の剣を構え、刀身にその風を受けた。

 ガ、キィンと、まるで金属同士がぶつかり合うような音が荒野に響く。

 刃のような風は尚も、四方八方から矢継ぎ早に吹きすさんだ。止まぬ風の刃の斬撃をその場で捌くのに、騎士たちは手一杯となる。

 魔女の姿は、夜の闇に掻き消えたままどこにも見当たらない。

「ぐあ……っ!」

 一人の騎士の腕から赤い飛沫がパァッと舞った。立ち尽くす少年のほんの目と鼻の先でのことだった。

「お前たち、怯むな!」

 アーバルの声が轟く。

 老境の騎士の黒く鋭い目が、夜の闇の中でひたと一点を見据えた。その目が捕らえる。わずかな空気の揺らぎを。

「……そこか!」

 アーバルは馬からひらりと飛び降り、その勢いのまま一点を斬りつけた。透明な垂れ布を切り裂いたように魔法が解け、魔女の姿が現れる。その口がニタリと歪んだ。

「ああ、ご名答だよ、若造」

 そう言うが早いがまたも魔女の姿が消え失せる。同時に老騎士に向かって数多の風の斬撃が浴びせられた。

 アーバルはそれをものともせずに弾き返すと、間髪入れずにそこから更に一歩踏み込み剣を振り上げた。剣先が再び魔女の魔法を破る。

 しかしまた次の瞬間にはもうその姿が掻き消えてしまう。だがアーバルも一切の間をあけずに次の攻撃に転ずる。斬って隠れて、また斬り、また隠れ……。


 ニグレドはただただ呆然と、目の前で繰り広げられる攻防を眺めていた。眺めるより他に何も成す術がなかった。いや、彼らの動き全てを目で追えているかどうかすらも分からない。

(こんなの、俺がどうこうできる相手じゃないじゃないか……!)

 すると不意に、ニグレドは首根っこをむんずと掴まれ強い力で引かれるのを感じた。

(しまった!)

 ひっくり返る視界。そこに真剣の切っ先が文字通り飛び込んでくる。フードが後ろに落ち、ニグレドの髪がぶわっと逆立った。紫色の煌めきに一瞬、眼前に迫り来る老騎士の顔が照らされる。その表情は、読めなかった。


「王子!」


 ニグレドの極近くで、声が鋭く短く響く。

 倒れかかるニグレドを押しのけ、ラズダが姿を現し枯れ木のような手を突き出した。

 びょうと音を立てる風の斬撃。それがアーバルの額に命中し、その体が大きく仰け反った。


 パッと派手に広がる血飛沫を前に、魔女の口がニタリと歪む。

「はは、外れたね、老いぼれ」

「ぐぅ……っ!」

 血の噴き出すパックリと開いた額の傷を押さえ、アーバルはその場に踏み留まった。

 他の騎士たちが剣を構え、手負いの団長の周りを守り固めつつ前に出る。アーバルは目にかかる血を拭い、片手で剣を構え直した。

「おのれ、魔女め……」

 ラズダは事も無げに薄ら笑いを浮かべ、騎士たちが態勢を立て直す様を眺めていた。

「頑張るねぇワンころども。いいかげん諦めて、お城の犬小屋に帰ったらどうだい?」

 その目に声に浮かぶは、嘲りの色。

「……ああ。手ぶらのままじゃあ、ご主人サマからのお叱りが怖いかい。そりゃあ気が利かなくて悪かったね。それじゃ、ここまで来たお駄賃をあげようかね……」

 そう言ってラズダは手を空にかざす。


 すると途端に赤い閃光がカッと空を裂いた。

 一時辺りが静まり返ったかと思った次の瞬間、騎士たちの足元から、夜の闇の中に黒くそびえる塔の如し不気味な塵旋風が、唸りを轟かせ現れた。

 ニグレドは目を見開いた。

(あれは……!)

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