迫る手2
「忘れ形見……」
夜の闇の中、老婆の枯れ木のような手が伸びる。ニグレドはそれを払い除け、更に後ろに跳びすさった。
「やめろ! ち、近寄るな!」
震える声で叫ぶ。それはさながら蛇に見込まれた蛙の一鳴きのような、うわずった情けない声だった。老婆は尚も、まるで舌なめずりをして獲物を追い詰めるが如く、ゆっくりと一歩、また一歩とニグレドに歩み寄る。
「そんな駄々をこねないでくださいましよぅ。ねぇ、王子様……?」
「ち、違う! 〝王子〟だなんて知らない! 俺には関係ない! 俺は、俺は……」
「いいえぇ」
ラズダの声がニグレドの言葉をさえぎった。
「すぐに分かりましたよ。……その髪を見れば、ね」
「!」
ニグレドはバッとフードを押さえた。
その様子を見て、老婆はからからと笑い声を上げた。そして再びニグレドを見据え、口の端をにやりと歪める。
「このあたしの目を誤魔化せるとでも思ったかい? もう言い逃れはできないよ。 さ、分かったらとっとと行こうか。え? 王子様?」
ニグレドは己の不用心さを恨んだ。
(なんて浅はかだったんだ! 外に出られたことにただ浮かれていたと言うのか、俺は……!)
ニグレドはフードを押さえつけた手の下、その隙間から、勝ち誇ったように笑う老婆を睨みつけた。
(……もうこうなれば、この老婆をどうにかしなくてはならない。何としても……!)
「……俺は行かない。どうしても連れていくと言うなら……、手加減はしないぞ」
「手加減だってぇ?」
老婆は頓狂な声を上げた。
「お前さんにいったい何ができるって言うんだい?」
笑う老婆。その耳障りな雑音を締め出すように、ニグレドはあの地下での出来事を思い起こした。
(剣を朽ちさせた、あの忌まわしき悪魔の力……。この老婆相手にならば使っても良いはず、いや、使うべきだ。今ここでこいつに捕まるくらいなら……)
目深に被ったフードの下、ニグレドの髪が波打つ。ぼろ布に覆い隠された中で、紫色の光が夜の闇に溶け出すように煌めいた。
「お前を……、お前を、こ、殺す……」
「言うねぇ」
老婆は一転、低い声で唸るように言った。その声には嘲りの響きがにじむ。
「お前さんがそうしたいんならすれば良いさ。できるもんならね。……ま、じゃあその前に一つ、お手並み拝見といこうじゃないか。そうら、お客様だ。お前さんに、ね」
そう言って老婆は肩越しに己の背後、ニグレドの来た方角を顎でしゃくった。
「何……?」
ニグレドは目を細め、老婆の指し示した方を見る。別段変わった様子はない。
いや、よくよく目を凝らすと、遠くの方にもやのように土ぼこりが立つのが見える。それは瞬く間にこちらに近付いて、次第に馬の蹄の音が聞こえてきた。
「あれは……!」
土ぼこりの中、馬にまたがった騎士の影が複数見える。ニグレドは瞬時に悟った。
(サムエルの追手だ!)
「連中も必死だねぇ……。間違っても、むざむざ殺されるんじゃあないよ。ねぇ? 大事な大事な、あたしたちの王子様……?」
老婆の囁き声が嵐の前の生ぬるい風のようにニグレドの耳をざわりと撫でる。
声の方に顔を向けると、老婆の姿は風に吹かれた塵芥の如く掻き消えていた。
その場から逃げることも隠れることも、何一つ身動きのできないまま、騎士たちの影があれよあれよと迫り来る。そうしてついに、ニグレドの目の前で馬が止まった。
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