迫る手1
誰もいない夜道。延々と続く枯草の原。
その只中で、紫を孕んだ黒い髪がなびく。
ぼろ布の外套をまとった少年ニグレドはその髪を隠すことすら忘れて、乾いた土を踏みしめて歩き続ける。
彼は、生まれて初めて己の足で街の外の土を踏んだ。
人目を忍んで城下町を歩くことは掃除夫の身分通行手形すら渡されて容認されていたが、それ以上のこと、彼が城下町を勝手に抜け出すのは決して許されないことだった。
(自由だ)
ニグレドは不意にぽつりとそんなことを思った。城も街も、ニグレドの知っている何もかもが、足を進める度に一歩ずつ遠ざかっていく。
(自由。自由、か……。あの時は確かに、サムエルによって地下牢に閉じ込められた。閉じ込められたが、それ以前に自分はあの城に、街に、国に、閉じ込められていたんじゃないだろうか)
ニグレドは取り留めもなくそんなことを考えた。
(これで良い……。これで、良かったんだ)
ニグレドは前を見つめてそう思った。
(これで良い……、これで、良いのか……?)
目の前には、枯草の延々と続く景色がただ広がる。
「あれは……?」
ニグレドの視界に、枯草と乾いた土以外のもの、何かの影が映り込んだ。続く道の向こうで遠くの方に小さくぽつんと、夜の闇の中で一段と色濃く、その影はあった。先ほどまでは何もなかったはずなのに。
ニグレドは外套のフードを被り己の髪を覆い隠すと、注意深く目を凝らした。
いない。
その一点の染みのような影は、ニグレドの視界のどこにも映らなかった。先ほどまでは確かにあったはずなのに。
ニグレドは不審に思いつつも、また一歩足を進めた。
「ああ。ようやっと来なったねぇ」
ぞわっ、とニグレドの全身に鳥肌が立った。
老いたカラスのようなしわがれた声。それがすぐ後ろから聞こえた。
ほとんど飛び退くように振り返る。そこには、夜の闇の中、一点の染みのように、全身が縮こまったかのような老婆が立っていた。
老婆はしわだらけの顔をニヤリと歪め口を開いた。ところどころ抜け落ちた黄色い歯が覗く。
「思ったよりも手間取ったね」
「な、な……」
ニグレドは口をぱくぱくさせた。
(何だ、この老婆は。どこからどうやって現れた? いったい何者だ?)
そう頭に浮かぶも、上手く言葉が出てこない。
得体の知れない老婆は尚も、独り言なのかこちらに話しかけているのか、どちらともつかない様子でぶつくさとしわがれ声を漏らした。
「やれやれ、なかなか上手くはいかないモンだねぇ。……ま、あんたは運が良いよ」
「な、何だお前は。何を言っている。お前は、何者だ……?」
ニグレドの乾いた口からようやく、かすれた声が出る。
「おやおや」
老婆はひょいと、その落ちくぼんだ目を上げた。濁った色の瞳がニグレドを捉える。その目がにんまりと微笑んだ。
「これはこれは、とんだご挨拶だねぇ。……ま、無理もないか」
老婆は芝居がかった様子でうやうやしく両手を広げる。そうして口を開き、目の前の少年に対して、まるで赤子をあやすかのようなわざとらしいほどの猫撫で声でこう言った。
「このラズダめがお迎えに上がりましたよ。さぁさ早くお城に帰りましょう王子様。我が主、魔王バローム様の忘れ形見……」
時はやや遡る。
地下牢へ続く階段付近の廊下。長マントを床に引き摺らせて歩く一つの人影があった。サムエルだ。
柄だけが残された元々は剣だったものを、指の関節が白くなるほど強く握り込んでいる。つい先だって、その今手にしている剣の柄を杖代わりに、地下牢の階段を這うようにしてようやく上がってきたばかりだった。
「サムエル王!」
廊下に王を呼ぶ声が響く。声のした方を振り返りつつ、サムエルはすっくとその背を伸ばした。刀身を失った剣の柄を、長マントの陰に隠して。
「……スターズ」
己を呼ばわった人物の姿を認め、サムエルは唸るようにつぶやいた。
静まり返った廊下に衣擦れの音をわずかに響かせ、王室付き魔法使いスターズが滑るようにサムエルの元に歩み寄る。
「ここにおられましたか、王よ」
かしずくスターズに、サムエルは眉根を寄せて見せた。
「お前には持ち場を与えたはずだ。そこを離れるなと言い渡したつもりだったが」
「は、相申し訳ありません。見回りの兵より、王のお姿が何処にも見えないとの報告を受けまして……。如何されましたか、王よ」
サムエルは鋭い目つきで宙を睨んだ。一瞬の沈黙の後、口を開く。
「スターズ、お前が持ち場を離れたことは今は大目に見よう。アーバルと繋げ。……丁度良い。どのみちお前の耳にも入れておかねばならぬことゆえ」
「は」
スターズは懐から小さな水晶玉を取り出した。それを手の平に載せて目の高さほどまで持ち上げると、二言三言口の中でつぶやく。
すると、その中に騎士団長アーバルの姿が映し出された。周りの景色が流れるのが早い。馬を駆りどこかに向かっているらしい。
「アーバル殿」
スターズは水晶玉に向かって声をかけた。透明な曲面の向こう側で、老境の騎士アーバルが険しい表情で口を開く。
「何用だスターズ! こちら緊急事態の対応中だ、後にしてもらいたい!」
「王命である」
激しい剣幕をものともせず、むしろその言葉を遮るようにスターズはそう一言告げる。それを聞きアーバルは、銀の髭を蓄えた口を引き結び静かに重々しくうなずいた。
「……承知した。魔導士殿」
スターズは水晶玉を王サムエルの前に掲げた。矢も盾もたまらずと言った様子で、サムエルが向こう側に間髪入れず声をかける。
「緊急事態、だと?」
「は。北門にて何奴かの襲撃があった模様。私と他数名とで確認に向かっております。して王、御用命とは?」
サムエルはうつむき片手で目を覆った。そしてわずかに開けた口、喰いしばった歯の隙間から、何かを抑え込んだように淡々と、大きくも小さくもない声で言う。
「いや……、うむ。ならばそのまま北門へ向かえ。恐らくはそこだ」
サムエルはそこで口を切り、息を吸った。
わずかに震えるような声。その震えは、深く奥底に押し込めた怒り、あるいは他の何かの感情の発露のようであった。
「王子の姿が消えた。直ちに連れ戻さなければならぬ」
水晶玉の向こうそしてサムエルの横で、アーバルとスターズはそれぞれ息を飲んだ。
「王よ、それはいったい……」
スターズが口を開く。言いながら視線を上げると、そこにはカッと目を見開いたまま、血の気の引いた青い顔をしてその場に崩れ落ちるサムエルの姿があった。
「サムエル様!」
「どうした、何があった!」
床に転げた水晶玉からアーバルの声が響く。スターズにもたれかかるように支えられながら、サムエルは朦朧として虚空を指差した。
「捉えよ。逃がしてはならぬ、絶対に……。さもなくば、さもなくば……」
虚空を指し示した指先、持ち上げられたサムエルの腕全体がブルブルと震えた。
「ああ、だめだ、ならぬ、あってはならぬ。それは、それだけは、何が何でも……」
そのサムエルの体を支えながら、スターズは水晶玉に向かって声を張った。
「王の容体がおかしい。ひどく混乱されておられるようだ……。王はこちらで診る。アーバル殿は北門へ向かわれよ!」
「……ああ、承知した。魔導士殿」
その返事を最後に、水晶玉に映る像が消えた。スターズは杖を掲げ、ぐったりと目を閉じたサムエルを緑色の光で包んだ。
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