王城にて2
誰もいない城のダイニングルーム。テーブルの上に出されたままですっかり冷めきった夕食。それに対し特に誰に文句を言うでもなく独りで黙って食事を済ませ、ニグレドは城の北の塔へと急いだ。
彼の母、エナリアが住まう塔へ。
伝説の唄の王女その人であり、現在の王妃。麗しのエナリア。
ニグレドが物心ついた頃から、エナリアは一人、城の離れの北の塔で暮らしていた。母親が塔から出たところは、ニグレドは一度たりとも見たことがない。病弱で外の空気が体にあまり良くないのだと言う。
北の塔には、出入口の扉から王妃の部屋、塔全体に至るまで、幾つもの保護や浄化の類いの結界が張られていた。そこに出入りできるのは、その魔法を施した当人であり医師を兼ねる王室付き魔法使いスターズと、夫である国王サムエル。そしてエナリアの息子のニグレドだけだ。
塔の狭く長く目の回るような階段を登る途中、ニグレドは上の方で何か音がするのに気がついた。歩調を緩め、耳をそばだてる。
「――、――――」
聞き覚えのある男の声。
(……サムエルの声だ)
そうと気がついて、ニグレドは顔をしかめ引き返そうとした。しかしその声に何か違和感を覚え、一歩、下りではなく上りの段へ足をかける。
「――――で、――ない――」
声の様子が違った。玉座の間でニグレドが聞いた冷たく横柄なものとはまるで違う。夜のさざ波のような、優しく穏やかでどこか寂しげな声だった。サムエルのそのような声を聞いたのは、ニグレドは初めてだった。
困惑を抱えたまま、ニグレドは一歩、また一歩と音を立てぬよう足を進める。
やっと声の内容が聞こえるようになったのは、もはやサムエルの姿がうかがえるくらいにまで近付いた距離だった。塔の壁越しに、そっとその様子を盗み見る。
「……私から一つ、伝えさせてほしい」
先刻までは一段も二段も高い位置にある玉座から居丈高に言葉を投げつけていた男が、小さな木の扉の前で立ち尽くしてわずかばかりの言葉を絞り出すように綴る姿は、何か見てはいけないものを見ているような、むず痒い感覚を覚えた。
ためらいながらニグレドは半歩下がり、サムエルを視界から外すと耳をそばだてた。
「明日の式典に……、姿を見せてはくれないか」
返事が来る様子は一向になかった。静けさに包まれる中、サムエルの声だけが響いている。
「あなたが……、あなたの体調が許さないことは、重々承知だ。ああ分かっている。分かっているとも。……だが、やはり……。明日は、明日の式典は、あなたとの……」
声が言いよどむ。小さな木の扉の向こうでは尚も沈黙が続いた。
「……夜分、押しかけてすまなかった」
やがて吐く息混じりに、サムエルがようやく声を発する。
「今後はまた、スターズを遣わすようにする。……おやすみなさい、エナリア」
コツ、と足音が響く。その音でニグレドはハッと我に返った。
(このままだとまずい……!)
慌てて向きを変え、足音を殺して可能な限り早く塔の階段を駆け下りる。
どうにかサムエルに追いつかれないまま、ニグレドは塔の出入口に差し掛かった。回廊まで転がり出て柱の一つにもたれ、ほぅと息をつく。そこからわずかな時間も空けずに、塔の出入口にサムエルが姿を現した。ニグレドはそろそろと息を吸いつつ、様子をうかがう。
閉めたはずの扉が開いていることに気がついたようで、サムエルはけげんな顔で辺りを見回した。
(あいつがもう少し動いたら見つかってしまいそうだ。立ち止まっている今のうちに……)
そう思いながらニグレドは、もう一歩柱の陰に回り込もうとした。しかしサムエルはニグレドの予想から外れ、一瞬足を止めただけでその後すぐさま再び歩き出した。そしてあろうことか、その目が柱の陰に隠れるように立つニグレドと合ってしまう。
ニグレドの心臓が跳びあがった。
(何か言われるだろうか。何か勘づかれただろうか……)
しかしサムエルは、ニグレドからふいと目を逸らすと何事もなかったかのように彼の前を通り過ぎた。
いや、何事もなかったかのように、ではない。
ニグレドはサムエルの暗褐色の瞳が揺れ、一瞬何かの感情がよぎったのを見逃さなかった。その感情が果たして何であるのかは分からなかったが。
そして更にニグレドは、サムエルが自分の前を横切る時、ひるがえす長マントの陰、ニグレドと反対側の手で、穢れを祓うまじないの仕草をするのも見逃さなかった。
(サムエル……!)
カァッと全身が熱くなる。柱の影でニグレドは、長い廊下を遠ざかっていくサムエルの後ろ姿を見えなくなるまで睨みつけ続けた。
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