王城にて1

 ミディアと別れて、ニグレドは更に歩みを進めた。

 先ほどからずっと、自分の心臓の音がやたらとうるさく聞こえていた。そのくせ体は浮き立つように軽く、気を抜くと足音を忍ばせるのも忘れて駆け出してしまいそうなくらいだ。くるくると変わるミディアの表情を思い出して、ニグレドの口元がふっと緩む。

 だがその気持ちも微笑みも、冬の曇天に束の間だけ差す陽のようにすぐにかき消えてしまった。


 ニグレドの足がピタと止まる。

 辿り着いたのは一枚の扉の前。内と外とを隔て城内へと続く扉。彼のいつもの通り道。彼は無表情でその古びた扉を叩いた。

 扉が開くまでのわずかな間。

『さっき私『そうじゃなくて』って言ったけれど、でもやっぱり、あの人はちょっと怖いって思うわ。怒っていてもいなくても。……ううん、怒っているのかどうか自体が、よく分からないのだけれど』

 ミディアが別れ際にそう言って困ったようにクスッと笑ったのを、ニグレドは思い返していた。


 わずかにきしむ音を立てて扉が開かれる。

 その向こうに、濃紺のローブをまとった浅黒い肌の壮年の男が立っていた。眼光鋭く、しかし感情を感じさせない面持ちでニグレドを見下ろす。ぬっと立ちはだかるその様子は、実際の身長以上に背丈が高く感じられるようだった。

 王室付きの魔法使いにして、彼の目付け役のスターズだ。

「今日だけは早くお戻りになるよう、あれほど申し上げましたのに」

 口をほとんど動かさず、早口で単調にスターズが言う。ニグレドは口を結んだまま無言で門をくぐった。その後ろで扉が閉められる。


 扉の先は、ほこりとカビの臭いのする粗末な物置のような場所に繋がっていた。無論ここは王族が訪れるようなところでは決してない。今はもう使われなくなった狭く古い勝手口だ。それこそ、ただのしがない名もなき掃除夫が使うような。

 しかし同時に、王子が〝身支度〟をするにはこれ以上ない場所でもあった。


 スターズはその顔に一切の表情を表さないまま、ニグレドの被っているぼろ布の外套のフードを両指の先でつまんで後ろに外す。ニグレドは思わず奥歯を噛み締めた。

 外では決して人目に晒すことのなかった彼の髪が顕わになる。ややウェーブのかかった黒い髪。紫を孕んだ黒色。フードが外されたからだろうか。彼の髪は風もないのに揺れ、その紫色を煌めかせた。

 その上に手をかざし、スターズは口の中で何かつぶやいた。するとニグレドの髪の色が、収穫期の麦の穂のようにまばゆい金色に変わっていく。

 少年の全身を包んでいたぼろ布が外され、代わりに腰ほどまでの長さの立派なマントが肩にかけられた。

「お急ぎ召されよ。王がお待ちです」




「王よ、お連れいたしました」

 城の長い回廊を渡った先。玉座の間の前で、スターズが扉をノックして声を上げる。そうしてその重い扉を開け、スターズは王子に向かって促すようにうやうやしく礼をした。

 ニグレドは内心眉根を寄せながら、スターズを横目に玉座の間に足を踏み入れる。


 石の壁。高い天井。燭台に明かりは灯されているはずなのに、部屋の中はなぜだか薄暗く感じられた。広い空間に、ニグレドの足音だけがカツンカツンと高く響いては消えていく。己のつま先に視線を落とし、ニグレドはただ黙って足を進めた。


 玉座へと続く数段の段差。その段に差し掛かる手前でニグレドは足を止めた。最後の一歩を踏んだ足音の反響が次第に静まって消えていく。それと引き換えに、かすかな衣擦れの音がニグレドの耳に届いて聞こえた。

 濃紺のローブをまとったスターズの滑るような足取り。スターズはニグレドの通った道を遠巻きにするかのように壁際を沿って歩き、そして瞬く間に、玉座に掛ける王の傍らにするりと控えた。


 そこでようやく、王はその口を開いた。

「ずいぶんと、遅かったではないか」

 重々しい声が玉座の間に響く。

 ニグレドは目を上げようとはしなかった。見なくても分かる。鳶色の髪、その色と良く似た暗い褐色の目。伝説に謳われた勇者であり、現在の国王。偉大なるサムエル。そのサムエルが、厳めしくこわばった表情でこちらを睨みつけるように見る姿など、何度も。


「明日は重大な式典の日なのだぞ。お前も、それが分からないわけではあるまい」

 サムエルの声が頭上から押さえつけるように響く。ニグレドは口を引き結び、黙ったままでいた。玉座の間に流れる沈黙。燭台に灯る明かりを受けて、ニグレドの金色の髪がキラキラと輝く。

 ややあって、サムエルは言葉を続けた。

「明日は勝手に出歩くことは一切許さぬ。一日、目付のそばを離れぬように」

 サムエルの横で、その言葉を受けスターズが頭を垂れる。一方のニグレドは、尚も目線を上げず微動だにもせず、ただただ黙って沈黙を続けた。

「……話は、以上だ。もう下がってよい」

 やがて吐く息混じりに、ようやく発せられたサムエルの声。その言葉が耳に届くや否や、ニグレドはさっと踵を返し、部屋を後にすべく歩き出した。それに伴いすかさずと言った風に、スターズが扉を開けるために壁際を伝ってやってくる衣擦れの音が聞こえる。


 ニグレドより先にそそくさと扉の前に辿り着いたスターズは、腕を伸ばして扉を開けながら、淡々とかつ口早に言う。

「御夕食はもう既に準備させております。お早めに召し上がられますよう」

 ニグレドはうなずく素振りすらせず、無言でその前を通り抜けて扉をくぐる。

 その折に、スターズはぼそりと一言だけ小さな声でこう告げた。

「……母君がお呼びです」

 その言葉に、扉を抜けた先でニグレドは思わず振り返った。しかしスターズは一切動きを止めることはせず、無の表情のまま頭を下げ、彼の目の前で扉を閉めた。

 重い扉が閉められた音が回廊に響く。その反響が消えていく中、ニグレドの髪の色もそれと同じように、次第に金色から元の黒髪に戻っていった。

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