王城にて3

 ニグレドは再び塔の階段を駆け上がった。

(もう止まるもんか、止まってなんてやるもんか……!)

 そうして切らした息を整えて、ニグレドは最上階の扉を叩いた。

「僕です、母さん」

 静かな音を立ててその木の扉は開かれた。それを眺めながらニグレドは、息切れのためではなかろう長い息を鼻から吐いた。誇りとも傲りともつかないような息だった。


「ありがとう、ニグレド。来てくれて」

 収穫期の麦の穂のようにまばゆい金色の髪、優しい微笑みを浮かべる美しい母の顔。ニグレドの幼い頃の記憶から、何一つ変わらない母の姿だ。

 しかし今、その目の端に光る涙にニグレドはギョッとした。

「ど、どうしたの母さん……!」

 そう言ってニグレドはふと先ほどの、遠ざかる長マントの後ろ姿を思い出した。

「ああ、あいつだ、あいつのせいか。あいつが何か嫌なことを言ったんだ! そうだろ? 母さん!」

 目を吊り上げてまくしたてるニグレドに、エナリアはゆっくりと首を横に振った。

「だめよ、お父様のことをそんな風に呼んでは」

 ニグレドは口をつぐみつつも、ヘの字に曲げる。エナリアは再び首を横に振った。

「ほら、そんな顔をしないでニグレド。さ、中にお入りなさい?」

 そう言ってエナリアは部屋の中に下がった。


 王妃の居住にしては質素な、しかし品の良く、落ち着いた部屋だ。長椅子に腰掛け、エナリアはニグレドに手招きをした。

「母さん、話って……」

 後ろ手に戸を閉め、母の隣に座りながらニグレドが訊ねる。エナリアはうなずいた。

「明日は、式典の日ね」

「母さんは……」

『出ないんでしょう?』ニグレドはそう言おうとした。当然だろう、という気持ちがあった。これまでどんな日であっても、この塔から出てきた時はなかったのだから。

 しかしニグレドが言葉を発するよりも先に、エナリアが続けた。

「久しぶりの外だから……、なんだかもう、今から緊張してしまっているみたい」

「出るの……?」

 ニグレドは目を丸くした。思いもよらないことだった。驚きで次の言葉がすぐに出てこない。面くらった顔のニグレドに対し、エナリアは何も変わらない様子で穏やかに微笑んでいた。

「……あいつが」

「ニグレド」

 エナリアがたしなめるように静かに言う。ニグレドは咳払いをして続けた。

「……、王様が、出ろって言ったから?」

「いいえ、違うわ」

 そう言って、エナリアは遠い目をした。

「明日は……、明日の式典は、私と王様の結婚記念日のお祝い。十五年目の、大事な節目の年ですもの」


 そう、明日はエナリアとサムエルの結婚記念日。それと同時に、サムエル王が戴冠した日。『勇者の唄』の締めくくりに唄われる大団円。恐ろしい魔王の脅威が消え去り、平和が訪れたことの証である、国一番の祝い事の日だ。


「でも、母さん……」

 歯切れ悪くつぶやいたきり、しかめ面のまま黙り込むニグレド。そんな息子の方をパッと振り向いて、エナリアは明るく言った。

「心配しないで。……体の調子は良いの。本当よ? でも、そうね」

 エナリアはふと考え込むように、その陶器のような頬に手を添え、首を軽く傾げた。

「あんまり久しぶりにみんなの前に出るから……、緊張してしまわないように、何かヴェールでも着けて行こうかしら。後は……、あなたがずっとそばにいてくれたら、母さん心強いわ。ね、そうしてくれる? ニグレド」

 母のまっすぐな眼差し。ニグレドは、うなずかないわけにはいかなかった。

「うん……、分かったよ、母さん」

「良かった」

 そう言ってエナリアは、心の底から安心したように微笑んだ。


「明日が十五周年の式典と言うことは……、ええ、そうだわ。その次の典礼はあなたの特別なお誕生日。元服の式ね」

 エナリアは息子ニグレドを愛おしげな眼差しで見つめた。

「早いものね。もうあなたもそんな歳になるのね……。あの小さかった子がこんなに大きくなって。そのマントも、そろそろ小さいんじゃないかしら? 丁度良いわ。元服の正装の長マントは、きっとあなたに良く似合うと思うの」

「うん……」

 金色の髪がふわりと揺れる。エナリアは息子を両腕に抱きしめた。それから少し腕を緩め、その顔を見つめる。

 ニグレドの細い顔の輪郭を縁取る、紫を孕んだ黒い髪。

 エナリアの白い手が、その髪ごとニグレドの頬を慈しむように包み込んで撫でる。

「ええ、本当に、大きくなって」

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