雲の足跡
蝉達の泣き喚く季節となった。
私からすると、蝉は鳴くというよりも
泣いているという方がしっくりきた。
たった1週間の命のために
何故産んだのだと言わんばかりに
声を荒げて訴えるのだから。
目の前に開かれた参考書。
学校で購入しなければならなかった教材は多く
出費はかなり痛かったのだが、
その分他の冊子を無闇に
増やさなくて良くなった。
単語帳をはじめ、この参考書を
何周もしたらだいぶ身につくだろう
と思うものがいくつかある。
勿論ハズレだと感じるものもあったので、
その分は中古で探して購入するつもりだ。
今回の夏休みの宿題は
感想文だとか色々検索等
しなければならないものは
既にピックアップしており
順次終わらせていった。
ひとつタスクが終わるごとに
思いっきり伸びをすると、
これまでにないほどの快感情が湧いてくる。
他、単純作業にも等しい
問題を解くのみの課題は
5日もあれば終わる見通しだ。
それまでは高校2、3年生になって以降
学ぶような内容を独学で進めていた。
周りの子、それこそ同級生からは
大きく遅れをとってるから
もっともっと頑張らなきゃ。
そう考え続けて時間が経た。
今でもこの考えは色褪せなかった。
高校1年の問題は複雑なものでなければ
さっさと片付けられるだろう。
行き詰まるたび、以前から手元に置いてあった
高校3年生分までの化学をカバーしている
参考書を気ままに解いた。
化学が好きだったから、
それが唯一の息抜きになるのだ。
花奏「ふぁー…。」
大きな欠伸をひとつ漏らしてから
畳に手をついたところで
そのまま倒れ込み大の字になって寝転ぶ。
井草の匂いに取り巻かれてた。
春の時との違いを上げるとするなら
近くで意気揚々と
渦巻いている扇風機がいたり、
湿気が多く井草の匂いが
少々曲がって鼻に届けられたり
することくらいだろう。
天を仰いでも空は見えず
代わりに出迎えてくれたのは
我が家の見知った木の天井。
相変わらず木目は見えず、
電気に左手をかざしてみれば
頬に影が落ちるのを感じた。
ばたりと音を立てて
床に手を打ち付ける。
傷跡はもう痛まないけれど、
よくない理由で心臓が跳ねたよう。
キッチンの小窓から
人を焼こうとするほどの日差しが
部屋の端くれを照らす。
夏だと分かってしまうには十分の
日光の強さ加減だった。
花奏「…はぁ。」
先日、歩さんの家に行ったのを思い出す。
初めてお泊まり会をして以降、
定期的に一緒にご飯を食べている。
外食はお金がかかるため
いつも歩さんの家のお台所を借りて
メニューを決めて自炊するのだ。
未だに家に入ることは
嫌悪されている気がするが、
それでも毎回文句を言いながら
受け入れてくれるのだから
やっぱり歩さんは優しい。
花奏「…そんなこと、前々から分かりきってるか。」
そう。
ずっとずっと前から知っていた。
歩さんが優しいことを知っていた。
けれど、当時は漠然とした優しさに
甘えていたのだ。
今となっては、どんな優しさなのか
色が見え出してきた。
歩さんは何でもかんでも
受け入れるわけではない。
どうでもいい人には基本冷たいけれど、
それだってひとつの優しさなのだと思う。
嫌な時には嫌という。
踏み込んでいい嫌と、駄目な嫌があると
段々と分かってきた。
本当に嫌な時、歩さんは口数が減るのだ。
それから苦い顔をする。
通常時とその差は僅かしかないのだが
ちゃんとそこには違いがあった。
溝があった。
私が踏み入れられないような
核心となる部分なのだろう。
私だってあるもの。
誰にだって守っていたい核心はあるし、
それを無理に開示しなければならない
なんてこともない。
親しき仲にも礼儀あり、
その距離感を見誤っては
後が大変だから。
花奏「…。」
今日は午後からお母さんの
お墓参りに行くのだ。
父さんが長期出張先で
コロナに罹ってしまったために
1人だけの生活がここ1週間程続いている。
お金はいくらかあったので
最低限の生活をするのに不便はなかった。
その何割かを交通費に割き、
残ったその幾分かを
お花やお線香に割く。
うんと暑いものだから
お花もすぐに下方を
向いてしまうかもしれないが、
短い間だけでも空を仰いでほしい。
台風が去った後なので
空気は昨日よりも美味しいのではないだろうか。
昨日の雨は酷かった。
時に局所的な大雨が私の家を襲った。
お父さんはまだ戻ってきていないので
1人で膝を抱え台風が過ぎるのを待った。
そのような日は必ず
雨の音に耳を傾ける。
悪意のない雨は好きだった。
しかし、悪意のある雨は怖かった。
雨の匂いは好きだった。
お母さんとの思い出があるから。
雨の感触は苦手だった。
思い出したくない記憶があるから。
雨の音は好きだった。
お母さんがよく雨音を背に
鼻歌を歌ったものだから。
雨の味は苦手だった。
泥と混ざると尚更吐き気がするから。
そんな雨が、昨日去ったのだ。
心中は複雑極まりなく、
ただ左腕をぎゅっと握り締めては
痛みなどなく諦めて手を離す。
追憶するには、苦い思い出が多かった。
大切な人ばかり失った。
それでも、何度も立ち直ってきた。
立ち直ったというのは嘘かもしれない。
立ち直らずとも今、精一杯地に足をつけて
生き続けている。
大丈夫。
そう言われている気がした。
花奏「…よし、準備するか。」
漸く井草の感触から抜け出し、
抜け殻をその場に脱ぎ去って
夏の日を浴びる準備を始めた。
そうだ。
お母さんのお墓参りと、
真帆路先輩のところにも行こう。
最近、それこそ高校に入学して以降は
会いに行っていなかったから。
お母さんとは毎日顔を合わせるものの
真帆路先輩とは久しぶりに
顔を合わせるものだから
少しばかり気恥ずかしさがある。
それと共に、出会いから別れまで
一気に想起されるのだった。
夏雲はどうやら
私たちのことを待ってるように
そこに立ちはだかっていた。
***
花奏「…あ………っづぅ…。」
霊園の売店でお花やお線香を購入し、
1歩踏み出て発せられた言葉がそれだった。
声に出さずにはいられないほどの日差しに
思わず文句のような濁り具合の言葉が
漏れ出てしまったのだ。
日陰に入っただけで
5℃は違うのではないかと思うほど
快適さに大きな違いが生まれている。
夏休み明けにこのような日差しの中
登校するだなんて考えたくもない。
次行く時にはせめて秋ぐらいに
なっていてほしいものだ。
両手が空くようにと思い、
学校で使用している
飾り気のないリュックを背にしてきた。
今お花を片手に、もう片方には
簡易的なマップとお線香が握られている。
お母さんのお墓には何度も
足を運んでいるものだから
流石に覚えてしまったのだが、
真帆路先輩は久々なので
マップに記されたマークを
じっと見つめて脳内で散歩してから
向かうことにした。
強い日差しによって肌は
炙られているような感覚に陥る。
それは、私にとっては
苦い思い出のひとつなわけで、
まるで逃げるように
見つけた日陰へと駆けた。
日焼け止めは塗っているし
半袖ではなく生地の薄く透け感のある
長袖を着用していても
苦手なものは苦手なのだ。
これでも克服したものは多い。
しかし夏になると
意図せずとも浮かんでしまうことは多々ある。
唐突に雨が降り出すのだ。
足元には水溜りができるのではないかと
思ってしまうほどの大雨が、
瞬間のみ私の体を冷やすのだ。
そんな空想が脳内を駆け巡り、
何巡もしたところで
蝉の鳴き声が私の意識をひっぱり戻してくれた。
花奏「夏やなー…。」
そういえば、いつも一緒にいる
友達の1人が帰省すると
言っていたような気がする。
関西圏から上京してきた子で、
念願の1人暮らしだったらしい。
周りには1人暮らしをしている人が多くて
なんだか萎縮してしまう。
ただ、その子の場合は
近くに知り合いが住んでいるとかなんとか。
帰りたくない、帰省したくない
だなんて口にしていたっけ。
やんちゃな子供や口出しの多い
おばあちゃんがいるのかもしれない。
将又、不便な土地なのかも。
現に、田舎だと口にしていた気がする。
そこはここより暑いだろうか。
蝉は鳴いているだろうか。
それとも、泣いているだろうか。
からり。
お花の入れてある入れ物についていた
柄杓が音を鳴らした。
それから歩いてお母さんの元へと向かう。
いつもは父さんが運転してくれて
お墓の近くまで行くのだが、
今は1人、歩く他なかった。
汗をだらだらと流し
服に吸わせながら1歩踏み出し続ける。
そうしていればいつかは着くのだ。
持ってきていたタオルを首にかけてみれば
蒸れて熱がこもり出した。
しかし、手はなかなか開かないため
タオルは首にかけられたまま。
今は手の届かない背中に
つうっと流れる感覚に襲われる。
乾けば匂いが気になるだろうな。
やはり夏は苦手だと
再認識する他なかった。
お母さんの元に辿り着く頃には
背中には大きなしみが
できているであろう状態。
ただでさえ肘の内側が
大洪水しているのだ。
いっそのこと雨が降ってしまった方が
心地よかったのかもしれない。
清々しただろう。
雨に負けた、と認める他ないのだから。
だが、まだその経験がないためか
未だに雨には負けていないと
意地を張っている自分がいた。
相変わらず、私は一体何と
戦い続けているのだか見失っている。
花奏「こんにちは、お母さん。」
お墓は綺麗というには
少々届かなさそうで。
植えられたものとは別に
雑草が幾分か背を伸ばしている。
なんだか、歩さんと足を運んだ
廃墟のような場所が想起された。
宝探しで得た神のひとつに
住所が記載されてあり、
その場所に向かったのだ。
あの場所も確か雑草が多く、
足を刺すような代わりらしい痛みが
傷跡を抉っていた気がする。
それほど背は伸びていないけれど、
目につく位置にいるからか
なんだか余計邪魔に見える。
ビニール袋は持ってきていたので
簡単に掃除してから
お母さんにちゃんと挨拶することにしよう。
雑草をひと掴みすると、
なんだか分からない種子が
はらりと散っていった。
こうして来年も草が育つのだろうなと
ぼんやり考えながら。
ぱぱっと手早く掃除を済ませ、
お線香やお花を生けてから
手を合わせて挨拶をする。
最近はこんなことあったんだよ、と
回想しながら想いを届けた。
直近では父さんがコロナウイルスに
罹ってしまったこと。
けれど、重症ではなく
もうそろそろ戻って来れそうなんだって。
安心してる、お母さんはどうかな。
後、高校生活を頑張っていること。
昔は勉強の出来ない子供だったけど
こんなに勉強するようになったよ。
まだまだ遅れはとっているけれど、
化学なら3年生と張り合えるんじゃないかな。
好きな科目が見つかったよ、
ひとつだけだけどね。
それから、素敵な友人と出会ったこと。
まずはクラスの子。
4人ほどでよくいるのだけど、
そのうちの1人は入学式の時から
声をかけてくれたの。
その子によると、受験の時に
私のことを見つけていたみたい。
元気で明るくて素敵な子。
田舎から上京してきたの、凄いよね。
そして、歩さん。
一見つんつんとしていて
近寄りがたい雰囲気はあるけれど、
実は優しいところだらけなの。
芯のある人で、憧れてる人。
文句やちくちく言葉はそれなりに多くても、
それでも否定はそんなしないんだ。
それから、不可解なことが
原因で出会ったみんな。
梨菜さんや波流さん、美月たち。
みんないい人なの。
よく会っているというわけでもないけれど、
時々LINEやTwitterで連絡をとる。
今度みんなで遊びに行くんだ。
夏祭りだって、花火もあるみたい。
あまり気乗りはしないけれど、
それでも行ってみようと思う。
変われる気がしてるから。
1歩進める気がしているから。
だって私、高校生になれたのだから。
お母さん。
私、身長も伸びたし体重も増えたよ。
ちゃんとここで生きてます。
どうか、この先も見守っていてほしい。
ゆっくりと休めますように。
また来るね。
花奏「…。」
そう心でつらつらと話した後、
ふと顔を上げると青空が迎え入れてくれた。
息を止めてしまった。
ここで息を吸ってしまうと
そこから空に呼ばれて
吸い込まれてしまいそうだったから。
お母さんはきっと、
この青空に浮かぶ雲の影に隠れている。
だってほら、足跡が見えるもの。
たなびく雲の足跡が。
長居するのもお母さんが休めないかと思い、
簡単に荷物をまとめてから
何かをいうこともなく
その場を後にした。
柄杓などは近くに返却する場所があったので
出来るだけ乾くようにと
思いながらその場に置く。
そして、身軽になった今
再度マップを見直して
道を確かめながら進んだ。
思えば、何年か前もこうして
歩いていたはずだ。
それとなく記憶がある。
あの日も青々とした夏だったろうか。
決意表明も含めたお墓参りだったから
ものすごく力が入っていたはず。
今では程よく肩の力を抜けるようになった。
力の抜きかたを覚えた。
力を抜いてもいいと思えるような
時と場所がここにはあった。
それもきっとみんなのおかげ。
不可解なことがあり、
多くの人が害を被りながらも
その全ては良い方向へと
向かっているようにも感じた。
愛咲さんがいなくなった時は
流石に恐怖のあまり
眠れない日もあったけれど、
彼女は今、元気に過ごしている。
それから、美月と歩さんも
何があったのか語らないが
仲直りしたらしい。
いろいろと害はあった。
しかし、それがなければ
私たちは出会っていないのだ。
私と歩さんは少なからず
会っていたのだろうけれど。
ただ、ひとつ間違っていれば
ここにはいなかった可能性だってあるのだろう。
そう思うと、今までの選んできた道は
正解だったのではないかなと
少々安心し慢心してしまう。
ただ、私の知らないところで
大きく悪い方向に流れていることも
あるのかもしれない。
それを考慮すれば
一概に良いとは言えないか。
不思議な縁だった。
私たちは不思議な縁で繋がっている。
それは、想像もつかないような。
花奏「…?」
マップを片手に
漸く真帆路先輩のお墓であろう場所が
見えてきたところだった。
不意に見えた人影があった。
どうやら真帆路先輩の
お墓参りに来ているようで。
その人が退くまで気長に待とうと思い
背を向けかけた時だった。
ばち、と目があったのだ。
どうにも見覚えがあると思えば
それもそのはず。
愛咲「………花奏か…?」
記憶の限りでは
最も小さく、掠れたような声で
私のことを呼んだ。
そう、そこには紛れもなく
愛咲さんがいたのだ。
もう戻るところだったのか
荷物をまとめ始めている様子。
立ち上がったところ
私のことが見えたみたい。
そうか。
そういえば宝探しの時、
『伊勢谷真帆路は生きている』
という紙が見つかった際に
反応していたっけ。
そうだ。
愛咲さんも真帆路先輩と
関係のある人なんだった。
なんだか、妙な気持ちになる。
これは擽ったいものであり、
喜びなのか嫉妬なのかは分からず
寧ろ名前をつけたくなかった。
このまま有耶無耶にしたままの方が
いいことだってきっとあるはずだから。
ぱっと無意識のうちに
手を後ろで結び、
夏の実感していた。
あぁ。
薄くとも長袖を着てきてよかった。
***
愛咲「はいよ!」
花奏「わ、冷たっ。」
愛咲「愛咲さんの奢りだぜーい。」
花奏「そんな、ええんに。後で払うで。」
愛咲「いーのいーの、先輩面させてくれよぅ。」
霊園の売店に戻り、
外の日陰にあった椅子に座って
ぼうっとしていたら
愛咲さんは首元にペットボトルを
優しく当ててきた。
それは、夏だからこそ光る冷たさ。
見てみればただの水なのだが、
夏というフィルターは不思議なもので
何気ない景色だって感傷的に出来てしまう。
愛咲さんからもらった飲み物を手にすると
彼女は私の隣に腰を据えた。
足を程よく開いて、
それからぐーっと伸ばして背伸びをしている。
愛咲さんの肌はいつの間にか
優しい小麦色になっており、
夏休みに帰省にして
遊び続けた少女のようになっている。
そういえば大会があったんだっけ。
陸上部だったということは
ぎりぎり記憶の隅に引っかかっていた。
それもきっと、Twitter等から
得た情報だった気もする。
伸び終えた愛咲さんは
自分用のペットボトルを開き、
豪快に飲み始めていた。
どうやら夏が似合うよう。
愛咲「ぷはー。」
花奏「暑いもんなぁ。」
愛咲「なー。でも嫌いじゃねーんだよなぁ。」
花奏「そうなん?」
愛咲「暑い日に走ると青春感じるんだぜい?」
花奏「流石陸上部や。」
愛咲「へへっ。」
花奏「そういや大会あったんやなかったっけ?お疲れ様。」
愛咲「おーう!ありがとよう。ま、うちは走ってないんだけどな!」
花奏「そうなん?」
愛咲「おうよ。予選の時にエントリー出来てなかったからさ。ほら、うちいなかったじゃん?」
花奏「あぁ、そっか。」
愛咲「そ。てなわけでマネージャー的ポジションで応援隊長ってわけ!」
花奏「みんな元気づけられること間違いないやん。」
愛咲「そーゆーことは愛咲さんに任せろってー。」
まるで何も悔いのない部活動生活を
送ったと言わんばかりの明るさに
一瞬戸惑ってしまうほど。
けど、その明るさの裏側には
数えきれないほどの苦労と
見たくもない後悔が
募って知るのだろうと勝手ながらに
想像してしまった。
どれほど明るい人だろうと
他人から見えない部分など
無数にあるのだと知っているから。
それこそ、真帆路先輩だってそうだったから。
愛咲「てかさ、花奏も真帆路先輩と面識あったんだっけな。」
花奏「うん。小学生からの付き合いなんよ。」
愛咲「まじかよ。うちら出会ってたかもしんないのか!」
花奏「可能性あるで。愛咲さんって真帆路先輩とはどんな関係やったん?」
愛咲「たに先輩とはなー、中学の時にあったんだよ。うちが1年の時、先輩は3年な。」
花奏「うん。」
愛咲「んで、当時のうちは…あー、恥ずかしながら泣き虫でこんなに明るくなかったんだ。しかも馬鹿。」
花奏「そうなんや、なんだか意外。」
愛咲「だろー?そんな性格を180°変えてくれたのがたに先輩だったんさ。なーにかあった時、校舎の隅で泣いてたら声かけられたんだっけ。」
花奏「どこでも変わらへんのやね、先輩。」
愛咲「な。んで、時々関わるようになってって。1番お世話になったのは受験の時なんだよ。」
花奏「受験の?」
愛咲「そー。勉強を見てもらってたんだ。うち1人だったらこの高校受かってないってのー。」
花奏「真帆路先輩、頭良かったもんね。」
愛咲「教えかたも上手だったぞ!」
花奏「ふふ、流石やね。」
愛咲「そんな真帆路先輩に憧れるようになって、同じ高校に進みたくなってさ、そんで無事成山ヶ丘に合格だぜぃ。」
愛咲さんは飲みかけのペットボトルを片手に
空へと突き出した。
ガッツポーズであろうその姿は
明るさ全開にしか見えない。
つう、と彼女の手首から肘へと
結露した水滴が伝う。
愛咲「…でも、高校に入学して以降はあんま関わりなかったな。」
花奏「それぞれのコミュニティが出来てくるもんな。」
愛咲「そうそう。うちもうちでクラスや陸上部の人らと仲良くしたりバイト始めたりで時間なくなって。んめ、先輩は受験生だったから。」
花奏「…受験生やったね、そういえば。」
愛咲「花奏はどんな間柄だったんだ?」
花奏「私は…。」
瞬きの一瞬で過ぎった
夕暮れの川辺を今も鮮明に
思い出せてしまった。
ささやかに歌う草木、
耳を宥める水音、
肌の上を滑る生暖かい風。
お母さんが癌で亡くなって直ぐの頃のこと。
°°°°°
歩「誰、これ。」
花奏「………先輩。」
歩「先輩?」
花奏「…うん。小さい頃に出会ってからお世話になってた先輩…なんよ。」
歩「お世話になってた?」
花奏「…っ。…真帆路先輩は亡くなってるんよ。一昨年の秋に…。」
歩「…紙には生きているって」
花奏「そんなはずないんよ!葬儀にも参列したんやから、そんなはずっ…。」
歩「……そう。」
花奏「…っ。」
°°°°°
そういえば歩さんといた時にも
同じようなことを思い出していたっけ。
私があの時大阪に引っ越していなかったら。
あの時先輩の近くにいられたのなら。
もしかしたら。
もしかしたら先輩も居なくならないで
済んだのかもしれないのに。
そんな後悔は数年経った今でも
ふと脳裏を過ることがある。
私のせいかもしれない。
そんな後悔がずっと。
ずっと、今でも残っている。
今日に至ってまでも、
その黒い塊は私の足を呑み込んで
話そうとしてくれなかった。
いつまでもこちらをじっと見つめていた。
黒い塊から、視線を感じ続けていた。
花奏「私は、確か小学生の真ん中くらいの歳の時にあったんよ。」
愛咲「まー、10歳弱?」
花奏「そんくらいやね。色々なことがあった後で、私も今みたいな感じやなくって暗くてさ、よく1人になりたくて川辺に行っててん。」
愛咲「川辺かぁ。この辺?」
花奏「神奈川やったよ。」
愛咲「ほうほう、なるへそ。」
花奏「ある日な、川の水に触ろうかなって思って手を伸ばしたんよ。そしたら真帆路先輩が偶々来て、危ないからって言われてん。それが出会いやね。」
愛咲「学校が一緒とかじゃなかったのか?」
花奏「全然違ったで。」
愛咲「そっかぁ。中高以降はあれか、年齢的に一緒にゃならねーのか。」
花奏「あー…そうやね。」
愛咲「そのさ、危ないからってどっちの意味だったかとか分かるか?」
花奏「多分、真帆路先輩自身の特徴的なものやろうなって思っとる。」
愛咲「その頃からだったんだなぁー。」
特徴的なもの、というのも
直接口に出していいのか迷ったのだ。
けれど、愛咲さんも知っているらしく
それだけで通じていた。
特徴。
それは、霊感が強いということだった。
真帆路先輩は前々から
見えるタイプらしく、
度々嫌な思いもしてきたそう。
きっと、その川辺で出会った時も
川の中には何か良くないものが
見えていたのだと思う。
水辺はいろいろなものが
寄りやすいとも聞いたことがある。
私はその後も川辺に通ったのだが、
2度と近づきすぎることはしなくなった。
そのかわり、土手で先輩と
話すようになったのだ。
時間があれば集まるようになっていて、
私もそれが楽しくなっていった。
花奏「それからはこれといって何かあったわけやなくて、それとなく時間が過ぎていってん。」
愛咲「時々会ってたか?」
花奏「先輩が中学生になってからはほんと時々くらいやね。それで大阪の方に引っ越して、それからはぱったりと関わりという関わるはなくなった。」
愛咲「引っ越してんだっけ?あ、そういや方言使ってるもんな!」
花奏「あはは、まあ…方言は後付けみたいなもんやけどね。」
愛咲「そうなのかー?」
花奏「うん。それで…大阪にいる間に、かな。」
愛咲「たに先輩は亡くなった、と。」
花奏「…そう。」
母親の死は暫くしてから
何とか受け入れることが出来た。
癌だった、闘病した上での結果だった。
それは受け入れた。
私のせいではないことも理解した。
だが、真帆路先輩の件だけは
未だに引っかかり続けている。
私のせいではないか、と。
今でも、いつまでも。
もし私が近くにいたのなら
何か変わっていたんじゃないかって。
けれど、それは思い違いなのだろう。
私に何ができるかと問われても
何も答えることはできない。
私にできることはなかったのだから。
愛咲「花奏ってさ、たに先輩が亡くなった時の状況ってか…その、いろいろって知ってるっけか。」
花奏「…受験か、身体の特徴的な理由でいじめられたストレスでの自殺…って聞いたで。」
愛咲「んじゃあ、知ってんだなぁ。」
花奏「うん。」
愛咲「正味な、うちは納得いってないんだよ。」
花奏「…うん。」
それは、真帆路先輩が
自殺したということもそう。
何も相談すらなく
亡くなったというのもそうだろう。
それこそ、愛咲さんは同じ学校で
高校1年の頃に…。
愛咲「うちさ、その状況を見てたわけじゃねーんだけどよぅ、聞いた話によると原型がなかったとかゆーんだ。」
花奏「…ん?」
愛咲「原型がなかったんだって。」
花奏「え?でも、飛び降りやないん?」
愛咲「そ。学校の高い階から飛び降りた。」
花奏「普通原型はあるやろ。」
愛咲「うちもそう思ってるんだよ。普通はそうだろって。頭打つなり何なりしたとしても多少は形あるだろってな。」
花奏「形もなかったん?」
愛咲「そこの話はまじで人によって変わってきてるんだよ。どろどろの塊だったとか、手足が衝撃で千切れてたとか。」
花奏「ぅ…。」
愛咲「ごめん、気のいい話じゃねーよな。」
花奏「…違いがあるんは人伝に流れる話やからしょうがないけど…。」
愛咲「にしてもじゃねーか?うちな、思うんだ。」
愛咲さんはふと空を見上げたかと思えば
再度視線を落とし、
手元のペットボトルを眺めた。
つう。
ああ、また流れている。
そして気づく。
私の持っているものも同様
雫だらけでじとじとだと。
愛咲「本当にたに先輩って、まだ生きてんじゃないかなーって。」
花奏「…。」
愛咲「確かにお墓もあるし、そんなん夢物語って思うかも知んないけどよ、なんか期待しちまうんだよな。」
花奏「気持ちはわかるで。でも、葬儀にも参列したんやし、事実は変わらへん。」
愛咲「…あっはは、花奏は大人っぽいよなー。」
花奏「そんなことないで。」
愛咲「いーや、あるね。ちゃんと目の前のことを見れるんだからさー。自信持てよぅ。」
たしん、と水滴だらけの手で
背を叩かれたのだが、
水分は服にほとんど染みなかった。
『伊勢谷真帆路は生きている』。
その文字がもし、本当なのであれば
どれだけ嬉しいだろう。
反面、そしたら亡くなったとされている
真帆路先輩は誰ということになるのだろう。
°°°°°
花奏「…っ!?」
歩「…『伊勢谷真帆路は生きている』…人?だれ。」
---
花奏「…そんなはず…」
歩「何?」
花奏「えっ…?」
歩「なんかびっくりしすぎじゃない?」
花奏「っ…。」
---
花奏「…何にも。」
歩「は?何でそこで隠すわけ?」
花奏「…。」
歩「じゃあ聞くけど、知り合いの名前?」
花奏「……。」
°°°°°
自信を持てと言われたけれど、
私はいつまでも遅れているだとか、
周りと比べると劣っていると感じてしまう。
それにだって勿論理由はある。
それこそ、愛咲さんに
話してしまおうかと思った。
歩さんには話せない、
話したくないようなことを
彼女なら平然と
受け取ってくれそうだったから。
…きっと、歩さんも平然と
受け取ってはくれるだろう。
けれど、親しくしていたいからこそ
言いたくないことだってあるのだ。
大人っぽい、か。
と心の中で反芻される。
大人っぽいだけであって
心はまだ幼いまま。
°°°°°
梨菜「花奏ちゃんってさ、なんというか…大人っぽいよね。」
花奏「そうかいや?身長があるからやない?」
梨菜「それもあるかも。」
°°°°°
不意に思い出したのだが、
梨菜さんにも同じようなことを
言われていたような気がする。
身長があるだけだ。
そうだよ。
…。
そういうことにしておいてほしい、か。
愛咲「…最近さ、不審なこと増えてるじゃんかー。」
花奏「そうやっけ。」
愛咲「あー、うちの周りでっていう感じ?」
花奏「あはは、私知り得んやん。」
愛咲「はっ!?確かに。」
花奏「最近何があったん?」
愛咲「うちの妹の学年でなー、事故か事件だかで亡くなった子がいるらしくてなー。」
花奏「えっ…同じ学校の子やったん?」
愛咲「いーや、ちょっと遠かったっけな。友達の友達の友達とか、そんくらいの関係らしいけど。」
花奏「まあ、遠めっちゃ遠めやね。」
愛咲「そー。まだ中学3年だったんだって。」
花奏「…若いよな。」
愛咲「ほんとにな。みんな若くして亡くなりすぎだって、うちは悲しくなるぜ。」
花奏「うん…。」
愛咲「…うし、悲しくなるような話もこのくらいにしといて。うちは帰るけど花奏は?」
勢いをつけてベンチから離れ、
そのままの勢いでこちらに
手を伸ばしてくれた彼女は、
やはり夏の化身のようで。
伸ばされた手を取るのには
少々躊躇ったけれど、
それでも夏に親しみを持って
近づいてみたくなった。
お互いペットボトルの湿気を
多量に含んだ手だったからか、
しっとりとした感触が肌を伝う。
花奏「私も帰ろっかな。」
愛咲「うんうん、そーしようぜぃ。途中まで一緒だろ?」
2人でバス停まで向かう中、
ふと空を見上げてみれば
雲は別の場所で集っていた。
足跡だらけの空だが、
未だにお母さんの姿は見えない。
真帆路先輩の声だって聞こえない。
残された夏の匂いに包まれて
霊園を後にするのみだった。
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