第22話 前愛は心の壁に…
男は珍しく嘘吐き太陽が天頂に達する時刻に港に居る。
男が着岸ロープを手繰り寄せ、乗船しようとした時、
「正栄さん!」と
港中に聞こえ渡る元気な声が響き渡った。
男の新たな恋人である魚屋の娘『美咲』が手を振りながら駆け寄って来た。
男は美咲の手を取り船に乗せた。
「本当に船で良いのか?」
「うん!正栄さんの船に乗りたかったの!」
「そっか。じゃあ、何処に行きたい?」
「何処でも…、正栄さんと船の上で一緒に食べたくて、お弁当作ってきたから…」
美咲は照れながら二つの弁当箱を手提げ袋から取り出した。
男はその仕草が懐かしく思えた。
『アイツと一緒に遊園地に行った時も、アイツ、弁当…、籠に入れて…』
男は過去の幸せを思い出し掛けたが、
『終わったことだ…』と
心にそう言い聞かせ、
「そしたら、良い場所がある。
あそこの島陰」と
眼前の沖に浮かぶ高島を指差し、
「あそこなら、波もなく、日照りもない。
ゆっくり昼飯が食えるよ。」と
優しく美咲に説明した。
「やったぁ~、行きたい!」と
美咲は嬉しそうに両手を大きく広げ、喜びを胸いっぱいに表した。
正栄丸はゆっくりと高島に向かい走り出した。
晴天の心地よい昼下がり、薄らと浮かぶ雲も心地良さそうに空を泳いでいる。
高島の島陰に着くと、男は錨を下ろし、帆を上げた。
か弱い秋風が穂をくすぐるように叩き、船は揺籠のように水面を漂った。
嘘吐き太陽の日照りは島陰に遮断され、辺りは白黒映画のような懐かしさを醸し出している。
岩礁を洗う波の音はミュートされたように聞こえず、島の絶壁の穴から顔を出した海燕達も、恰も2人の恋時の邪魔はせぬよう、遠慮がちに囀っていた。
美咲は弁当箱を開いた。
海苔に巻いたおにぎりと卵焼き、それに秋鮭の塩焼きが入っていた。
男は卵焼きが好きだった。
「食べようよ!」と美咲が弁当箱を男に手渡す。
「美味そうだな!頂くよ!」と
男は真っ先に卵焼きに手を伸ばす。
「美味い!」
男は一口で感想を声に出した。
美咲は赤ら顔で、
「良かった…」と小さく呟く。
時間は完全に止まった。
弁当を残さず食い上げた男は、沖を眺めながら煙草に火を着けた。
煙草の青白い煙が空と雲の天空色に同化して行く。
美咲は弁当箱を船縁から海水に浸し、手で洗っている。
男はその純な横顔、華奢な腰元を何気に見遣っていた。
『アイツが…、アイツと結婚してたら…、毎日、一緒に船に乗って…、一緒に弁当食って…、一緒に…』
男の心の画像は、美咲を見ながらも、やはり、あの女を映し出していた。
男はそれに気付くと、咥えた煙草を海の中に吐き捨てた。
そして、船縁に掌を伸ばし、海水で顔を洗った。
『くそぉ!夢と同じじゃないか!
何故だ!
なんで現れるんだよ!
何故だ!』と
男は怒りを隠すかのように何度も何度も海水で顔を洗った。
そして、いつの間にか、嘘吐き太陽が雲から顔を出し、島陰に日照りを差し向けていた。
男は怒りを堪えるかのように、眩しそうな顔をして、嘘吐き太陽を睨みながら、
『邪魔をするな!』と
心で叫んだ。
新たな恋を目の前にしても、過ぎ去ったはずの前愛は、男の心の壁にしつこくこびり付いたままであった。
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