第19話 神は悪戯に偶然を

「あの人、今、どうしているかしら…」


 記憶の回復により女の心に哀愁の念が表出され始めた。


「幸せに暮らしているわ…、きっと…」


「あの人のことだもの、きっと、良い人と一緒に船に乗って…」


「私のことなど、すっかり忘れてね…」


 女は半ば笑みを浮かべながら、独り言を呟く。


 女の哀愁の念は悔恨を伴うものの、比較的穏やかに女の心を覆って行く。


「私…、あの人…、本当に好きだったなぁ…」


「仕方ないもんね。私が病気になったからね。」


「これで良かったのよ。あの人が幸せなら…、


 私なんかと結婚したら、あの人を不幸にしてたわ…」


「でも、本当に好きだった。」


 女は容易くそう結論付けると、今ある自身の現状に気を止めた。


「私…、私は娼婦…、いや、娼婦以下だわ。


 悪魔の妻


 これも仕方ないわ。


 あの悪魔しか居なかったもん。


 私に結婚を求めた男は悪魔しか居なかった…」


 ここで女は首を振った。


「違うわ!あの人も私と結婚するって言ってくれていた!


 私が大学卒業したら、結婚して…、一緒に船に乗って…」


「でも、病気になっちゃったから、全て病気が悪いの…」


 女は記憶の回復に従い、今ある自分、夢見た自分を相互に心の鏡に映し代えた。


 そして、率直な希望が一つ、口から声として発せられた。


「あの人にもう一度逢いたい。」と


 女の悔恨


 世捨人の男の屈辱に比べると心の傷は浅かった。


 当然である。


 女は自ら身を引いたことを自覚しており、それが愛する男の為に最善の道であったと、今尚、ある意味自負している。


『愛する人の為に身を引いた。』


 明瞭化された心の大義が備わっていた。


 悔いはある。


 願わくば一緒に居たかった。


 しかし、鬱蒼とした自分を愛する人に晒したくはなかった。


 見られたくなかった。


 すれば、必ず嫌われると思い込んでいた。


 死に際の飼い猫が主人から姿を消すように男の元を去るしかなかった。


 それが2人にとって最善の道であったと。


 方や男はそんな女の気持ち、状況、何一つ知り得てなかった。

 

 晴天の霹靂


 いきなり天国から地獄に突き落とされ、


 さらに地獄の悪魔に堕天使に、15年という決して短くない時間、毎夜のように心細胞を一つ一つ、押し潰されて来た。


 理由なき別れ


 耐え難い屈辱


 そこにあるのは、疑心、裏切り、怒り、絶望しかなかった。


 女は記憶の回復によっても、今、男がどんなに苦しんでいるか、どんなに自分を恨んでいるか、その原因が、無言の別れ、『理由なき別れ』によるものであることには全く認知出来なかった。


 正気に戻りつつある女


 それが返って、ある意味、世捨人の男にとって残酷なものになるとは…


 神は偶然を装い必然を突きつける。


 神の悪戯の偶然


 そう、それは悪魔の晩餐会


 最悪の偶然が2人を待ち受けることになる。


 神の悪戯はまだまだ終わらない。

 

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