第18話 抹消記憶の回復

 猛烈な残暑の熱風が幾分か柔ぐ秋の入口


 三人三様に個々を取り巻く状況に変化が現れ出した。


 この頃、県庁総務部では11月開催予定の知事就任10周年の祝事について喧々諤々の議論が繰り広げられていた。


「全然、感染状況は沈静化しないじゃないか!」


「沈静化するどころか過去最高の感染率だ!」


「この状況のままで、記念式や晩餐会など、身内行事を大々的に行ったらマスコミがうるさいぞ!」


「常識的には延期、若しくは中止だ。」


「そうだ。不要不急の案件だ!」


「しかし…、悪魔は一向に動かないぞ。」


「何がどうして、そんなに式典をやりたがるんだ?悪魔は…」


「分かんない…、知事に媚びを振りたいんだろう。そうして上に登り詰めた男だからな。」


「しかし、知事も開催には消極的なんだろう?」


「秘書が言うにはその通りなんだが…、うちの悪魔様がねぇ…」


「また、悪知恵を知事に植え付けているのか?」


「そうみたいだよ。」


 悪魔男は知事室に居る。


 過去最高の感染率を記す現状において、知事から11月での開催は見送るよう指示がなされていたが、


「総務部長、少し伸ばすか、若しくは止めにしないか…」


 知事たる地位の者が部長クラスに遠慮がちに物を申している。


「いえ、予定通りの開催が望ましいと思います。」


 悪魔男はキッパリと回答する。


「しかし、この時期の開催は…、公務なら良いが、ある意味、私的行事だ。私のお祝い事だ。


 これで出席者に感染者が生じて公務に穴でも空いたらマスコミの格好の餌になるよ…」


 知事は遠回しに遠慮したい旨を悪魔に指示するが、


「知事!政府においては現在の感染状況においても国民生活に規制を設けておりません。


 この数年来の行動規制により地域経済は多大なる損害を被っております。


 県としても地域経済促進へのパフォーマンス、感染状況に左右されない姿勢を堅持することが肝要かと。」


「しかしだな、身内行事だぞ!」


 流石に知事も苦虫を噛み潰した表情で悪魔の屁理屈に苦言を評した。


「公務も私事も一緒であります。


 感染状況に左右されない姿勢こそ、今取るべき知事としての姿見かと存じます。」


 知事は首を傾げながら、こう思った。


『この男、何故、そんなに式典に拘るのか?


 本人である俺が嫌がってるのに…』と


 そんな知事の疑心を悪魔は瞬時に嗅ぎ取る。


「知事、ウィルスとの共存です。


 withウィルス。


 この点、この狭い島国は欧米諸国に劣っています。


 共存無くして、先は無いのです。」


 このごもっともな悪魔の教示に知事は頷かざるを得なかった。


 ましてや、この悪魔の父親には初当選の頃から何かと便宜を頂いている間柄


『言っても聞かない所は親父とそっくりだ!』


 そう諦めた知事は、結局、11月での開催敢行を承諾してしまった。


 式典の主催部署である総務部は、この知事の妥協に仰天した。


「おいおい、やるみたいぞ。」


「悪魔が押し切ったそうだ。」


「どっちが知事か分かんなぇ~な。」


「知事も奴の親父には頭が上がらないからな。」


「嫌だ嫌だ、この時代に我が県は未だに閉鎖的な世襲制が敷かれているわけか…」


 悪魔の拘り。


 重臣の集いで大々的に妻の懐妊を発表する。


 結婚披露宴ばりの懐妊披露宴だ。


 知事の主役の場を上手く利用し、確立された強い夫婦の絆を宣い、妻に近寄る邪魔者を根絶させる。


 そう、あの世捨人に向けた最終警告として!


 悪魔はコヨーテでありハイエナである。


 この用心深さは、ある意味、気の弱さの裏返しでもあるのだ。


 弱みを見せずに誤魔化し続けるのだ。


 拾った獲物を取り返されないように…


 一方、悪魔に獲物を奪われた世捨人の男は、新たな恋を育もうとしていた。


 男は市場に卸すイカのぎっしり詰まった箱を抱え、


 市場で営業している仲買業の魚屋「小平」に顔を出した。


 魚屋の娘は、男を見ると満面な笑みで、


「正栄さん!」と声をかけた。


「どうしたの?市場に卸さないの?」


 と娘は笑いながら男の抱えた箱に目をやった。


「うん。『小平』に卸すよ。」


「えっ、良いの?」


「あぁ~、市場の競屋には内緒だぞ。」


「うん!お父さん喜ぶわ!だって、正栄さんの魚、どれもこれも大物ばかりだから!」


 娘は箱を見ることなく男の顔ばかり見ながら話す。


 男はこう誘った。


「今度、飯でも食いに行くか?」


「えっ!私と…?


 本当に?


 嬉しい!行く行く!絶対に行く!」


 娘は子供が遊園地に行くようにはしゃぎ喜んだ。


 男は思った。


『俺は忘れていたなぁ。人が喜ぶ姿を…


 久々、見たよ。


 人が、相手が喜ぶ姿を…』


 男も喜ぶ娘の笑顔につられて笑った。


 15年振りに笑った。


 もう1人、笑顔を失った人間


 女は気怠い朝を迎えていた。


 時刻は9時を回っている。


 夫の悪魔は既に家を出ていた。


 昨夜の激しい悪魔の宴により精魂尽きた女は生きた屍のようにベットに横たわっている。


 女は朝陽から陽光に成長し始めた太陽光線が差し込むカーテンの隙間から庭を見遣り、


 そして、庭から聞こえる小鳥の囀りを耳にする。


 女はまた天井を見遣る。


 女は突然、ベットから起き上がった。


『何か違う。鬱がない。』


 女は自身の心と脳を確かめるかのように、以前までの目覚めを振り返る。


『重たかった。庭など見ようとしなかった。鳥の声など聞こえなかった。


 でも、違う。この頃は違う。


 光を見ようと欲した。


 自然の音を聞こうと耳をそばたてた。


 鬱が…、鬱が和らいでいる。』


 女は、ある意味戸惑い部屋の中を行き来しながら歩き廻る。


 何故か何故かこの改善の原因を考え尽くす。


 しかし、女には見当も付かなかった。


 それはそうである。


 悪魔がモルヒネを減らしたから改善したのだ。


 女が知る由もない。


 女の重鬱はそもそも若い女性特有の女性ホルモンのバランスから生じた年齢的な病気であった。


 普通なら、その時期を過ぎれば改善するべき病状であった。


 しかし、悪魔が、


『病んでる女が美しい』と宣う悪魔が、


 一時的な改善を餌に女を釣る為、抗うつ剤と鎮静剤であるモルヒネを併用させていたのだ。


 この併用による即効性とそのリバウンドが、この15年間、女に対して、監禁すべき獲物に対して、悪魔が創出した鬱病であったのだ。


 本来の鬱病は女の年齢の経過によりとっくの昔に治っていたのだ。


 女の心、女の脳の中で、悪魔に抹消された記憶が、急に回復し始め出した。


『そう、あの人は…、あの人は、今どうしてるのかしら…』


 女の抹消記憶で、一番初めに回復したのは、やはり、あの男のことであった。

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