第14話 『私はいつもいつも逃げている』

 地上に上がった日から初めての週末


 今までの女に暦は無縁であったが…


 この日は夫が美容室まで送ってくれると言う。


 何年振りかの美容室


 いや、正確に言うと意識のあの状態で美容室に行くのは久方振りであった。


 それまでの間、気付くと髪が整えられていた。


 意識朦朧としたまま美容室に連れて行かれ、自身の好む好まないの希望も言うことが出来ず、ただぼんやりと鏡を眺め、時間が経つと逃げるように家に連れ戻されていた。


 今日は違う。


 意識はしっかりしている。


 女に忘れかけていた女心が蘇っていた。


「綺麗になりたい。」


 今日はそう思えていた。


 悪魔男の車で美容室まで送って貰った。


 悪魔男も今日は付き添おうとしない。


『もう彼のことは言わないで』


 あの台詞が悪魔男を安心させていた。


 女は一人で美容室に入るとスタイリストに促され鏡の前の椅子に座った。


 鏡の中の自分の顔は…


 やはり病んでいた。


『私が選んだのよ…』と、


 女は今ある心の決まり文句を囁いた。


 黒髪を櫛で解かれ、徐々に髪が切られて行った。


 すると鏡に映る自分が変化を始めた。


 黒髪に隠れた額が表出して行き、細く高い鼻筋も際立つようになり、均整の取れた卵型の顔立ちが鏡の中に映し出されで行った。


『綺麗になりたい。』


『何のために?』


『夫の為、晩餐会の為?』


『そうじゃない…』


『じゃぁ、何のために綺麗になるの…』


 女は鏡に映る自分の顔を見つめながら自問自答を繰り返した。


 セットが終わり、女は美容室を出た。


 商店街のアーケードをゆっくりと歩いた。


 店のウインドに映る自分を意識しながら、姿勢を気にして歩こうとした。


『何を気にして歩こうとしているの?』


『周りの目?』


『綺麗に見られたいの?』


『誰に?』


『夫に?』


『違う。』


『じゃぁ、誰に綺麗に見られたいの?』


 普通の生活に戻った女に客観性も戻って行った。


 地下室の生活は悪魔の主観のみであった。


 地下室の生活に美容は無縁であった。


 地下室で必要とされるのは変質的な性欲と破滅的な行為、それと薬物であった。


 全裸に手錠と口枷と足輪


 それが女のユニホームであった。


 今は違う。


『私が見える。』


 女はやっと1人の女性に戻ったような気がした。


 そして、女は思い出した。


 自分に最後通告した言葉を。


『もう彼のことは言わないで。』


 そう、自分は悪魔、いや、県庁のエリート御曹司、若き総務部長の妻であるという事実。


『私が選んだのよ。私の結婚は…』


『あの人しか来なかった。』


『彼は来てくれなかった。』


『求められたから結婚したの』


 女は次第にウインドを見るのをやめ、下を向き歩いていた。


『そうよ。彼も私のことなど忘れているわ。


 忘れていなかったら、迎えに来てくれたはずだもの…。


 彼はきっと私を忘れてしまったのよ。』


 都合の良い悟りを何度も何度も繰り返しながら、悪魔男の待つ駅前の駐車場へと女は向かっていた。


『私は何に向かって歩いているの?』


 不意に女は自分に問い掛けた。


 その時、忘れかけていた破滅の意識が突然として脳内に湧き上がって来た。


 目の前の景色が万力で曲げられるようにグニャグニャと曲がって見え始めた。


 喉もカラカラに渇き、その反面、油断すると口元から涎が垂れ流れそうになる。


『薬が切れようとしている。』


 女はそう思うと早足に駅へと急いだ。


 錯乱状態が近づいている。


 今までの優雅な気分は消え失せた。


『そうだった。私は変質者の妻であり、薬物依存のアブノーマルな女。


 元には戻れないの。』


 女は悪魔男に洗脳された自己陶酔意識により自己防衛、自己の正当性を宣っていたに過ぎず、


 その真実は哀れな薬物依存者であるに他ならなかった。


『私が向かっているのは、夫ではない。


 破滅に向かってる。』


 女は今ある事実をやっと痛感した。


『そう。昔も同じだった。


 私はいつも逃げている。


 大切な物から逃げている。


 そして諦めて、そして無理矢理悟るの。


 私は逃げている。


 人の気持ちを見るのが怖くて…


 彼の気持ち、彼の想いを見るのが怖くて…


 私はいつもいつも、こうして逃げている。』


 錯乱と悔恨の中、女は彷徨いながら先を急ぐ。


 悪魔の元に。

 


 


 

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