第8話 悪魔の既成事実は完成した。

 モルヒネ投薬が女の知らない間に開始された。


 主治医は抗うつ薬の点滴と称して一日一回、モルヒネを女の血液中に投入した。


 女の抑鬱状態は今までが嘘のように改善されて行き、全く湧かなかった食欲も次第に湧いてきた。


 女の両親は喜んだ。


 そして、毎日必ず姿を見せる悪魔に頭を下げ続けた。


 モルヒネ投薬が始まって1週間経過したある日、悪魔は主治医にこう言った。


「退院させろ。」と


 医者としてのモラルは遠の昔に消滅していた医者は何も意見することなく女を退院させた。


 女の両親は狐に摘まれたような気がし、本当に退院させて大丈夫かと主治医に問うたが、主治医は1週間毎に通院をすれば、入院する必要はないと虚言した。


 女の通院の付き添い役は悪魔が買って出た。


 車を持たない女の家としては、それを断る理由は見つからなかった。


 既に女の両親は、これから先も娘は悪魔と共に生きて行くのだろうと、そう、喜びもなく、落胆もなく、自然の流れとそう思い出していた。


 女は…


 女は当然、病んだままであった。


 抑鬱状態は24時間のうち、三分の一の支配と減少したものの、その代償として、残りの三分の二の時間は恍惚と錯乱の状態であった。


 まともに熟睡できない日々


 女はえも言われぬ奇妙な夢ばかりを見続けていた。


 そこに恋する男は登場しない。


 登場して来るのは悪魔のみであった。


 嫌を無しにも夢と現実に四六時中、出現する悪魔の存在に対し、女も女の両親同様に、この先もこの悪魔の生贄になり続けることを諦めの境地で覚悟し始めた。


 大学生の分際で高級自動車を乗り回す悪魔は、飄々と女の家に女を迎に行き、病院に連れて行き、主治医にモルヒネを投入させた。


 女も悲しいかな、病院帰りは恍惚感が絶頂に達することから、悪魔とのドライブを楽しみにするようになって行った。


「そろそろだな。」


 悪魔はこの病んだ生贄を真の恒久的な生贄にするべく、既成事実の作成に取り掛かる。


 病院帰りの恍惚と高揚した女を自分の大学のキャンパスに連れて行き、公然と恋人であるかのように周囲に見せしめた。


 悪魔が美女を同伴していることに周囲の者は、当然、躍起だった。


「おいおい、あいつら付き合ってるかよ?」


「嘘だろ?彼氏と別れたのかよ?」


「乗り換える早いなぁ~」


「悪魔は前から好きだったからなぁ~」


「いやぁ、悪魔は言っていたぜ、高校時代から両想いだったと!」


「縁があるのさ、美女と野獣は!」


 この奇抜なカップルは瞬く間に評判となった。


 悪魔の計画通りに。


 風の噂が彼の元にも流れて来た。


 行方を案じて一生懸命に探し求めていた彼は、


「そう言うことか」と


 納得も糞もなく、無理矢理、自分自身の疑念を抹殺し、自分は負け犬だと合点した。


 疑いの余地の無い事実が現実として、突きつけられたのだ。


 皆んながそう言ってる。


 多くの人が目撃している。


 悪魔と女がいつも2人っきりでドライブし、皆んなの前に現れていると…


 急に姿を消し、3ヶ月後には、予想だにしない結末が彼に用意されていたのだ。


 抗うことは出来なかった。


 この既成事実に向かって、女にも確かめることなど、到底、出来なかった。


 確かめようもない事実


 周知の事実


 男は覚悟した。


「これから先、この絶望は決して俺の心の縁から消えることはない。


 この先、この屈辱は、いつ何どきでも、俺が油断した際には、容赦なく俺を襲って来る。


『お前は負け犬』


 この先、俺が心から笑うことはない。


 この先、俺が楽しく喜ばしい夢を見ることはない。


 この先、俺が人を信用することはない。


 この先、俺が希望を持つことはない。


 この先にあるのは、死のみである。


 そう思え!


 お前は欠落者であると!


 お前は悪魔に負けた負け犬だと!


 お前に出来ない事を容易く出来る男に女を奪われた情けない負け犬だと!


 この先、お前に光が当たることはない!


 そう思うんだ!」


 男は、こう壮絶な決意をして、心を暗闇に落下させ、仮面を被り、生きた屍を隠し、棘の道しかない今世を歩き始めた。


 それでも悪魔は油断をしなかった。


 悪魔はコヨーテのように賢く、ハイエナのように貪る。


 肝要なのは女の意思が復活しない事


 悪魔は更なる既成事実を創成する為、病院への通院も1ヶ月で区切りを付けさせた。


 主治医は悪魔に言われた通り、女の両親には既に投薬治療の必要はなくなり、後は無理をせず、日常生活に慣れるべく、静養するよう助言を行った。


 女が大学に戻ることは無かった。


 その必要は無かったのだ。


 女の両親は娘はもうすぐ悪魔と結婚するものと確信を持たされていた。


 悪魔が公言していた。


「後一年で卒業し、就職したら、結婚します。」と


 悪魔は生贄をハイエナの如く貪る!


「それはちょっと…、流石に無理かと…」


「良いんだ。モルヒネを俺に渡せ。」


「でも、そんな事が公になったら…、警察沙汰に…」


「心配するな。県警のお偉方も俺の親父の従順な飼い犬だよ。」


 悪魔はいとも簡単に『魔薬』を手にした。


 そして…


 今、この夫婦が暮らす、悪魔の親父の別荘に…


 女は通い始めた…


 そして、女は悪魔に身体も血液も汚され続けられた。


 女自身にも疑いのない予知が芽生えた。


「私はこの人と結婚するのね。」


 悪魔の別荘に足蹴良く通う女の心に、彼の存在は完全に消滅した。


 悪魔はこの勝利を永遠のものにするべく、


 卒業後、親父のコネで県庁に就職し、女に箔を付ける為に、これも親父のコネで県のミスコンに参加させ、優勝させた。


 病んでる女は県下一の美女と称されるようになった。


 それと同時に元副知事の御曹司の婚約者と周囲に告げられ、


 悪魔の念入りな既成事実の完成式として、盛大な結婚披露宴が行われた。


 男は…


 負け犬となった男は、逃げるように陸から離れる。


 悪魔の勝ち誇った高笑いが聞こえぬように、


 悪魔の妻となった裏切り女の残像を消し去るように、


 今日も真っ暗な重油のような海面をじっと眺めに、オンボロ船に乗り沖に向かっている。

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