第2話 依頼と後遺症
夏休みが始まった初夏の頃だった。
その日も一緒に朝食を摂っていると、まつりが途中、不機嫌そうに唸ったので、サラダを眺めながらぼくは訊ねた。
「いつもより、念入りに千切りになってるけど、なんかあったの?」
まつりが不機嫌なとき、出てくる野菜がやけに細かく刻んである。
普段大雑把なやつなのでこういうときは大抵何か起きていた。
そいつは不機嫌そうに答える。
「無能が居るんだよ」
ぼくは頷きながらキャベツを咀嚼した。
細かく切られたキャベツの欠片は流れるようにいくつかさらさらと口の周りから落ちていくので慌てて更に戻す。それから、ぼくは言う。
「そりゃ、何処にでもいるだろ」
「……そうだね」
まつりは、はぁ、とため息を吐く。
「そりゃ無能が居ても関係ない事だけど。なんで自分が居なきゃ出来ない仕事を、自分より下に就いてやらなきゃいけないんだって思って」
「よく聞く話じゃないか」
「よく聞くけど聞かないよー!!」
聞いてみると少し前にある仕事に誘われたが、殆ど自分がやったものの丸写しなので、その部下というのは意味が分からないという話だった。
確かに自分が居なきゃ出来ない仕事で、自分より下に就いて何を学ぶんだよというのはあるのかもしれない。
「ポリシーだとか、効率だとか、全部、既に自分で構築したやつを聞かされるの!?」
「それは泣いちゃうかもしれないな」
「捻じ込もうとする年功序列!」
「地獄絵図だ」
この手のタイプはやりがいとか見せ場とか無いと気力を保つのが大変なのだ。
まつりは「これはやっぱりブラックだよね。よくないね」と、雑に頷きながら、サラダを食べている。フォークで掴もうとしたが、さらさらと皿に降り注がれていった。
「こういう事を言うとすぐイキってると混同される時代だけど、さすがにあれはもう自分でやってるレベルだし、やっぱり会社破壊してくるか」
「会社の方を!?」
数分後。
「ところでさ、ななとは、夏期講習とか行かないの?」と、まつりが聞いてきた。
目の前にはホットケーキが置いてある。
むぐむぐ、とそれを口に詰め込み、ついでにぼくの分も食べようとしているので、あまり食欲のなかったぼくは半分切ってあげた。
「はい、どうぞ」
目を輝かせて美味しそうに食べている姿はハムスターみたいで可愛い。
本編で細かく語る場所が無かったけれど、実は、ぼくはあれからどうにか編入試験に合格し、学校に行っている。
「夏期講習かぁ」
そして、もう季節は夏だった。
学校に行くことになった流れはこんな感じ。
――春のある日のことだった。
スーツを着た怖そうな人が尋ねて来て急に学校の手配の話や手続きの話を始めた。
「夏々都はまだ学生する年頃だからね」と。まつりが呼んだみたいだ。
ぼくとしてはまつりとだらだらしていても良かったのだけど、せめて義務教育レベルの基本を身に着けてくれと、珍しく懇願され(何があったんだ)
事件の関係者から、『事件に巻き込んだから』という理由で入学費を、せっかく出してもらっている身だったり。
『彼ら』にも「これは、いい大人が本来の役目から逃げていて、ぼくとまつりに汚れ役を全部押し付けていた結果だから、遠慮は要らない」と押し切られ……まぁどうせ時間があるし、納得したんだっけ。
「そ。まつりの事も良いけど、お勉強も大事だよ」
まつりは、いつになく真面目に、大人の風格を見せ付けるかのように言う。
ぼくは首を傾げた。
「うーん。でも、ぼくは、覚えたことはすぐできるし、覚えてないことはわからないし」
つまり時間の無駄だと言う気もするんだ。
「ななとは記憶力はあるもんね!」
まつりはにへ、と緩んだ顔を向けた。
「は、ってなんだよ!」
やや拗ねていると
「でもね……」とまつりはなにかを取り出した。
『これ』と、部屋から持ってきたのか、ぼくの課題プリントである。ひらひらと振られる。
「それが?」
そこには雑な字で適当に描かれた宿題がある。ちゃんと提出されているというのになんだというのか。
まつりは唇を尖らせて答えた。
「いっつも記憶に全部任せてて、じっくり時間かけるの苦手じゃん」
まるでどっかのピアニストみたいだよね、と独白するまつり様。
努力と、それ以外。
その差というのを判断するのは難しい。
頑張っていると思っているのか、努力しているのか、そんな事を考えても解らないから、記憶した事を元に作業を進める方が効率的。ただし、そのときに自発的な感情記憶が全くない事や、記憶が間違っている場合を覗けば。
「だって出来ることに無駄な時間を割くなんて時間と体力の無駄じゃないか!」
書くのめんどくさいんだよな。
はぁ、と謎のため息を吐く、まつり様。
「もっと協調性っていうかですね、振舞いっていうか、ご主人様としては、様々な経験を身に着けて欲しいのです」
「お前にだけは言われたくない台詞だっ」
これまでの経験からしてもぼくは別に勉強が嫌いなわけじゃないので、やり始めたら全く出来ないということも無い。
……でも。
最近なんだか、ぼーっとして、どうしても思い出してしまう。
何か喋るたびに、書く度に。
あの暴力的な洗脳工作のことを。
断片的に聞いた、『山口さん』という単語。
実行犯の一人の名前は『タカユキ』で、
実験には一番ノリ気だったということ。
「大丈夫だよー。とりあえず覚えた事書いとけばいいし。まつりも教えるし。卒業だけはしてもらうからさ」
まつりもそれが分かっているのだろうか。と、表立って聞けることは無かったけれど、のほほんとそう言い、ぼくも、そうだね、と空元気のまま返す。
そう、とりあえず、現時点の心はもう回路が駄目だろうから。
ちょっとくらい楽をしてもいいはず。
体力が回復するまで記憶に頼って覚えた事を書いておけばいい。
そして、心は気が向いたら構成しなおそう。
まつりもその意味で言ったのだろう。
「こんな言い方もあれだけれど」
優雅に紅茶を飲みながらまつりは小さな息を吐きだす。
「、 が、絡んでいるとなると、具体的にどうなっているのか病院とかでも話すのは危険っぽいしね。逆に沈められかねない」
ぼくも残ったココアの入ったカップを口に運んで呟いた。
「しのぎってやつ?」
「どこで覚えたの」
まつりが少しだけ目を丸くする。
そいつと会っていない間、ぼくに合った事も、まつりにあったことも、随分月日が経った今でさえちゃんと話し合えては居ないし、うまく言葉が纏まってすら居ない。
聞いたってどうしょうもない話という事も、他人に逐一擦られるのも処理が面倒そうだという事も含めて、せめて誰に言わなくてもいいから思い出程度には思い出したいような気もしなくはなくて、夜中にこっそりと書きだしたりしているけど具体的に何が描きたいのか以上に、
洗脳、暗示、という言葉が先に浮かんでしまう、そうすると他の単語の想起が阻害されるというのが難点だ。
正直今も脱線しようとしているし。
何度も続いていたところから抜け出したというのに未だに身体が覚えているだなんて、
……なるほど、これがまつりの言うような重くて衝動的な感覚なのだろう。
「許して貰えるとは思わないけど」
ぼくが考え事をしていると、まつりが小さく呟く。
「あのときは、あれしか無かった。一旦距離を置かなければ、何処までもまつりに付いて回って追い回されるだけだ。
そうしたら、もっと甚大な被害になっていただろう。断片的だけど――そのときのまつりは、きっと、そう、判断した。
だけど……その後の君の負担にまで配慮すべきだった。ううん。したつもりだったけれど、
全てに配慮出来たわけではなかった」
あの場所、の事。
あるいは事件のことを指しているのだろう。
それがあったから、ぼくたちは……
「許されたいのはぼくの方かもしれない……」
ぼくは神様無しでは生きられない。
幼い頃に心像をあげた。
此処は神様の為の庭だ。
ぼくがあげた心像と、命全てを以て、捧げた。
いろいろな理由があって、いろいろな事があって。
ずっと、ぼくは自分を実感することが出来ない。
盲導犬の関係性のように、まつりが向いている方向しか感じることが、見る事が出来ない。
それなのに、それ故に。
そんな事すらも忘れてしまっていた。
ぼくは周りと同じ人間なのだと、いつの間にかそんな幻想を抱いていた。
そんなわけが無かったのに。
攻撃してくる概念からぼくが守ろうと決めて、一瞬でも、それを果たすことが出来なかった。
それだけがぼくの全てを以て果たせる唯一なのに。
「――と、いう訳でですね」
まつりは言う。
「え?」
ぼくは言う。
先程までのしんみりした空気を打ち破るような。あるいは、それ以上に、今もうひとつ大事な事があったというような話題転換だった。
「今日はせっかくのおやすみなのですが、何かご予定は?」
「特には」
そう言うと、まつりは、それならよかったよと言った。
それから
「じゃあ、本題なんだけど」
と、一枚の紙を広げて見せる。
『親愛なる佳ノ宮まつり様』
……
実は先月から奇妙で、恐ろしい事が起きております。
此処数日私の頭はそればかりで仕事も手につかず、もう、おかしくなってしまいそうだというときに貴方の事を思い出しました。 実はこの度、貴方様を見込んでのご相談があるのです。
話だけでも聞いていただけないでしょうか。
勿論依頼料はお支払いします。
……話、というのを先にある程度ここで語らせていただくので、それで受けられそうであれば ――町――の住所でお待ちしています。
「依頼?」
ぼくが訊ねると、まつりも頷く。
「そう。依頼の手紙。ざっと読む限りはたぶんそんなに君の負担にはならないんじゃないかな」
「それは嬉しいけど。お前ってあんまりそういうの受けないんじゃなかったのか」
「中身に寄るよ。これは、結構興味深い」
2023年9月25日0時47分
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