金光が矢加部の悪い部分を書きながらも、好意的なのは伝わってくる。

「だからわしは、幽霊なんてものは信じません。そんなもんがいたら、わしゃとっくに取り殺されているでしょうから」

 自分を恨む者はいるか。とつには、浮かばない。厳に身を慎んで生きてきたということはないにしても、けんめ事は避けてきた。しかし、こちらにその気はなくても自分を快く思わない者は、いるのではないか。

「ああ、そうそう、わしのことは妻も恨んでいますよ。妻は、もうここにはいない。あなたは、仲むつまじい愛妻とご一緒でうらやましい」

 矢加部なる見知らぬ男が直接、保和に話しかけてきたようで、総毛立つ。

「小金屋の主人たる矢加部は、崩れた色気を発散する男で、最初は彼が拝み屋のいう存在なのかと身構えたが、どうも違うようだ。

 何かが違う。ちようと蛾の違いのようなものか。影は同じように見えても、とまったときの羽の形や、胴体の太さが違う。そういえば、日本にいない揚羽蝶が私達とともに小金屋に舞い込んできて、矢加部の肩にとまっていた」

 きっとそれは、紅紋揚羽だ。保和の最古の記憶の中からは、飛び去らない。

「さて小金屋は、ホテルといっても小ぢんまりした二階建てで、客室は全部で五部屋しかない。そのうちの三部屋には長期滞在者が、宿泊というよりほぼ居住していた」

 ゆらゆらと、彼らの影が障子に映る。蝶だけが、鮮やかすぎる色を保っている。

「私達が借りた部屋も、直前までそこそこ長く暮らした印度人一家がいたそうだが、突然に引き上げて馬来マレーに渡ってしまったという。まるで私達夫婦が来るのを予期して逃げ出したようだと、小金屋の主人は冗談めかしていった」

 印度人も馬来も、未知すぎる。黄泉よみの国ほどではなくても、八千代が今いる世界ほどには遠い。幽霊も日本のように湿っぽくなく、肉感的な気がする。

「そして残りの一室は、なぜか幽霊が出る、不吉なことが起きると、新嘉坡中にといえばおおになるが、かなり知れ渡っていて、長期に借りる人はいないとのことだ。

 一泊、二泊した人は、日本人も日本人以外も、夜通しまつりばやの音がうるさくて寝られなかっただの、扉の隙間から紙のような手が滑りこんできただの、鏡に死んだ親が映っただの、不穏な悪夢を告げに来るという」

 八千代の話の後では、どれも牧歌的にすら思えてくる怪異だ。

「寝ぼけたんでしょう。いや、幽霊の噂を聞いていたから、何でもない影や目の錯覚をそれだと神経が過敏に反応してしまったんでしょう。と、矢加部はすべて揶揄からかったり馬鹿にするのではなく、静かに素っ気なくいい返すそうだ。

 ホテルの主人がホテルにまつわる悪い話など、ありのままにはいわないだろうが。悪い噂は何が原因か、本当にわからないという。矢加部が知る限り、その部屋では何も恐ろしいこと忌まわしいことは起きていないそうだ。

 そんなのは土着の迷信と、いい加減な噂と、わしに対する悪意が混ざってできた与太話で、幽霊なんかいるわけない。と、ホテルの主人たる矢加部はまゆを寄せている。

 ただ、自分がここを買い取ったのは十年前で、その前の持ち主やその時代に何かあったのかもしれないが、いずれにせよ具体的な話を聞いたことはない、とも付け加えた」

 矢加部のような経歴の男が愚直な正直者である可能性は低いが、居心地よい部屋を客に提供し、料金に見合う接待を第一にしているのであれば、それは正しい姿勢である。頑として幽霊を否定するのも、料金に含まれているのだ。

「私も暇といえばそうなので、小金屋に落ち着いてからは、その部屋の噂についてもあちこちで聞いたり、私なりに調べたりもした。

 主人がいうように、陰惨な事件も、人が死ぬような事故も起きてはいないようだ。

 前の持ち主については諸説あり、本当のところはよくわからない。矢加部は前の持ち主は台湾人だったというが、商店街で聞けば白人さんだったという人もいるし、矢加部と同じく日本人だったという話もある。

 残された家具や装飾品など見れば中華系であると推察されるが、別の国の人がわざと中華系と思わせるよう細工、演出した、それも考えられなくはない」

 保和はとりあえず帳面の手記を一通り読み終えた後、地元の図書館や、ちょっと遠出して新聞社や公民館なども訪ねた。周りの人達にも、

「ふとしたことでその存在を知り、興味を持った。いずれ小説に書きたい」

 そんな言い訳をし、新嘉坡の小金屋ホテルを調べた。確かに、それは実在した。ただ写真を見つけることはできず、実際に行った、泊まったという人にも会えなかった。

 何かわかれば知らせてほしいと、あちこちに頼んでおいた。なかなか返事は来ない。金光夫妻のしつそうですら、もう昔のこととして風化しつつあった。

 それは保和にとっては、悪いことではない。あれこれぎ回っても、何か隠して別のことを探り、捜しているなどと、勘繰られることもない。

 師匠に再会したい、純粋に酔狂な世界に好奇心がうずく、美しい八千代にあの含み笑いをしてほしい、これを作品化してみたい、様々な動機と理由とで保和は動いているが、金光夫妻を捜し出せば春にも会えると、そんな予感がしてならないのだ。

 何の関連性もないようで、実は密接につながっているような解答が透けている。今もやもやと漂う思わせぶりなあれこれは、後々の伏線となっているのか、あるいはわななのか。

「永遠の炎天下にある印度人街の目抜き通りは、とにかく色彩にあふれている。鳥も蝶も燃えるように毒々しい。そして日本にはない香料、香辛料の匂いに満ち満ちている。心地よい悪臭、そんな言葉が浮かぶ。

 小金屋の建物全体は、一見すると西洋風と中華風が混ざっている。まずは建物の一階の真ん中に、共用の玄関がある。ひんやりした石の床で、さほど天井は高くないが、どこか懐かしい草と葉の匂いがする風が吹き抜ける。

 窓から射し込む陽光はみつ色で、天井から下がる洋燈ランプのそれより明るい。妻はただ大人しく、寄り添っている。長椅子に一体化したように、身じろぎもしない妻に、きっと矢加部は違和感を覚えたはずだが、何もいわない。

 まさか奥さんは、半分死んでますねともいえないだろう。

 掃除は、どこも行き届いている。主人が自らこまめに掃いたりいたり洗ったりし、部屋の敷布やカーテンも清潔だった。これだけでもう、矢加部を過去はさておき今は善き人だと信用できる。毒虫はおそらく、矢加部を恐れて近づかない。

 玄関に置かれた中華風の花瓶もその卓も、壁に飾った赤い護符も、古いのではなく古く見せかけている虎のしゆう画なども、すべては居抜きの結果というのか、前の持ち主からそっくり受け継いだものだった。日本風なものは、見当たらない。

 主人は部屋の清潔さ快適さには気を配るが、装飾にはあまりこだわりはないようだ。

 ホテルの玄関から中に入るとすぐ右手に、主人が座る銭湯の番台めいた帳場があり、奥にかぎや書類を仕舞う棚がある。この棚も中華風で、これは本当に古い物だった。やたらと、人の爪による引っき傷があるのは気になった。

 宿泊客の忘れ物も保管してあるが、明らかに開けてはいけないしようを漂わせる、厳重にくぎを打ってある木箱や、じゆもんを書きつけて封印してある包み、などもあった。

 左手には二階と繫がる階段があり、その陰に隠れるように共同の便所がある。この便所には、ホテルの裏口からも出入りできた。併設された石造りの水浴場からの帰りには、玄関には回らずこの裏口から中に戻るときもあった。

 玄関と繫がった中央の空間には、待ち合わせ、休憩に使う長椅子と卓を置いてある。

 あかい木の長椅子はヘンくつから持ち出してきたような代物で、実際に阿片の匂いが染みついていた。どれほどの夢を、どれほどの人に見させてきたか。

 私は学生時代、悪い先輩に上海から持ち帰ったという阿片を吸わせてもらったことはあるが、道具や吸い方が悪いのか、たんできはできなかった」

 その悪い先輩とは、養父ではないか。ふと、保和は養父の匂いも嗅いだ。

「一階の左手、つまり階段の向こうの部屋には、中国とアンナンの混血だという新嘉坡の華やかで肉感的なの美女、センがいる。ダンスホールの踊り子、ダンス教師だ。仏蘭西フランスの金持ちのめかけ、でもあった。どちらが本業なのか。

 夕方になると迎えの車が来て出ていき、深夜に帰ってくる。陽気なのに寂しげな雰囲気を纏い、愛想もいいが気の強さはかいえた。

 中国と安南だけでなく、もっとどこかの血が入っているような、どこの国の人だといっても通用するような、わく的なかげりがあった。彼女も、ある程度の日本語ができた。日本人の男の世話になったこともある、と笑う」

 これだけでもはや、保和はセンに恋心めいたものを抱かされる。

「右手には、リンという台湾の中年夫婦がいる。台湾のしんせきに子どもを五人預け、近くの商店街で中華料理店を経営している。本国にも店はあり、そちらは姉夫婦に任せているそうだ。高名な文化人や実業家、政府高官も来ると自慢していた。

 時おり、林夫妻の店には食べに行くようになった。凝った本場物の肉や魚の料理だけでなく、なんでもない汁物やめん類に至るまで確かに美味うまいが、店は中国人のまり場にもなっているので、日本人は時節柄、肩身がどんどん狭くなる。

 面と向かって悪意を向ける人達は少ないが、ひしひしと居心地の悪さは増していく」

 金光は一貫して、反戦派だった。誰が見たり聞いたりしているかわからないところではあいまいな態度を取っているが、同志的な仲間がいるところでは、即座に憲兵に捕まりそうなことを声高に演説もしていた。

 保和はそんな強い主義主張があるのでもないが、大局的なことよりも自分の小説やきらきらと華やぐ品々、浪漫的な物語や甘美な夢の方が大事であった。

 もしかしたら亜細亜の覇権や大日本帝国の繁栄と勝利を願う人達は、危険であっても反社会的であっても確たる思想と影響力がある金光達より、保和みたいな軟弱者の方が国賊とり下げてやりたくなるかもしれない。

「林夫婦は初め日本人かと勘違いしたほど、揃って日本語がたんのうだ。どちらもあいきようある丸っこい体つきに丸い顔で、おしゃべり好きの世話焼きだ。

 しかし当人達は由緒正しき正統派を主張するが、異教徒の日本人から見れば妙な新興宗教か怪しげなまじないに凝っている。何から何まで星のめぐりとやらに支配され、あらゆることを占いで決めている。

 例の拝み屋、あれとは別種であるし、強要もされないが、そのことについて語るときだけ林夫婦がちょっと苦手になり、そっと避けるようになる。

 もしやこの夫婦のどちらかが、あるいは夫婦揃って、拝み屋がいう存在かとも探ったが、なんとなく彼らも違う気もする。

 蝶と蛾の違いではない。はつこうと腐敗の違い、であろうか。それとも違うが、果実の搾り汁と、そこから作る酒は別の飲み物になるようなものか」

 ふと振り返るのは、幼き日のままごとだ。ふすまの桜の絵で、一年中ずっと春のようだったあの座敷。保和は幼い頃から女児に間違えられ、女装も大いに好きだったが、装えば装うほど女でないのがわかり、実は男だと強調されてしまっていた。

 養母もそれはわかっていて、男でも女でもない、男であり女である、異様に美しいものに変容する、それがたまらないといっていたような。

「さてこのホテル小金屋の右側には石の通路があり、行き止まりには前述した石造りの水浴場がある。この国の人達は、日に何度も水浴びをする習慣があった。私も、すっかり習慣になってしまった。

 ときおり妻も連れ出し、洗ってやる。妻はされるがままだが、気持ちよさそうな表情が浮かぶときもあった。ときおり、水浴の最中にしゆうが来るときもある。私達は人魚にでもなったかのように、どちらの水とも戯れた。

 水で化粧が流れるので、うつけつあとなどが浮かび上がると、私は悪夢に引きずり込まれるのか、現実に引き戻されるのか、わからなくなる」

 されるがままには、陶酔しかない。体を洗う、髪を洗う、化粧をする、自分でできることを他人にしてもらうのは、なぜあんなに気持ちいい。春も、それをいっていた。

「その水浴場に行く途中、かわやかと間違えるほどの小さな小屋があった。粗末ではあるが不潔ではなく、そんな大昔のものでもない。

 どうも誰かがいるようだが、はっきりと姿は見えない。主人の矢加部も、あれは最初からここにあり、物置だという。今は、何も入れてませんがね、と。

 何かの気配がするといえば、猫か鼠でも入り込んでいるのでしょう、と苦笑する。

 林夫妻が、まさに物置として安価で借りたいと頼んできたので、思案中だともいう。あんなのでも、部屋として借りられないか聞いてくる人もいますので、と」

 南国の水浴場は、とことん清潔であってほしくない。虫が浮き、人の肌が落としたものによどみ、変色しかけた赤い花が浮き、なまぬるくあってほしい。そうであればまるで母親の胎内みたいに、いつまでも揺蕩たゆたっていたくなるだろう。

「後から、誰に聞いたのだったか。商店街で顔見知りになった日本人の誰かか。あの小屋は前のホテルの持ち主によって、座敷ろうとして使われていた時期があるそうだ」

 座敷牢といえば、養母も実家に戻ったときしばらく、そのようなところに入れられていたと、どこの誰に聞かされた話だったか。鍵のかかるおりの中には、ままごと遊びの道具も散乱していたか。

 無論、怖くて養母本人には確かめられなかった。入っていたとしたら、春が世話をしに通ったのだろうか。春も、そんな話は一度もしなかった。

「矢加部は、そんな噂も苦笑して否定するだろう。しかし小さな女の子だったとか、何やら具体的なことをいった人もいたように記憶している」

 矢加部は、知っている。何の根拠もなく、保和は直感した。

「ちなみに小金屋なる名前の由来は、大金は持てば不幸にも見舞われるし、安心だけでなく不安も抱えることになるし、狙われたりもする。

 小金といわれるくらいの金を持っているのが一番、気楽で幸せだ。という矢加部の考えと生き方からだそうだ」

 帳面に、蚊のがいが挟まっていた。誰の血を吸ったか、赤い小さな染みもある。金光の血か、他の小金屋の住人の血か。

 もしや、八千代のそれか。生きているのか死んでいるのかわからない人の血は、吸った蚊も産卵の養分とする前に命を落とし、命は繫げられなかったに違いない。

「小金屋ホテルの二階は三部屋が並び、私と妻は真ん中の部屋にすっかり落ち着き、早々に住み着いたといった感じになった。

 床の下はホテルの玄関と待ち合わせの空間なので、日中は騒がしいが窓を開け放てば風通しも見晴らしもいい。近くの川べりに立ち並ぶ木に蛍が群がり、その点滅がまるで木が燃えているように見える。

 この木は、カユ・アピアピというらしい。炎の木。なんだか呪文のようだ」

 春の語る話の中に、それは出てきた。元は地味な木だというのが、いじらしい。

「南洋の果実を食べて、密林から放たれるひようほうこうを聞き、巨大なの葉をたたく驟雨を見ていると、祈りの声も物売りの声も喧嘩の声も、すべてが歌声になる。カユ・アピアピの歌はないものか。

 印度寺院から聞こえる祈りの声や商店街の喧騒は、気にならないどころか心地よい。むしろ静けさに満ちていたら、私は寂しさにおかしくなってしまっただろう」

 はるばると海を越えて届いた金光からの帳面には、上海の阿片や印度の香辛料、台湾の線香だの新嘉坡の美女の香水だのも染みついているようだった。八千代の死の匂いも。

 真実だけを、拾い出したい。だが、そうなると帳面は白蟻が食い散らしたようになる。

「私達が入る前は印度の家族がいたらしいと先述したが、なるほど一歩入ったときから異国の強烈で鮮烈な香辛料の残り香があった。慣れないそれは悪臭なのか芳香なのか判然としないものだったが、不快ではなかった。

 ときおり先住者の体臭のようなものも漂い、あやかしの影も窓に映るし、蚊帳かやの向こうに何者かの気配もある。もしやそれらは、長期滞在者は居つかないという不吉な隣の部屋から、壁をすり抜けてやってくるのか。

 私達の部屋の向かって左側が、短期宿泊客だけが入れ替わる不吉な部屋だ。私達が滞在中も、しょっちゅういろんな客が出入りしていた。顔も見ることのなかった人達も多いが、日本人とそれ以外が半々という感じか。

 ときおり、死んだはずの同級生や作家仲間としか思えない人も見かけたが、おそらくは赤の他人だ。そう見えるだけ、似ているだけだ。そういう私も死んだ者と思われ、故郷ではあいつの幽霊を見たなどと噂されているかもしれぬ。

 先輩であり親友だった大鹿さんは、見かけない。大鹿さんに似た人すら、現れない」

 あまりにも強烈な陽光の下では、生きた人と死んだ人の区別もつかなくなってくる、と暑さに苦しむ描写も挟まれる。真昼など、道路が鉄板のようになると。夜になると、少しでも体を冷やそうと石畳に寝ている人もいるそうな。

 蚊取り線香の真っ白な煙を搔い潜ってくる蚊の群れや、そいつらが運んでくる熱病の恐怖、商店街もちょっと外れれば恐ろしい密林が広がり、どうもうな獣の咆哮が聞こえてくるともあるが、金光の最も恐れているものは、それらではない。

「小金屋の主人、矢加部にも妻はいるが、どうにも南国とは合わないと体も心も病んでしまい、故郷に戻ったそうだ。妻の故郷は、九州の端の町だと聞いた。そこも南国だが、暑さは比べ物にならないだろう。闇の色の深さも、星の瞬きの強さも。

 故郷には、学校に通う子ども達もいるという。送金は、これからもしてやらなきゃならんのです。末娘も女学校に行きたがっているし。と矢加部は、父親らしい顔も見せる。

 女房に逃げられたと笑い話のように語り、近くに部屋を借りて現地の女と暮らし、ホテルにはきっちりと決まった時間に出勤し、帰っていく。その現地の女は、小金屋の人々は誰も見たことがない」

 金光の妻、八千代はごく緩やかに、こちらの世に戻りつつあるようにも読み取れるときがある。それを回復や進化というならば、金光は報酬を払わねばならぬのだろう。

 だが考えてみれば、拝み屋は日本にいるのだ、たぶん。日本にいても、新嘉坡にいる相手から受け取れるものなのか。送金は可能だが、絶対に報酬は金ではない。

「小金屋の主人たる矢加部は、博打ばくちや阿片には興味もなく、酒もそんなに飲まないようで、女も同居する現地人ただ一人らしい。仕事は勤勉だ。

 顔を合わせれば当たり障りない立ち話もするが、たまに何もかもお見通しなのではないか、彼が何かの黒幕、あるいは日本の警察の手先ではと妄想に駆られもする。

 いや、矢加部も私以上に、どこの国の警察であれ避けたい、近づきたくもないか。

 彼の語る子どもの話は微笑ましく、遠くにいる他人の私にも若さの躍動や華やぐ未来といったものが伝わってくるが、矢加部の妻も私の妻と同じく、あまりちゃんと生きている気がしない。そちらもまた本当に、生きているのか」

 この矢加部なる、新嘉坡でホテルを営む元は女衒ぜげんの五十絡みの男、については、後日なんとなく知っているという噂を保和に聞かせてくれた知人も何人かいた。

 しかし馬賊の頭領だの、半分は馬来の血が入った人気役者だっただの、朝鮮のかんちようだの、元は高位の軍人だっただの、まるで金光が創作した登場人物のようだった。

 本物の矢加部は死に、別人が矢加部に成りすましている、という噂もあるとか。

 矢加部本人に会ったこともないが、矢加部ならどの噂が事実であってもおかしくはない、と保和は納得もさせられた。

「右側の部屋には、朝鮮から来たという父と娘がいた。古都の慶州キヨンジユの出だという。

 父は四十くらい、娘ジニは数えで十七歳だという。父は小柄だががっちりしたたいに整った顔で、娘は色白できやしやで小柄で、まだ子どもにしか見えない。

 ジニは恥ずかしがり屋で、いつもうつむき気味で口数も少ない。だがセンとは種類の違う、しんの強さみたいなものは伝わってきた」

 ここでまた、保和はまだ見ぬ異国の乙女に恋心を抱く。

「あれは男を知って化粧をうまくすれば、センに負けない美人になりますよ。素のままならセンのほうが美人だが、つまりセンは化粧であまり変化がなく、ジニは化粧で大きく化けるんです。まだまだ男を知らない腰つきですなぁ。

 小金屋の主人、矢加部はさすが、元は女衒らしい値踏みもする。だが、金光の奥さんの化粧はもっとうまく素顔を隠してあるなどと、怖いこともささやく」

 矢加部にすべてを暴かれてしまう日が来るのではないかと、保和の肝が冷える。

「李は怒っているのではないが無口で無表情で、最初はあいさつしてもちゃんと返してもくれず、目も合わせてくれなかったので、反日感情が強いのだと遠慮していた。

 あるとき、ふとしたことで心を開いてくれると、情の厚い男だとわかった」

 その、心を開いてくれた逸話は書かれていないので、気になった。自分が金光に心を開いたきっかけが何だったか、思い出せそうで思い出せないこともある。

「李の日本語能力は、林夫婦を九としセンを三くらいと評定すれば、六か七といった辺りだ。ならばジニは、五か六となるか。

 父親が私に気安くなると、ジニも近づいてきてくれた。ジニはふっと、どこかにさらわれていきそうなはかなさがあった。その儚さは、妻のそれと似て非なるものだった。

 李は英語もある程度できるので、新嘉坡で一番高級とされるラッフルズホテルでボーイとして働き、学んでいる。白亜の、まさに美しい白昼夢のようなホテルだ。

 小金屋から歩いて通うにはやや遠いが、そのくらいの距離がいい、職場の近くには住みたくないという。無料で呼び出されたりしますしね、と。

 李は言葉の要らない下働きから始め、日本語はさておき英語で応対するフロントに座れるようにもなったと、無邪気に威張る。彼は努力家には違いなく、上昇志向、強い自尊心といったものもにじみ出ているが、ふくしゆう心が最も漏れ出ている。

 誰に対する復讐心かといえば、後述するが最大の敵だったという父が死んだ後は、具体的な相手はいないようだ。では今もって、復讐の念を燃やす相手は父親なのか。

 死者への復讐とは何なのか。もしかしたら忘れ去ることこそ、最大の復讐ではないか。

 ここで、いや、今の復讐相手は日本人全般だなどといわれればかなわないが、それは違う。彼はきっと、自分を生み出し、自分を生かし、自分をここに連れて来た大いなるもの全般に復讐心を抱いているのだ。

 持て余し、しかし生きる燃料になっている李の復讐心は、もはや性欲に近い。せつの獣欲ではなく、命をえいごうに繫ごうとする崇高な本能に基づくものだ。

 とはいえ涼しい顔で、いずれ朝鮮の故郷に小さなホテルを持つのが夢だ、などとも語ってくれる。愛する可哀想な母の名前を付けますよ。玉子オクジヤホテルだ。

 可哀想と可愛いは同じ、ですか。それはわかります。恨みも情には違いない。

 けいじようは嫌ですね、日本人だらけだし。などと、さらりと付け足しもする。李に、私達に対する明確な悪意などない、とは信じられる。金光さんも、ぜひ奥さんと泊まりに来てくださいよ、と真剣にいってくれる。

 李がホテルを持つ夢をかなえても、私達にはそこを訪ねていく夢と未来はあるのか。

 死んだ人間に未来はない。いや、妻は生きている、と書き、ならば何故に生き返らそうといているのか、堂々巡り、迷宮にとらわれていく」

 さて金光は、元通りになったとして、その妻に何を望む。平凡な平穏な暮らしか。元通りになればまた、八千代は火遊びを再開するだろう。

 そこまで狂おしいほどに好きな相手なら、いっそ死んでくれた方が安楽に過ごせるのではないか。まずは自分が殺した、というのをなかったことにしたいのか。

 養母も、狂おしいほど、というほどではなかったが、養父に先立たれてどこかあんした表情も見せ、無邪気といっていい笑顔すら見せていた。

 あれは、何か解き放たれた明るさがあった。養父の死顔もまた、何か安堵を感じさせた。里子の死に顔は、見ていない。恐ろしいもんの形相とまではいかなくても、春の言葉ではないが、ええお参りで、とはいえない気がする。

「娘のジニも父親と一緒に、ラッフルズで働いていた。姿形も年頃も生い立ちも何もかも違うが、垣間見た勤勉な姿は、なんとなく大鹿家にいた春をほう彿ふつとさせた」

 ここでまた唐突に春の名前が出てきて、保和は帳面を繰る手が止まった。金光はそんなに、春に会っていたのだろうか。そして、そんな親密に会話するような時間を持ったのだろうか。どうもその辺りが、はっきりしない。

 それにしても、春が恋しい。春は果たして、どこにいる。生きて再会できる日は、来るのだろうか。拝み屋に自分も会えるのならば、この人は生きているから呼び出せない、といってほしい。

 そこでふと、奇妙な考えが浮かぶ。春と拝み屋は、別人であると思い込んでいるが。それは確証のある事実か。金光は同一人物とも書いてないが、春とは別人とも明記してない。いや、保和は無理に笑おうとする。馬鹿な自分のことを。

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