立て続けのいろいろな喪失に、保和はどこかがしていた。里子は自分も御主人様の看病をしていた、その心労が重なった、と強調したいがためか、医者に睡眠薬を処方してもらっていた。それを壮太郎の死後、大量に服用した。

「狂言自殺で同情を引くつもりが、ほんまに飲みすぎてしもうたんじゃろ」

 ついに里子は眠りから覚めず、永遠の眠りについたというのを聞かされた養母が冷ややかに吐き捨てたのを、保和は見ている。障子には、死神ではなく鬼女の影が映っていた。その隣に、薄墨のように養父の影も広がってすぐ消えた。

 養母が医者を買収し、里子への薬を毒薬にすり替えただの、少量の睡眠薬で眠り込んでいる里子を押さえつけて残りの薬を流し込んだだの、見てきたように噂する人達もいた。

「かなわんわ、そげな噂。あんな女、もう憎い者の数の内にも入らん」

 何にせよ養母はすっかり毒素も執念も抜けきったようで、意外なほどしっかりと通夜や葬儀を仕切り、いつの間にか身辺整理も済ませていた。そうして養母は、四十九日を待ちかねたように自身の実家へと戻っていった。

 どこか常にうつとうしかった養母が、あまりにもあっさりと自分を残して去ったのは、保和にとってはなかなかな喪失感をもたらした。捨てられた人形の気持ちはこれかと考え、そもそも人形に心はあるのかとも苦笑いした。

「うちはもう、尼さんになったようなもんじゃけ」

 そうして春も、再び壮太郎の兄がいる大鹿の本家に引き取られていった。壮太郎の親もがっくり気落ちしたようで、勝手知ったる春に戻ってきてほしいと懇願したのだ。

「保和はもう、乳母が要る年頃でもなかろう」

 確かに壮太郎も没し、妻の須美子も里に帰ってしまえば、春が分家にいる理由はなかった。保和が自分の世話をしてほしいから行かせたくないと大鹿の本家にいえば、そんなら早く結婚しろ、嫁をもらえといわれて仕舞いだった。

「しばし離れるけぇど、いつでも春は坊ちゃんに何かあれば飛んでいきますで」

 別れ際、滅多に感情をあらわにしない春が泣いていた。捨てられる人形の気持ちではなく、墓地に捨てられる赤ん坊の気持ちだった。そこには、心がある。

 保和が高校二年のときに起きたの大震災も、同じ日本でも遠い関東の悲劇であった。ただ、地面が信用できなくなった衝撃は、自棄の混じったえんせいかんを生み出し、確かに日本全体が大きく変換しようとしているのは誰の目にも見えるようになっていた。

 変わらぬものは、春だけ。そう信じていたのに。春はれた男ができたとかで、不意に何もいわず大鹿の本家からいなくなってしまったのだ。異様な高揚の中にある昭和が二年目を迎えた、春先に。

 それをひとづてに聞いたときは驚きもあったが、妙に納得もさせられた。春は去ったのではなく帰ったのだと、保和は確信した。あのちようの飛んでいった方に。

「春の故郷は、常夏とまではいかんが、雪など降らんところですらぁ。気候がええから、どこもかしこも楽園とはいかんよ。楽園に見えても飢えるし、いさかいや恨みは渦巻く。春は無力な子ども、な子どもであったからこそ、神様に見立てたいけにえまつり上げられた」

 しきりに、春がかつて耳元で語った話が思い出される。それこそ子どもには難しい言葉や表現、事象などが、今になって意味ありげによみがえりかける。

「春よ、今さらながらに、春は何者なんじゃ。どこから来て、どこへ行く」

 大鹿の本家はさておき、養母の実家とも保和は元から疎遠で、次第に養母の噂も聞かなくなっていった。二人をつないでいた春もいなくなってからは、なおさらだ。

 歳も取ってそこまでぜいたくもできなくなったとはいえ、あの気位の高い養母が今さら格落ちの相手との再婚など望んでいるとも思えず、独りで人形相手にままごとなどしているのかと想像すれば、胸は痛んだ。

 可哀想は可愛い、それは養母に限っては、よくわからない。可哀想で可愛い里子の幽霊は、何度か見た。いつも後ろ向きで、微妙に体が傾いている。こちらを向いたら嫌だというのと、声を出さないでほしいというのがある。

「うちは、殺されたんよ。……あの人に」

 恨みがましい顔を見るより、何かとんでもなく嫌なことをいわれる方がうなされそうだ。

 春は、見ない。だから春は生きていると、保和は信じている。

 さて亡き養父は、保和にも東京の大学へ進んでほしいと願っていたが、本人は気が進まなかった。やればそこそこできるが、勉強そのものがさほど好きではない。

 養父も金光も卒業した岡山の第六高等学校を出る頃は、ちょうど養父がせり始めた頃で、うるさくいわれない環境になったこともあり、なんとなくまだ高校にいたいだけで、教員になる専攻科に一年通ったこともありで、大学受験は放棄した。

 養父が亡くなった後、大鹿の分家となる家は保和が相続した。大鹿の本家の者も、これを機に養子縁組を解消とまではいわなかった。形式上、しんせきではあり続けている。とりあえず保和はようぼうも良く学もあり、品行も決して悪くはないのだ。

 養父の死そのものに疑わしいところなどなかったが、めかけであった里子の死については今もって本妻に毒殺されたとの噂が岡山市内ではかなり囁かれており、縁を切ったりすれば保和にはらせとしてさらにけんのんな話を流布されるのではないかと、本家は恐れてもいた。

 だったら身内にしたまま、土地家屋も与えておいた方が大鹿家の一員として大人しくしていてくれると、計算しているようだった。そもそも保和は、大鹿の本家に対して情も悪意もない。このまま身分を保証してくれるなら、悪意も芽生えるはずがない。

 いずれにせよ遺産は銀行に預け、りんしよくに生きるのでもなく節制して将来に備えるのでもなく、これを機に本格的に小説家を目指してみようと決めた。

 養父の後輩である金光晴三は、押しも押されもせぬ人気作家になっていて、すべてではないが読み続けていた。影響を受けたものを書いてみたりしたが、どうも形にならない。

 養父が臥せってからは疎遠になっていたが、通夜にも葬儀にも姿は現さなかった。仕事で東京に滞在している、とのことだった。

 金光とは手紙のやり取りだけはたまにしていたし、大鹿の次男で有名会社の支店長でもあった養父の死は新聞にも出たが、足の骨を折って列車に乗れない、という電報が来た。帰りたくないのだとは、伝わった。養母に会いたくないのかもしれないと、保和は直感した。

 足の骨を折ったというのは噓であろうが、金光はしばらくして岡山に戻ってきて、墓参りに行ったと手紙をくれた。久しぶりに会いたい、ともあった。

 そして岡山市の洋食屋、めいようけんで久しぶりに会ったら、ほぼ容貌も態度も変わっていなかった。養父の話は、当たり障りないものばかりに終始し、里子や養母の話は出てこなかった。春がいなくなった話だけは、金光も食いついてきた。

「春さんは、地に足をつけてどっしりしとるようで、どこかこころもとない、風に乗ってふっといなくなりそうな雰囲気を漂わせておったなぁ」

 それよりも、金光の連れて来た女だ。妻だ、というではないか。今まで、そのような女の話は出たことがなかった。という女は保和より一回り以上も上だが若作りで、どこか養母に似ていた。

 少し季節を先取りした着物は、脱がすと中身が崩れ落ちそうなたおやかな風情もあったが、太いしんが背骨とともに真ん中にあって、決して倒れない頑丈さも伝わってきた。そう、まるで岡山の人気絵師、たけひさゆめが描いたような女だった。

 それをいうと、いわれ慣れているらしく、勝ち誇った顔で微笑まれた。

「八千代は東京の子なんじゃが、女学校時代から芸術家を目指しとってな。一番やりたいんは絵なんじゃが、小説を書いたり短歌を詠んだりもする」

 ただ、養母は弱みを見透かされまいと必死に強気を装っていたが、八千代は最初から天然といっていいほどの自信がみなぎっていた。それは決して攻撃的に押し出してくるものではなく、気づかぬ人にはむしろ八千代は謙虚で控え目にすら見えただろう。

「保和さんの話は、この人によく聞かされてました。だから、初めてお会いする気がしないわ。お互い、せつたくして芸術家を目指しましょうね」

 すききのなべを前に、すらすらと脚本をそらんじるかのように、八千代はいった。金光は麦酒ビールで酔っているが、八千代は日本酒まで頼んで手酌で楽しんでいた。

 わざと蓮っ葉に見えるよう振る舞っているのか、それも天然自然にしているだけなのか、読めない。保和は、自分が子どもであるのを思い知る。だが、はるか大人の金光も、手玉に取られているではないか。

 金光が八千代に惚れ切っているのは伝わってきたが、八千代がどれくらい呼応してやっているかは、わからない。ただ八千代は自分にしか関心がなく、自分しか好きではない、というのは感じられた。このあたりも、養母に似ている。

「親は、別に八千代との結婚に反対しとる訳じゃないんじゃが。八千代がほれ、この通りの新しき女、覚めたる女じゃから。岡山には、なかなかめんでなぁ」

 八千代の含み笑いはれんに恥じらっているようにも、こちらを小馬鹿にしているようにも取れた。おそらく金光の親も、嫁にそんな戸惑いがあるのだろう。

 それから金光夫妻は東京と岡山を行ったり来たりの暮らしになり、相変わらず人気小説家ではあったが、別のことでも文壇をにぎわし、醜聞は新聞に載ったりもした。

 八千代が随分と恋多き女で、れっきとした人妻でありながら評論家だの画家だの新聞記者だの、だいたいそういう方面の男達との浮気を繰り返した。夫である金光は若く美しい妻に振り回されながらも、別れられないとのことだ。

 たまに帰省してくる金光に会っても、それらの噂話、醜聞については黙っていた。いや、まったく知らないふりをしていた。それとは別に、金光に会いにくい心情もあった。

 すごい作品を書きたい、小説家として華々しく文壇に躍り出て売れたいといった欲はあるし、何度か懸賞小説に応募して掲載もされた。大抵は、最終選考に残れる。しかし、今一つつぼみは閉じたままで、花はなかなか開かない。

 自分でもまだ、自分の小説、と胸を張れるほどのものは書けていない、とわかる。

「師匠として、保和くんを世に出したい。大鹿先輩の、供養にも恩返しにもなる」

 などと会うたびにいってくれ、様々な尽力をしてくれている金光に合わせる顔がない、といった心持ちだ。何せ勉強や運動や楽器演奏などと違って、創作は努力の仕方がわからない。練習すれば上達するものでもなく、そもそも上達しているかどうかもよくわからない。

 それは、妻の八千代も同じことだった。たまに短文や挿絵が雑誌に出たりするが、売れっ子の夫のおまけ、夫の方の原稿が欲しいための機嫌取りとして載せてもらえているのは、丸わかりだった。

 八千代にも、そのじくたる思いがあるのかもしれない。八千代は露見を恐れず、逆に見せつけるかのように浮気を繰り返している。

 夫であり、人気作家である金光をおろおろさせ、きりきり舞いさせ、自分への愛情と未練を確認しなければ気が済まないのかもしれない。そうすることで、自分はこちらの土俵では夫にも、作家の金光にも勝っていると思えるのだろう。

 悪女呼ばわり、悪妻の汚名も、無能な作家、売れない画家といわれることに比べれば、ましであるどころか、むしろ称号に近いのかもしれない。

 実は保和も、こっそりと一人で訪ねて来た八千代に誘惑されたことがあった。着物を脱がすところまで行ったが、やはり恐ろしくて途中でやめてしまった。師匠の妻だからではなく、もっと違う禁忌を感じたのだ。

 実は養父の妾だった里子とは一度だけ関係していたが、こちらは何もかもが気楽だった。

「保和さんは、自分だけが好きじゃろう」

「皆、そうじゃないんか」

「いんにゃ。自分以上に好きな者が現れてこそ、大人になれるんですがな」

 里子のささやきが、生々しく蘇る。耳に、吐息さえかかる。これまた師匠を見習い、どこかの女に狂おしく惚れてみたくもある。身も世もなく恋にもだえ、もはや笑ってもらうしかない道化になりたくもある。

 しかし文学の恩師である金光晴三には、ひたすら忠実であろうと努めていた。恩に報いるため、小説にはしんに打ち込むつもりだ。自分は八千代のような、金光に対しててんびんにかけ、交換するようなものも持ち合わせていない。

 人気作家の模倣にすぎず、金光晴三の稚拙な亜流でしかない。そんな酷評などされるまでもなく、自分が一番よくわかっている。

「保和くんは、書けるで。書かせようとする白い手が何本も、後ろにひらひらしとる」

「えっと、それは文学の神様の手なんでしょうか」

「保和くんの、実母に養母に乳母の手じゃ。その母達の手が、君にとっては文学の神様の手でもある。わしの手は、入り込む余地なしじゃ」

 柄にもなく芸者遊びをしてみたり、酔った勢いで遊郭に上がったりもしてみたが、今一つ面白くない。ときおり養母の置いていった着物など引っ張り出し、白粉おしろいをはたいてみたりする方が、よほど鼓動は高まる。

 納戸に仕舞い込んでいた古い人形は、改めて見れば少し老けている気がする。

 今も保和は色白で骨が細く、役者顔だの優男だのいわれているが、幼い頃に比べれば女の格好をすればするほど、実は男であるのが強調されて切ない。

 そうこうしているうちに、秋頃から金光晴三がしつそうしたとの噂が流れ始めた。手紙を送っても、梨のつぶてというやつだ。小説誌には、編集部にあらかじめ預けてあったらしき原稿は掲載されているが、編集部も連絡が取れなくなっているとのことだ。

 一時の人気は衰えた、いや、落ち着いたとはいえ、まだまだ人気作家の一人であった金光の突然の失踪。さらに妻の八千代も、同時に消息を絶っていた。

 八千代は奔放だがすべて火遊びで、本気で離婚させようとする男はいなかったし、夫婦揃って金の問題もなかった。金光自身は、妻の浮気癖にも苦悩していただろうが、やや作家として行き詰まった、とも漏らしていたという。

 だが、それらを合わせても失踪する理由になるのだろうか。

 留守を承知で訪ねてみれば、自宅も施錠はされていたが生活感を残したままで、荒らされた形跡もない。片手に持てるほどの荷物だけ、持っていったか。保和は、金光の親が住む実家までは知らない。

「絵描き志望の妻と、あこがれのを目指します」

 昭和三年に入ってしばらくして、何人かの親族や関係者に金光から手紙が来た。上海にいる、香港に立ち寄った、と現地の消印がある絵葉書も来た。

 保和も、受け取った。間違いなく金光の字であったが、いなくなった理由など一言もなく、のんな当たり障りのないことしか書かれていなかった。

 八千代は日本を出ていくにあたっては、実家の親兄弟にも女学校時代の友達にも、誰にも何も告げず、手紙も出していなかった。

 しばらくして一度だけ親元に『巴里を目指します』などと書かれた葉書が来たというが、本当に八千代の手によるものかどうかは怪しかった。

 そんなふうに金光夫婦がいなくなって、半年くらいはまだ、金光も出版関係者や文壇仲間、友人達には手紙をぽつぽつと送ってきた。どれにも、夫婦仲良く、のんびりやっている、とあった。絶対に、どちらも噓だと皆は嘆息した。

「なかなか巴里にはたどり着けずにいますが、別の楽園にはいます」

 日本人が多い上海や香港では、金光らしき人を見た、という話も入ってきた。なのに妻の八千代は、誰にも見られていない。あんなに、目立つ女なのに。

 八千代だけ巴里にった、というのは楽観的すぎる予測だろう。まだ、八千代だけこっそり日本に戻っている、という方がしんぴよう性はある。

 しかし金光に返事を書こうにも、どこにとうりゆうしているかはまったく書いていない。焦燥だけでなく、奇妙な興奮も覚えてしまう。その興奮は、つやっぽい色合いも帯びていた。

 やがてまったくの音信不通となって久しくなった後、保和だけに『妻についての記録』なる帳面が送られてきた。表紙に、金光の字でそう書かれていた。もはや、昭和三年も終わりが近づいていた頃だ。

 郵便配達夫から直接、郵便受けに入らん大きさじゃったので、とその封書を受け取ったとき、ついに来たとひざが震えた。とうに、来るのを予想していた気もした。

 一読し、あまりにも異様な内容なので誰にもいえなかったが、めくるたびに読み返す毎に激しく感情を揺さぶられた。ますます性的な高ぶりも、そこから突き付けられた。

 帳面に書かれた金光の所在地と封筒の消印は、南洋の新嘉坡だった。切手も初めて見る異国のものだ。あまりにも遠い南洋の島。の町ともいわれる、しやくねつの地。赤道直下の過酷な楽園は、春の昔話にも出てこなかったか。

「二人揃うて居らんようになっとるし、金光を名乗る者からの手紙に、妻を伴っておるようなことが書いてあるから、夫婦一緒に居るように思わされてしまうが」

「それじゃ。わしも、疑問に感じとった。もしかしたら二人は、別々に居らんようになっとるんかもしれんで」

「手紙に、本当のことだけ書いてあるとは限らんしな」

「それをいうなら、差出人が金光をかたる別人かもしれんぞな」

「案外、成りすましは八千代さんかもしれんで」

「だんだん、探偵小説のようになってきたのぅ」

 岡山にもいる文芸仲間、金光を通じて知り合った東京の文芸誌の編集者などと、保和も手紙のやり取りをし、会って話もして情報の交換はしていた。

 しかし、保和の手元には手紙以上に怪しい、金光からの帳面が送られてきていることは、誰にも話さなかった。夫婦揃って、新嘉坡にいることもだ。

 不安を誰かと分かち合いたい気持ちもあったが、この異様なきらめきを帯びた闇を独り占め、いや、金光とだけ共有したい欲望が勝った。

 南洋から来た帳面は、ぱらぱらと捲っただけで圧倒されるほどの細かい文字による文章が、びっしり詰まっていた。南洋の果実にたかる、蟻のように。

 添えられた便びんせん一枚の手紙の文面は、走り書きに近かった。けれど、これは保和くんにしか託せないものだ、とあった。

 手紙、帳面、すべてに恐ろしい保和のよろこびと、金光の血肉の匂いが渦巻き、八千代の紡ぐ悪夢もひしめいていた。

「遥か遠い地にいる私には、君に対する強制力だの抑制力だのはないし、若い後輩である君も、そこまで私に義理立てをする理由もない。

 そもそも私には、これを読んだ君に何かをしてほしい、あるいは何かをしないでほしい、といった注文も要望もない。

 ただ私は君にこれを送りたい、君にこれを読んでほしい。それだけだ。

 君以外に、思いつかないのだ。君以外、これを託せる人を思い浮かべられない。

 ただ、君には一連の恐ろしい出来事を知ってほしかった。私のやったことと考えと妻の現状を、把握しておいてほしい」

 手記は最初から、保和に向けて書かれていた。保和だけが読むものと決めて、金光は書き始めていた。師匠の思いは、受け止めねばならない。

「私の手を離れてしまったこの『妻についての記録』は、君の考えで対処してほしい。

 自分一人の胸に仕舞っておけない、自分だけがこんな重荷を勝手に背負わされてはかなわないと困惑するなら、このまま警察に届けてもいい。

 君が信頼できる文壇仲間などに相談してもいいし、なんなら君のさいはいでこれを作品化し、どこかに発表してもいい」

 この箇所に、激しく誘惑されたのは事実だ。自分には到底、思いつかないであろう怪奇な物語。これを我が物として書いてもいいと、書き手に許されているのだ。

「あるいは、すべてなかったこと、こんなもの読まなかったことにして、帳面は封印してしまう、もしくは焼き捨ててしまう。それでもいい。

 君がこれを読む頃には、私はこの世にいない、とまでは書かないが、君の知る私ではなくなっているはずだ。

 もしも君と再会できたとしても、私は別の何かになっているだろう。もしかしたら、こちらも君を君だと分からなくなっているかもしれない」

 見覚えある懐かしい金光の字だったが、念のために慌てて金光の別の手紙や添削してくれた原稿用紙など引っ張り出し、並べて見比べてみた。

 手紙に使っている便箋も封筒も、灰色の表紙の帳面も、筆記に使用している万年筆のインクの色合いも、すべて本人が愛用のものに違いなく、文体も金光独特の言い回しや表現がちりばめられている。

 何者かが、ここまで細かく丁寧に金光を騙り、成りすまして細工できるものか。

「追伸・妻もまた、一足先に妻であって妻でない何かになっている」

 帳面の中からではなく、背後にふっと女の笑い声がした。それは、八千代ではなかった気もした。そういえば春に聞いた怖い話に、

「見えるより聞こえる方が、幽霊は近づいてきとるんですよ」

 というのがあった。春はお仕置きとして暗闇に閉じ込められていたとき、目をつぶって二重の闇にいても、いろいろなものが見えて聞こえていたという。

「うちのように、生贄や神様との繫ぎに使われる者でのうても、めばこの世ならぬものが見えて聞こえる木の実があってな、それも嚙まされとりました。つばを吐けば、血が混じっとるように見えるんですらぁ。たまに春は、本当の血を吐いた」

 帳面を捲ると、春の声にかぶさるように、金光の声が響いてくる。

「あれは妙に蒸し暑い、赤黒い血の色が空の大部分を占める黄昏たそがれ時だった。庭の何かの花が、息苦しいほど香っていた。台所から、かすかな腐臭が漂っていた。今朝、食卓に出した漬物が早くも傷んでいたようだ。

 そんななんでもないような日常の中に我々はいたが、とてつもなく不吉なことが起きる前兆はかんぺきのようでもあった。

 居間に二人でいるとき、どちらも酔ってもおらずけんもしていなかったが、なぜかさいなことで激しい殺意が湧き、あらゆることに絶望した。

 結果、妻を殺してしまった。妻は、とても静かに死んだ」

 というくだりも、筆跡の乱れもなく他の文に紛れてしまう平穏さ、へいたんさだった。

「妻の死体を見下ろし、できるだけ頭を整理してみた。自分には前々から妻に対する確かな殺意があり、まりに溜まっていたものがついに抑えきれなくなったか。

 妻を愛していたし、二人の暮らしを長く平穏に続けたいと願っていたにもかかわらず、不意に自分ですべてぶち壊したい衝動に駆られてしまったか。

 いずれにせよ、妻が死んだことだけが事実だ。私が殺したこともだ」

 目の奥と、心臓が痛んだ。これは真実なのか。信じていいのか。あの八千代が、死んだ。金光に、殺された。噓じゃ、思わず、言葉が漏れる。

「自首するか、どこかに死体を隠して何食わぬ顔で生きるか、いっそ後を追うかともしゆんじゆんしたが、その時間は永遠のようでもあり、意外と経っていなかったようでもある」

 赤黒い血の色の黄昏の空が、保和の背後にも広がった。かぐわしい花と腐った漬物の臭いが、保和のこうにも満ちた。

 足元に死んだ女の眼球が転がり、自分をにらんだ気もした。

「なぜ、そこでそんなことをしたか。やはり、頭がどうにかなっていたままだったのか。これも自分が自分を離れてしまっていたような、妙な冷静さのなせる業か。

 以前、本格的な怪奇小説を書こうと試みたことがあり、そのとき知り合った拝み屋に再び会ってみた」

 怪奇小説を書こうとしていたのは知っていたが、拝み屋という字面に目が留まる。

「おそらく出版社の誰かの紹介で会っていたはずだが、かつて君の家にいた春さんに聞いていた人、だった気もする」

 春の名前が出たとき、保和はもう自分も引き返せない領域に踏み込んだのを知った。春は今、どこにいるか皆目わからぬが、金光に近い場所にいると感じられた。

「保和くんには、その拝み屋については一度も話していないはずだ」

 拝み屋。確かにそのような人物について、金光の口から聞いた覚えはない。保和はそのような人物と世界に好奇心や面白がる気持ちもあるが、信じてはいない。といって、頭から否定しべつするようなこともない。

 春が夜毎に語ってくれる怖い話は心底から好きだったし、春の話にも拝み屋らしき登場人物は出てきたが、あくまでもそれは物語の中の人だった。

「金光晴三は作風と違って乾いた現実主義者、近代的な思想の持ち主だ。そう思われるように自分でも意識して振る舞っていたから、そのようなものを信じているのかと驚かれ、苦笑されるのが恥ずかしかったのかもしれない」

 ここでふと、自分はどれほど金光を知っているかと目を上げる。ぼんやり、いろいろ自分に近い人、くらいにしか考えていなかった。もちろん好意や親しみや敬愛は大いに持っているが、金光の内面や過去を、そこまで掘り下げようとしたこともない。


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