case1 世界的スター選手
「入ったーー!!この男がまた打ちました!彼の辞書にはもう不可能の文字はありません!」
ゆっくりとベースを回りながら思い出したのはとある選手に憧れて野球をやり始めたその日のことである。
思えばその日から気持ちは何も変わっていなかったのだ。私はただ、野球を純粋に楽しんでここまで来たのだ。
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7月5日
「北穂志選手!先日の試合での活躍もお見事でしたね!」
そう言われて私ははっとなった。
プロでの試合がここ数日連続していたため少しばかり疲れていた。話しかけてきたのはタクシーの運転手だ。
今は家へ帰る途中でぼーっとしていたところだ。
「ええ、ありがとうございます。最近は特に調子が良くて。」
「おぉ!そうなんですか!実はね、私レッドスターズのファンなんですよ。主砲のあなたがそういうのなら今年は安泰ですねぇ!」
と、運転手の中年の男が嬉しそうに言ってきた。
野球界がこんな状況の今でもプロ野球を観ている人に出会うことが出来たのは幸運だ。
「今年、、今年って何年でしたっけ。この歳になると西暦とか気にならなくなっちゃってね、。」
自分のずぼらを老いのせいにしながらそんなことを聞くと運転手はけらけらと笑いながら教えてくれた。
「いやぁでもわかりますよその気持ち。ほんとどうでも良くなりますよね〜。ちなみに今は2022年ですよ。」
そして続けてこう聞いてきた。
「いやーね、でもね北穂志さん?最近は本当に野球のレベルが下がってるんじゃないですか、北穂志さんとか前より簡単に打てるようになっちゃってるんじゃないですか?」
確かに近年の野球人口の減少とそれに伴う野球レベルの低下はあまりにひどいものだった。
この先野球界はどうなっていくのか正直心配ではあった。
世話になった野球界も本当に規模が小さくなっているし、拭いきれない寂しさというものは心の奥底で確かにあった。
野球を仕事と出来る日はきっともうすぐ終わる。
仕事としての野球という概念はもうすでに終点へ敷かれた路を着々と進んでいた。
とは言ったものの、もう私もいい歳だった。
そろそろプロ球界から身を引くことも考えていたほどだ。まあ私の身体が、プロ野球界よりも早く衰えたら、の話だが。
と考える目があまりにも遠い目をしていたのか運転手が
「ま、心配にもなりますよね。野球、面白いんですけどね〜。」
と言ってきた。そりゃあ心配さ。だけど、どうしようということでもなかった。
特に何があるわけでもないネオンの光だけが煌々としている街並みを回っていない頭で眺めていた。
目まぐるしく移り変わる景色はここ最近の生きづらい世界を表しているようだった。
街から目を逸らすように街の上の空を見るとそこには変わることなく光る星が見えた。北極星、ポラリスである。
「家までまだかかりそうだから仮眠を取ることにします。着いたらすみませんが起こしてください。」
とだけ伝え重たい瞼を閉じた。真っ暗でタクシーのカチッ、カチッという歯切れのいい音だけが聞こえる中、瞼の裏に今までの野球人生が蘇ってきた。
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1996年 北穂志 高校3年生
キンッ 鋭い音と共に白球が地を這いながらこちらへ向かってくる。
スパッという音とショートバウンドがグラブにおさまる心地いい感触を刹那に感じながらスナップを効かせてファーストにボールを投げる。
俺はサードでノックを受けていた。殺人的な夏の日差しがただでさえ暑苦しい格好をしている全身に刺さる中、甲子園に備えた練習をしているところだった。
「次!ショート!」
飛んでくる球をサードから順番に捕球し、特定の場所へ投げる。機械的な流れ作業なようでそうとも言えない。
効率の悪いとされる野球というスポーツにおいてノックは比較的効率の良い練習法だと言える。
「おい飛べよそこ!!捕りたいもんが目の前にあるんだろうがァ!!絶対逃すな!!」
監督の怒号と共に飛んでくるボールを各々が捌く中、球継ぎをしている選手や外で走っている選手を見てなんとなく「俺は恵まれているのだな」なんて考えていた。
空には雲ひとつなく、絵の具で塗った様な一面の青とぎらぎらと燃える太陽だけがこちらを見下ろしていた。
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「ここまできたら優勝だな。」
キャプテンが夜空を見ながらそんなことを呟いた。無論だ。優勝以外あり得ない。そのために俺たちはここに立っている。
「てか、北穂志、お前そういや行きたい球団とかあんの?もうプロ入りは確定だろお前。」
「わからない。今のことしか考えてなかったよ」
笑いながらそう返事した。練習が終わったあと、俺達は自分達の寮に戻り、俺の部屋に3年の何人かで集まりそんなことを話していた。
正直このメンバーなら優勝も充分狙えるだろう。それに、俺はこの2年間苦楽を共にしたこいつらを最高の仲間だと思っている。
こいつらのおかげで俺はここまでこれたと思っている。
「よし!誓うぞ。じゃあ、、あ、!あの星に誓う!俺達は優勝する!」
「ばか、適当な星選んで勝手に誓うな」
「適当じゃねーよ!俺あの星知ってるぞ。えっと確かあれだよ、一年中ずっと見えてる星!」
「知ってるの名前じゃねーのかよ!」
キャプテン達のそんな他愛もない会話を横で笑いながら聞いていた。
うちの寮は周りに建物もなく星が綺麗に見えた。この星をこいつらとあと何回見られるんだろうか。そんな寂しい考えがふとよぎり、窓から入ってくる風と共に頭をすり抜けていった。
これから先どんな人生を歩むかわからないけれど、こんな特に何をするでもなく集まって笑い合った今日みたいな夜が忘れられない思い出として、一生残り続けるんだろうな、というぼんやりとした実感だけが風に飛ばされることなく俺の中に残ってほんのりと灯っていた。
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夏大会 甲子園
結局死闘の数々を乗り越えながら俺達は決勝まで上がってきた。
得点は3:4で負けている。
「まだ7回!残りのイニングしっかり自分達の野球をしてれば絶対逆転できる!っしゃいくぞぉっ!」
キャプテンの頼もしい声かけに後押しされるように俺達は全力で声を出し、ベンチを熱くさせた。
全国の高校の中で最も最後まで勝ち残った2チーム。あと少しの時間でどちらかが栄冠を手にする。全ての高校の頂点だ。
勿論そんな実感なんて湧かない。沸いてる余裕もなかった。
先頭打者のキャプテンがヒットで塁に出る。どんな時でもあいつは俺達に勇気をくれる。こんな状況でもベンチに向けて塁上からガッツポーズをするあいつの目の奥には勝利の2文字だけが煌々と輝いていた。
コンッ
次のバッターがバントをうまく決めて1アウトランナー2塁。チャンスだ、千載一遇の。
ベンチも、スタンドも大きく湧き上がった。
がしかし後続が続かず無得点で終わってしまった。
その後の8回もなんやかんやで無得点のまま勝負は9回裏に突入。この回で点を取らなければ負ける。そんなはずなのにベンチを見れば誰1人として諦めているものはおろか焦っている様子の奴すら1人もいなかった。
もちろん俺もだ。恐らく今この瞬間、日本で最も熱いこの場所にいながら俺達の心は更に熱く燃えていた。
腹の底から声を出しながら自分に打席が回ってくることを願った。先頭は三振、しかし続くバッターがヒットで出塁した。こんなところで負けたくない。
そんな思いが俺たちを更に勢いづける。これでこのままいけば俺にも回ってくる。更に熱くなる心、速くなる鼓動、その一方で雑音はすーっと消えて自分の心拍音だけがはっきりと聞こえている。
とてつもない重圧がかかっていたが、何故だか心地よい感覚ですらあった。
バッターがバントでランナーを2塁へと進塁させた。スタンドは最高潮に、集中力は極限まで高まった。
さあ、行こうか。
ここが俺の夢見た憧れの場所なんだ。
背中に届く大きくて心強い声援を受けて、俺の足はバッターボックスへ一歩、また一歩と近づいていった。
2アウト2塁、打席に入った俺はその場で2、3度ジャンプをしてから体を大きく後ろに反ってバットを構えた。
こちらを睨むピッチャーがキャッチャーのサインに頷いてセットポジションに入る。そして放たれた初球。
「ゴーゴー!!!」
ベンチが一斉に叫ぶのと同時にランナーが三塁にスタートし滑り込んだ。
盗塁ではない。ボールが後ろに逸れたのだ。
こうして2アウトランナーは三塁。360度全方位からの視線が向けられる中俺はこんな状況でもなんとか落ち着いていた。
キャッチャーがタイムをかけてピッチャーのところへと駆け寄る。その背中を見ながら俺は数分後には俺の打席がどうなっているのだろうかと見えるはずのない未来を見ようとしていた。
こんなどっちに転ぶかわからないような状態でも、こんなに人のいろんな感情が混ざり合い蠢いていても、本当にやってくる未来は決まっているのだろうか、運命は決まっているものなのだろうか、などと場違いな考えを抱いていた。
戻ってくるキャッチャーがこちらに軽く頭を下げるのを合図に俺も意識を全てこの瞬間へと引き戻した。
止まったように見えるこの空間の中で相手のピッチャーから滴り落ちる汗が今も時間が前へと進んでいることを俺に知らせた。
相手ピッチャーの足が上がり、しなる腕からブレーキの効いたカーブがミットに吸い込まれるように向かってくる。
ボールひとつ分外だ、と確信して見逃し、バックスクリーンには青いランプがもうひとつ灯る。
頷きながら間をとる。
緊張もしていたがそれ以上に楽しかった。この最高の場所で、最高の相手、そしてなにより最高の仲間に囲まれたこの最高の瞬間が本当に幸せだった。
あとは、点を返すだけだ。
ボールが投げられる前から次の球が勝負の分岐点だとなんとなく察することができた。
再びピッチャーの足が上がる。
体重移動、腕のしなり、スナップが完璧に効いたフォームから繰り出されたボールが火を纏っているかのような勢いで地を這いながら凄まじい勢いで近づいてくる。
俺は迷わずバットを振り抜いた。
カキーンッ
痛快な感触と共にボールがレフトの奥へ奥へと伸びていく。
伸びろ、もっと伸びろ、と念じながら一塁ベースを踏み、二塁まで走る。
見えている世界がとてもゆっくりと、止まっているのではないかと錯覚するほどゆっくりと流れていく。
レフトが走り、ボールは伸びる。捕られるか、スタンドインか、際どい。どっちだ。
ゆっくりと重力に従って落ちていくボールがどこへ落ちるのかなどここからはほとんどわからなかった。
けどきっと今伝えた思いはあのボールをより遠くへ飛ばしてくれる。
そう信じた。ボールはそのまま伸びていき、そして、そして...
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「...さん、北穂志さん。」
呼びかける声で私は目を開けた。
ずいぶんぐっすりと寝ていたようだ。
「相当お疲れの様ですね。到着しましたよ。」
「あぁ、ありがとうございます。あ、お代を。」
「はい、いただきました。毎度ありがとうございます。頑張ってくださいね!」
少し寝ぼけたままタクシーを降りる。
家まではすぐそこだ。疲れて鉛のように重い足を引きずりながら帰路に着く。
家のドアを開けてすぐさまベッドまで向かう。全てを包み込んでくれそうなふかふかの感覚が横たわる私の身体を受け止めてくれた。
本当に歳のせいなのだろう。体力も落ちてきている。
そろそろ、か。
寂しい感情を振り払うように明日の自分に全てを委ねて目を閉じた。
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8月7日
...ピピッ ピピピピッ
無機質であまり好きになれない時計の電子音が強引に私の意識を引きずり起こし、新しい日のスタートを告げた。
下へ降りると妻が味噌汁を作ってくれていた。
テレビで流れている朝のニュースは相変わらずつまらない。
プロのスポーツであるにも関わらずニュースで前の日の野球の結果を報じなくなった時から私の中でテレビニュースの番組は色を失っていた。
「そういえば昨日監督さんから電話があったわよ。あなたに話したいことがあるみたいだったけど寝ちゃってたから、今日球場に行ったら話があると思うわ。」
妻がそう言うので気になりながらもまあいいやと味噌汁を胃に流し込んだ。体の内側が温まる感覚まで味わいながら箸を置いて支度をする。
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空には雲ひとつなかった。
もちろん晴れは気持ちのいいものだが、小さい時から夏の真昼間のギラギラとした太陽は少し嫌いだった。
どちらかと言えば星の見える夜の方が好きだった。そう、高校の時みんなで見上げた星空の方が、。
そんな事を考えていると球場に到着した。
なんだろう、球場の空気が重い。
スタッフもあまりいないし関係者はあまり明るい顔をしていなかった。怪訝に思いながらも監督室へ向かった。
着くや否や監督が私を出迎えた。
「おぉ、北穂志。すまんな昨日は。疲れていたところだっただろうに。奥さんにもすまなかったと伝えておいてくれ。」
「お気遣いなさらず。それより話とは?」
「あぁ、そうだったな。まあ、その、落ち着いて聞いてくれ。」
監督の空気が打って変わって重苦しい空気となったのを察した。なんだか嫌な予感がした。今までなかった感覚だ。
気になる反面、聞きたくないような気もした。しかし監督の口はゆっくりと開き、飲み込み難い言葉を紡ぎ始めた。
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8月20日
私はついに野球を仕事とできなくなった。
覚悟はしていた、昔から。しかしやはり私の中にはやり場のない虚しさが残った。
同時にあの日監督に言われた言葉を思い出した。
「球界に今まで貢献してきた北穂志にはかなり受け入れがたいかもしれないが、8月20日、日本プロ野球協会は、、解体されることになった。その日が実質的なプロ野球の最後の日だ。」
その話を受けてから家へ帰るまで一切の気持ちの整理がつかなかった。前々から気持ちの準備はしていたはずなのに。
突きつけられた現実は自分の思っていた何倍も重く疲れ切った心にのしかかってきた。
よほどぼーっとしていたのだろう。妻が声をかけてくれた。
「あなたは今まで本当によく頑張ったわよ。きっと気持ちの整理はつかないと思う。そんなにすぐに割り切れる事じゃない。けど、あなたはこれまで本当にいろんな人を勇気づけて、救ってきたと思う。」
そう言って背中をさすってくれた。言葉の最後に小さく、私もその1人。と言い足したのを聞き逃すことはなかった。
自分の意思と反して流れる涙は頬をつたい、穴の空いた心に溜まるように服の胸部にしみを作っていった。
世界は残酷だ。
仕事としての野球は自分の誇りだった。自分がここまで必死で磨き上げてきた物だった。
それが今、手から滑り落ちる砂のように私の前から消えていった。激流のような時代にさらわれてしまった。
私はこれからどう生きていけばいいのだろうか。
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家の近くを散歩していた。仕事がなくなった日から私の見える世界はすごくつまらないものになってしまった。
いや、きっとつまらなくなったのは私の目の方なのだ。
悦びの色を失った日々を惰性で謳歌しながら、唯一新しく始めた習慣が散歩だった。
無意識に自分の目に色を取り戻そうとしてるのだろうか。自分でもわからなかった。空は今日も多分青い。雲ひとつない。
そうして公園の近くを歩いていると青年がこちらに話しかけてきた。
「あの、北穂志さんですか?」
緊張しながらも話しかけてきたその青年はこちらに握手を求めてきた。快く握手をすると青年は少し噛みながらも何やら話し始めた。
「僕、野球が嫌いになりそうだったんです。でも、球場に見に行ったときに、北穂志さんがホームラン打ってて、僕なんか熱くなったんです。上手く言えないですけど、僕、あの試合見に行ってほんとに良かったです、!」
たどたどしいところもあったがなんだか嬉しかった。そうして青年にありがとうと言い別れて家に帰る。
そうだ、プロじゃなくたって、野球を好きな人はまだいる。私に出来ることは、まだあるかもしれない。
自分ではあまりわからないがきっとその時の帰路を辿る足取りはいつもよりも軽かった。
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それからというもの、私はこれまでプロで得たつてをたくさん使い、失くなりつつある野球場のひとつを買い取った。
そこで定期的に野球の試合を主催する協会をも作った。観戦は自由にでき、誰もが楽しんで野球ができる。
きっとまだ野球をしたい、見たいという人がたくさんいると信じて。
その人達へ向けて私は必死に活動した。それがきっとプロ野球協会への恩返しにもなるだろうと勝手に思った。
所有地としたことで、撤去を免れた。逆に言えば公営の野球場はどんどんと姿を消した。
その代わりに立つグリーンタワーが街の景観を大きく変えていった。
寂しく思いながらも今の私は前を向いていた。私を変えてくれた、私を幸せにしてくれた、大好きな野球はここで生きているのだと、そう思えた。
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協会を立ち上げてからどのくらいの月日が経っただろう。今日をもって私はプレイヤーを引退する。
寂しかったが、ここが引き際だとも察していた。今日は夜の試合。家を出る時妻が見送ってくれた。
「頑張ってきてね。」
「おや、何か特別なことでも言うものかと思ったけど。そんなこともないのだね。」
「だって打てなくなっちゃうもの。」
と笑顔で言う妻はどこまでも眩しかった。野球を続けられたのもこの人のおかげだ。何度救われてきたか。感謝してもしきれない。
ありがとう。と一言いってドアを開け、球場へ向かった。
試合前になり、観客席を見て驚いた。とんでもない数の観客が見にきている。言葉にできない喜びが身体中を突き抜けて溢れた。
「あれ、北さん!何泣いてるんすか!」
同じチームの佐々木がこちらに気づき笑いながら駆け寄ってきた。
すると他のチームメイトも
「あー!北さんちょっと!」
「まだ早いってば北さん」
みんな眩しく笑いながら私を囲んでくれた。幸せだった。私の居場所はここなのだと、思わせてくれた。
アンダーシャツで涙を拭き取ってみんなを鼓舞する。
「すまない!みんな、今日は絶対勝とう!」
オオォッ!
そうして試合は始まった。
満点の星空の下、審判がプレイボールを宣言する。
2回の裏、先頭は私だった。前のイニングは三者凡退で終わった。
ピッチャーを見てふっと笑った。
「久しぶりだな。あの時以来か。」
見つめる先にはあの日の甲子園の決勝のマウンドで私と、いや、私達と相対した男が再び立っていた。
楽しくなってきた。
こんな舞台を用意されてしまってはいやでも熱くなってしまう。
遅くなる時間の流れの中、ピッチャーの足が上がりしなる腕からあの日と同じキレのあるストレートが投げ込まれた。
その初球を思いっきりスイングした。
カッという気持ちのいい木の音とともに飛んでいく打球は伸びきらずセンターフライとなった。少し詰まったか。
試合は5:6と相手の一点リードのまま終盤に入った。ベンチを見ると全員の目が闘志でギラギラと燃えていた。
あぁ、思い出すなぁ。
あの日を、あの日のベンチもこんな感じだった。あのバカ達は今も元気にしているだろうか。
そんな事を思いながら最後の攻撃に身を乗り出してベンチから声を出す。バッターは8番。私まで打順は回ってくるだろうか。
頼む、私まで回してくれ。
願いながら声を張り上げた。ガッという音と共に打球は三遊間へ、しかしショートが上手く切り返して一塁へ送球。
ヘッドスライディング虚しくアウトになった。
「まだまだぁ!打って出ろぉ!」
という声援が力となったのか、9番バッターがセンター前ヒットで出塁する。大きくなる歓声が私の心をより一層強く燃やしてくれた。
ベンチの声も少しずつまとまって同じ事を言い始める。
「なんとかして、なんとかして北さんへ回せ!!」
「北さんまで回すんだ!」
ばかが。こいつらはほんとに、。
不思議だ。歳を取れば感情の起伏もなくなってくるものと思っていたが、むしろ涙もろくなったのではないだろうか。
1番も連続ヒットで出塁した。また大きくなる歓声、流れる汗、目の前で起きているのは闘志のぶつかり合いなはずなのに、どうしてここまで居心地が良いのだろうか。
2番バッターが引っ掛けてサードゴロとなった。しかしこれで2アウトランナー2、3塁。3番バッターの佐々木がバッターボックスへと向かう。一瞬こちらに振り返りなにやら言っていた。
彼の口は「まかせろ」と言っていた。
心配はしていなかった。きっと出塁するだろうから。心配なのはあいつがサヨナラを決めてしまわないかどうかだ。
カッ
これで12球目。必死の形相で佐々木はかなり粘っている。3ボール2ストライク。
こちらまで必死さが伝わってくる。そして
「ボールフォア!」
フォアボールで佐々木も出塁する。
まったく、私はやはり相当ついているのだな、と苦笑いしながらバッターボックスへ向かう。
最高の歓声は今までも受けてきた。期待されたプロ初打席、ペナントの優勝決定戦、メジャーリーグでの初打席、世界大会の決勝、色んな場面で浴びた大きな声は束となって私の背中を押す。今だってそうだった。スパイクの歯が土をサクッサクッと踏みながら私の通った場所に跡をつけていく。
ひとつ深呼吸をしてその場でジャンプをする。そのあと体を後ろに大きく反らしてバットを構えた。
その瞬間聞こえてくる音が自分の心拍音だけになった。あの日の、甲子園の決勝の時のように。
不意にゆっくりと足をあげるピッチャーに合わせてタイミングを取りバットを引く。
ひとつ外のボールを見逃した。
「ボール!」
涼しい風が汗に濡れたアンダーシャツをかすめて通り過ぎる。
続く球は大きく曲がりアウトローに決まりストライク。
やはり、野球というものは楽しい。私はこうしてこの場所で、ここまで野球を続けられて幸せだ。
続く3球目、あの日と全く同じフォームから繰り出されたボールがうなるようにこちらへ真っ直ぐ向かってくる。それを迷う事なく振り抜いた。
カーンッ
快音と共に打球はレフトへと伸びていく。走りながらあの時と同じように祈る。
伸びろ、伸びろ、。あの日届かなかったレフトスタンドへ。
あの日あの打球を捕球されて、私の高校生の夏は終わった。目の前にあったはずの勝利に手を届かせる事なく、膝をついて涙を流した。
あの時から長い年月が流れた。私はまだ高校の監督に言われた言葉を覚えている。
「捕りたいもんが目の前にあるんだろうがァ!!絶対逃すな!!」
もう逃さない。あの時とは違う。そして確信した。
その時には私の打球は、スタンドへと吸い込まれていた。
世界に音が戻り、今日最も大きな歓声が耳に流れ込んできた。気づけば私の右腕は高々と掲げられていた。
ゆっくりとベースを周り、自分の野球人生は最後へと近づいた。
そうして最後、ベースを踏んで野球にありがとう、と感謝を伝えた。
私の周りにみんなが泣きながら集まってくる。水をかけられながら、みんなで泣きながら笑った。
いくら野球が消えゆこうとも、全ての人から野球が完全に消えることはない。いつまで経っても私達の野球はここにある。
空には球場の照明にも負けず、北極星がいつまでも光っている。
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