19 毒薬

「だって、ユーフェ様、どなたか心に秘めた方がいられるでしょう?」

「えっ?」


 ネリの指摘にドキッとする。


「ヴィクトール様に優しくされることへの罪悪感……とでもいいましょうか。叶わない恋を諦めてきたかのような雰囲気をされるものですから、忘れられないお相手がいらっしゃるのかと思っておりましたわ」


 顔色も変えずにさらりとネリは言う。


 ヴィクトールにもユーフェが別の誰かの事を考えていると指摘されたが、ネリにまで言われてしまうとは。つくづくユーフェに密偵は向いていないと思った。


「……恋、とかそんなのじゃないのよ。助けてもらって、恩がある人がいるの」

「まあ、そうだったんですか。どのような御方なんですか?」

「そうね……。わたしとは釣り合わないくらい立派な方よ。それなのに、いつもわたしを気にかけてくれたわ」

「優しい方なのですね。ユーフェ様はその方に大切に思われていたのでしょう」


 ネリの感想にちょっと笑ってしまう。

 ヨハンを優しいと称する人なんて、ノクトが聞いたら失笑ものだろう。


「全然。彼にとっては大勢いるうちの一人よ。わたしなんていくらでも替えがきくの」

「でも、ユーフェ様にとってはかけがえのない一人なのでしょう?」

「……そうね」


 いろいろな意味で特別な相手だとは思う。


「では、ユーフェ様のお心を射止めようと思うなら、ヴィクトール様はその方を越えねばならないのですね。ふふ、強敵そうですわ」


 冗談めかしてネリは言い、横になるユーフェの肩まで毛布を引き上げてくれた。


「ユーフェ様、食欲はありますか?」

「……ううん。今はいいわ」

「では、もう少しお休みください。後ほど、果物か何かを運んでまいりますわ」

「ありがとう、ネリ」

「いいえ。私はいったん下がらせていただきますね」


 本調子ではないユーフェを気遣って下がってくれたようだが、一人きりでベッドに沈み込んだユーフェは複雑な心境になった。


(ヨハン様)


 ぎゅっと首から下げたペンダントを握りしめる。

 ネリに言った通り、ヨハンに抱いている感情は恋などではない。

 ヨハンは――ユーフェが迷った時の道しるべなのだ。苦しい時は彼に「拾ってもらった身なのだから」とやり過ごし、幸せな時は「わたしなんかが幸せになってはいけない」と戒める。聖女としての能力も低く、学や芸に優れているわけもなく、王家の血を引いていても認知すらされていないこの身はどこへ行っても役立たずなのだから、せめてヨハンに迷惑はかけたくはない。


 けれど、時々思う。

 わたしが死んだら、ヨハンは悲しんでくれるだろうか。残念だと思ってくれるだろうか。……ほんの少しでも罪悪感を抱いてくれるだろうか、と。


 ユーフェはカメオの裏側に爪を差し込んだ。

 誰も部屋にいないと分かっていながらもシーツの中で身体を丸め、小さなカメオのパーツを外す。


 この中には毒薬が入っているとノクトが言っていた。


 こんなところで死んだら大騒ぎになるだろう。いかにも怪しい人物でしたと白状しているようなものだ。ノクトがまだこの近辺にいたら彼の身も危ないかもしれない。頭ではわかっていても、心は救いを求めていた。


 中に入っていたのは――……


「……紙?」


 ノクトとのやり取りに使っている特殊な油紙が、爪ほどの大きさに折りたたまれて入っていた。いぶかしみながらも小さな紙を広げると。


『無事に帰っておいで』


 ヨハンの字だった。


 たった一言。

 ユーフェの弱い心を見透かしたかのような言葉だ。


 やっぱりヨハン様はひどい。ユーフェが追い詰められて、苦しんで、楽になりたいと思った瞬間に生かそうとする。簡単に楽になるなんて許さないと命じるのだ。疲れたからと自害して「さようなら」はできない。


 カメオの中には毒なんて入っていなかった。

 けれど、これはまさしくユーフェにとっての毒薬だ。苦しみながら生かされ続けるという、毒。



 結局、具合が悪かったせいで再び眠りに落ちてしまったらしい。

 ユーフェが目を覚ますと部屋の中はすっかり真っ暗になっていた。枕元には「よく眠っていらしたのでお声をかけませんでした。目が覚めたらお呼びくださいませ」とネリのメモとベルが置いてある。


 いつでも寝首を掻かれそうな状況下で寝こけてしまうなんてどうかしている。しかし、そのおかげで熱はすっかり引いていた。


(熱なんて久しぶりに出したかも)


 聖ポーリアの教護院にいた頃は体調が悪くなるとすぐに癒してもらえたため、寝込むことなんてほとんどなかったのだ。


(二十三時か……)


 朝食時に倒れ、目覚めた時には十四時くらいだった。そこからネリと話し、ぐずぐずとベッドの上で丸まり、気づけば食事を全然とっていない。とは言ってもこんな遅くに何かを食事を用意してもらうのも気が引ける。


(もうひと眠りしようかな)


 どうせ逃げ出すことは不可能なのだから。

 置いてあった水差しの水をごくごく飲み、再び横になろうとしたところで――ギッ、とベッドの軋む音が聞こえた。

 ユーフェのベッドではない。隣の、ヴィクトールの部屋のベッドだ。


「ヴィクトール様……?」


 在室しているのか。


 なぜか、焦ったようなヴィクトールから返事があった。


「あ、ああ、ユーフェ。起きたんだ」

「……?」


 水を注いだりして物音を立てているのだから、そんな「今気づきました」みたいな返事をされるのはおかしな気分だ。まさか、ユーフェが起きるのをずっと待っていたり……? ……なんて考えるのはやめよう。怖い。


(わたしが取るべき行動は、)

 逃げられない、ここに留まるしかない状況下で、ヴィクトールに逆らって生きるのはやはり得策ではない。


 それに、逃げようとしたところを先回りされてパニックに陥ったが、まだ彼が「ユーフェがスパイである」という証拠を握っているといる確証があるわけではない。ユーフェは息を吸った。


「あの、ご心配をおかけしてしまったようですみませんでした」


 ネリが言うには、ヴィクトールは眠っているユーフェに何度も謝っていたらしいから、ユーフェからも歩み寄っておくべきだろう。


「え? ああ、うん……」


 おざなりな返事と、はー……っと長い溜息が聞こえる。

 怒っているのだろうかと不安になったが。


「良かった……」

「え?」

「ユーフェ、もう俺と口をきいてくれないかと思ったから……」

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