20 真夜中の共犯者

「ユーフェ、もう俺と口をきいてくれないかと思ったから……」

「…………」


 変なの。


 冷たくしたり優しくしたり。

 いわゆる飴と鞭でこちらの精神を支配する気なのかもしれない。だが、おあいにく様だ。


(そういうのはヨハン様で慣れっこだもの)


 警戒は解かないまま、ユーフェは口を開いた。


「ヴィクトール様こそ、わたしのことなどお嫌いになったのでは?」

「まさか。求婚するくらい好きなんだよ?」


 まだ言うか。


「先日の件……。きちんと返事をしていませんでしたよね。わたしはその求婚をお受けすることはできません」

「どうして?」

「わたし、悪い子なんです。皇子様の婚約者になんてふさわしくありません」


 ドアの向こうで、ふはっ、と変な笑い声が漏れた。


「きみが本当に悪い子なら、ここは大喜びして俺に媚びを売る場面だと思うけど?」

「…………」

「ユーフェ、きみは良い子だよ」


 優しく、切ない声で彼は続ける。


「追い詰めるようなことをいっぱい言っちゃってごめん。悪いのは全部俺だから。だから、……結婚するって言ってくれなくてもいいから、俺のことは嫌いにならないで欲しい」


 顔が見えないからこそ、切羽詰まったような声はユーフェの心をどきりとさせた。


(騙されちゃダメ。適当に返事をしておくべきよ)


 返答を迷っていると、ユーフェの腹が小さく鳴った。

 空腹なのだ。ヴィクトールに聞こえていないといいけど……と思ったが、


「ユーフェ、お腹空いてるの? 朝からろくに食べていないもんね」


 ……ばっちりと聞こえていたらしい。


「ちょっと待ってね。誰か呼ぼう」

「えっ、いいですいいです! もう夜も遅いし、朝まで我慢できますから」

「でも……。あ、じゃあさ、一緒に悪いことをしない?」

「悪いこと?」


 部屋の中をヴィクトールが動き、ごそごそとやっている音が聞こえた。


「俺の部屋にチョコレートの箱があります。これ、一緒に食べちゃわない?」

「えー、こんな時間に⁉」


 夜遅くに食べるようなものじゃない。

 こつんと中扉がノックされた。


「部屋には入らないから、ちょっとだけ開けてもいい?」

「……。……いいですよ」


 ベッドから降りたユーフェはドアノブを回し、言われた通りにほんの少しだけドアを開けた。隙間から蓋の空いた小箱がにょきっと差し出される。


「俺も甘い物が食べたい気分なんだ。共犯者になってよ」


 共犯者か。確かにこんなに遅い時間に砂糖の塊みたいなお菓子を口にするなんて罪深い。

 だが、金の包装紙でひとつひとつキャンディのようにラッピングされたチョコレートはとても美味しそうに見えた。ヴィクトールに献上されるくらいなのだからさぞや高級品なのだろう。


「……じゃあ、ひとつだけ」


 そこから一粒摘まむとヴィクトールは手を引っ込め、再びドアが閉まる。

 すぐ側でかさかさとチョコレートの封を開ける音が聞こえてきたのでユーフェも倣った。


 もしもこれが毒入りチョコレートだったら?


(それでもいいか)


 ユーフェが楽に死ぬ方法はもうなくなってしまったのだから。諦めの気持ちで丸いチョコレートを口の中で溶かすと、こっくりと濃厚な甘さが広がる。とろけたチョコレートの中からはふわりとアルコールが漂った。


「チョコレートボンボンか。久しぶりに食べたな」

「わたしは初めて食べました」

「えっ、大丈夫? アルコールに弱かったりしない?」

「大丈夫ですが、結構お酒の風味が強いんですね」


 酒に弱くはないが、ブランデーの味わいは大人向きだ。


「本当に大丈夫? 気分が悪くなるようだったら言ってね」

「大丈夫ですよ。子どもじゃないんですから」

「そ、そうだよね、うん。そうだよね……」


 ぎこちなくヴィクトールが笑う。


 ほんの二日前までは和やかに会話をしていたのに、どんな風に笑い合っていたっけ。

 気まずい沈黙が流れる。


「……ごめんね」

「…………」

「きみを傷つけたなら何度でも謝るよ、だから……」

「もう、いいですよ」


 どうしてヴィクトールが必死に謝ってくるのか、ユーフェにはよくわからない。

 だが、こちらも痛い腹は探られたくないし、謝罪を突っぱね続けてまた彼の機嫌を損ねるのも怖い。


「この話、もうやめにしたいです。わたしはもう勝手に出て行こうとなんてしませんから、だからわたしのことも許してください」

「……うん、そうだね。俺はユーフェがここにいてくれるならそれでいいよ」


 ヴィクトールはあっさりと許してくれた。


「好きだよ、ユーフェ」


 あっさりと、いつも通りに愛を囁く。


「だから……。応えられませんってば」

「いいよ、それでも」


 どろどろに甘いチョコレートはユーフェの心を酩酊させた。

 扉一枚挟んで、背中合わせに会話をして。口の中は罪の味がする。



 ◇



 そうしてうやむやになって、結局ユーフェはこれまで通りの生活を送ることを許されてしまった。部屋は眠るときはヴィクトールの隣だが、それ以外の時間はもともと使っていた部屋で過ごしている。


 ユーフェと過ごす時間を捻出するためにヴィクトールは忙しそうだ。


 ノクトからの連絡も途絶えたまま。そうなると、機密を探ったところで伝える相手もいない。


 聖ポーリアにいた頃は護身術や医学、歴史については教護院で学んだものの、他の知識がないユーフェは、望めば講師が宛がわれて授業や展覧会に連れていかれる。運動不足だと思えば騎士団に行けば馬に乗せてもらえるし、書庫に行けば本がある。

 至れり尽くせりの暮らしに麻痺してしまいそうだった。そんなある日のこと。


 書庫で本を借りてきた(という口実で、例の隠し扉が封鎖されたままなのかをさりげなく確認しに行った)午後、部屋にいたユーフェを訪ねてきたのはネリだった。


「どうしたの、ネリ? お茶の準備をしてきてくれると言ってなかった?」


 ネリは手ぶらだ。

 そして気まずそうにもじもじとしている。


「も、申し訳ありません。あの、ユーフェ様、実は折り入ってご相談があるのですが……」

「相談?」


 ネリが口を開く前に部屋の扉が勢いよくバーンと開いた。

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