18 目覚めた側に


 瞼を開けると、ベッドの天蓋部分が目に入った。

 どうやら自分は部屋まで運ばれて寝かされているらしいと知る。


(あれ……、どうなったんだっけ……?)


 ぼんやりとした頭でヴィクトールとの食事の最中に転倒して気絶したことを思い出した。頭には包帯が巻かれている。

 視線を動かすと、ヴィクトールがすぐ側の椅子に座っていた。


(!)


 飛び起きそうになったが、彼は腕を組んで眠っていた。


(寝てる……)


 ほっとしたのも束の間。

 もぞりとユーフェが僅かに動いた衣擦れの音だけでヴィクトールは目を開けた。反射的にギクッと身を強張らせてしまう。


「ユーフェ! 良かった……!」


 感極まった顔でヴィクトールがユーフェの枕元に手をついた。


「痛いところはある? 話せる? ごめん、本当に、ごめんね……!」

「わ、たし」


 今にも抱き着いてきそうなヴィクトールから距離を置こうとベッドの中で後ずさる。


 上手く身体が言うことを聞いてくれず、ずり上がっただけくらいの動きしかできなかったが、顔を背けたユーフェの拒絶は伝わったらしい。ヴィクトールが悲しげな声を出した。


「ごめん、……俺、ちょっと虐めすぎたよね……」

「…………」

「ユーフェ」

「…………」

「俺とはもう口も聞きたくない?」


 叱られた子どものようにユーフェの顔色を窺われる。


 オロオロと狼狽える姿は演技のようには思えなかった。しかし、任務の事や保身も考えられず、ただただ喋りたくないと思ってしまう。

 もしもユーフェの態度が気に入らないのなら殺せばいい。そんな投げやりな気持ちだ。


 ヴィクトールはしばらく無言のまま部屋にいたが、

「……ごめん。人を、呼ぼう」

 やがて諦めたような顔をして出て行った。


 扉の閉まる音が聞こえてから、ようやくユーフェは緊張から解放される。


「ユーフェ様? お目覚めになられたと聞きましたが……」


 ヴィクトールと入れ違いにネリがやってきた。


「具合はどうです? 痛いところはございませんか?」


 持ってきたタオルなどを置き、ユーフェのためにグラスに水を注いで渡してくれる。てきぱきとしつつも優しい声音のネリに心が癒された。自分はいったいどうなってしまったのかと尋ねると、意識を失っていた間のことを教えてくれる。


「お医者様が言うには風邪と心労、それから、倒れた時に頭をぶつけたようでこぶが出来ています。なかなかお目覚めにならないので心配いたしましたわ。ヴィクトール様もひどく取り乱していらっしゃいました」

「……そう」


 自分でユーフェを追い詰めておいて、取り乱していたと言われても……。


 申し訳ないという気持ちにもなれずにそっけない返事をすると、ネリは苦笑した。


「お食事中に喧嘩でもされたのですか?」

「えっと、……まあ、そんなところ」


 喧嘩などという可愛らしいものではない。あんなのは尋問だ。

 思い出したくもない時間だが、先ほどのヴィクトールの話の中で気にかかっていたことがある。


「ねえ、ネリ。さっきヴィクトール様から聞いたんだけど、アレックス様が亡くなったって……本当……?」


 ネリはハッとしたような顔をして俯いた。


「ええ、そのようです」

「病死だって聞いたけど」

「……風邪をこじらせてそのまま、と伺っていますが……」


 ネリは躊躇いながら口を開いた。


「ここだけの話、私は罰が当たったんだと思っています。あの方、幼少期からヴィクトール様に刺客ばかり送って来たんですのよ。人を呪わば穴二つ、因果応報というものですわ」


 確証はないが、やはりアレックスは暗殺されたのではないだろうか。

 ネリはそう考えている節がある口調だった。ユーフェも同意見だ。だが、表立って口に出来るような話でもないため、少し会話の矛先を変える。


「ネリは昔からヴィクトール様のことを知っているのね」

「ええ。……こんな話はもう時効なのでさせていただきますけど、幼少期はヴィクトール様の婚約者候補だったんです、私」

「えっ⁉」


 ネリが侯爵令嬢だったという話は聞いていたが、まさか婚約者候補として名前が上がるほどの家系の娘だったとは。


「ど、どうして女中なんかに⁉」

「それはまあいろいろありまして……。ともかく、よくある政略結婚の相手として私の名前が挙がっただけなのです。ですが、ヴィクトール様にお会いしてすぐにこの方とは結婚できないと思いました」

「どうして?」


 前のめりに訊ねてしまう。


 貴族の令嬢が皇子の婚約者候補に選ばれるなんて、本来であれば名誉なことだろう。聖ポーリア国でもヨハンの婚約者選びは令嬢たちの大きな話題の的であったし、婚約者が決まっている今も隙あらばその座を奪いたいと思っている女性が大勢いたというのに。


「ヴィクトール様は素敵なお方ですわ。もしも結婚したとしてもきちんと愛情を注いでくださるでしょうし、何不自由ない生活を与えて下さるでしょう。……ですが、私には想い合う相手がいました。互いにこの人しかいないと思えるほどに燃え上がるほどの恋をしていたからこそ、ヴィクトール様が私を欠片も愛していらっしゃらないことも、この先それが変わることもないだろうということも察してしまったのです。婚約のお話は私から辞退致しました。両親は激怒しましたが……」


「まさか、それが原因で女中に?」


「原因というわけではありませんが、私は愛を貫き、侯爵家を勘当されたのです」


 ネリはどこか誇らしそうに胸を張った。


「そんな私をヴィクトール様は雇って下さいました。私は臣下として、心からヴィクトール様には幸せになっていただきたいと思っているんです。あの方はこれまで特定の女性と親しくなることはありませんでしたが、ユーフェ様のことはとても気にかけていらっしゃいます。デートに誘ったり、忙しい時間をやりくりしてまで時間を作ろうとしていらっしゃるなんて、これまでのヴィクトール様には考えられないことですわ。ですから、ユーフェ様ならヴィクトール様のお心を溶かせるのではないかと思ったのです」


 ネリまでヴィクトールとの結婚を進めてくるのか、と少しうんざりしてしまった。

 彼がユーフェに興味を持つのは恋愛感情ではなく諜報活動の一環だろう。


「あら? ユーフェ様は私の言うことが信じられませんか?」


「ええ。ヴィクトール様は多分、わたしのような女が珍しいだけだと思っているもの」


「そういうところですわ。簡単に靡かないところがヴィクトール様のお心に火をつけたのかもしれません。だって、ユーフェ様、どなたか心に秘めた方がいられるでしょう?」

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