15 逃亡

「…………ごめんなさい、ネリ。なんだか頭が痛くて……」


 二日後の夕刻、ユーフェは体調不良を訴えた。


 午前中はヴィクトールの部下に頼みこみ、久しぶりに馬に乗せてもらった。

 そして午後はネリにお願いをし、貴婦人らしい身の振る舞い方やマナーのレッスンを受けた。いくらでも講師をお呼びしますのにと言われたが、まだその水準に達していないから、「せめてヴィクトール様とお話して恥ずかしくない程度の簡単なマナーから教えて欲しい」と言って。とにかく丸一日を城内で過ごしたのだ。


 大張り切りでユーフェのマナーレッスンを引き受けてくれたネリは途端に心配そうな顔になった。


「も、申し訳ありません、ユーフェ様。私の教え方が拙いばかりに」


「違う違う! ネリは悪くないわよ! 午前は馬に乗ったし、なんだか疲れちゃったのかも……。少し横になっていてもいいかしら」


「もちろんでございます!」


 ウエストを絞ったドレスではなく、楽なワンピースに着替え、ユーフェはベッドに横になる。


「『今日は公務が忙しいから、お茶会は夕食の後に』ってヴィクトール様が言っていらしたでしょう? それまで休むことにするわね」


「お医者様をお呼びしましょうか?」


「平気平気! 眠っていれば治るわ! ヴィクトール様とのお茶の前に起こしてもらってもいい?」


「かしこまりました」


 従順なネリは下がった。

 午後のマナーレッスンのおかげで彼女も少し疲れているはず。


 今は午後五時――二時間程度はネリの目を誤魔化せる。

 城下の外に出る門が閉まるのは午後六時だ。


(よし)


 ネリが去った後、ユーフェは城に連れてこられるときに持っていた小さなカバンに着替えを詰めて脇に挟み、ショールを肩に巻いて隠した。


 見張りがいないことを確認して廊下に出る。


 書庫に何食わぬ顔をして入り、ヴィクトールが教えてくれた秘密の通路がある部屋の角へと向かった。地下道に入ってから着替え、城を脱出する算段だ。


(早くここから逃げ出したい)


 スパイとして送り込まれたのに何の有益な情報も掴めなかったなどと役立たずもいいところだが、このままここに居続けることはユーフェには耐えられなかった。


(ヴィクトールといるとおかしくなる)


 彼に誑し込まれ、いつかうっかり聖ポーリアの情報を漏らしてしまうのではないかと考えるとゾッとした。それだけではない。好きだよ、かわいい、側にいてと調子のいいことを言われ、侍女に傅かれて過ごすたびにおかしな勘違いをしそうになるのだ。

 このままここで暮らす方が幸せなのではないか、と。

 何も知らないふりでヴィクトールに甘やかされていたいと。

 ……ユーフェの心の中で悪魔が囁いてしまう。


(誰もいないし、こっちを見ている人もいない……。今だわ)


 ユーフェは板の色が違う部分をスライドさせようとした。だが。


(開かない⁉)


 ヴィクトールに教えてもらった隠し扉はびくともしなくなっていた。押しても引いても動かない。まるで反対側からつっかえ棒でもしてあるかのようだった。


 焦ったユーフェは辺りを見回す。


 ――窓。


 ここは書庫の奥だ。人目はない。今は下を歩いている人もいない。


(植え込みに飛び降りれば……)


 鍵を開け、窓枠に足をかける。


 身を乗り出したユーフェの腰を、が抱いた。



「――どこに行くつもりなの、ユーフェ」



 ヴィクトール。


 振り返らなくてもわかる。


 背後から抱きしめられたユーフェは掴んでいた窓枠から手を離した。身体は震えていた。彼は今、仕事中のはずだ。書庫にいるはずないのに。


「だめじゃないか。お忍びで遊びに行くつもりなら、ちゃんと俺も誘ってくれないと」


 普段通りの優しい声でヴィクトールは囁く。

 誤魔化さないと。

 そう思うのに顔が強張る。開かなかった隠し扉。ヴィクトールはユーフェが勝手にこの抜け道を使うだろうと予測していたのだ。だから、塞がれている。


「公務が少し早く終わったんだ。ユーフェさえ良ければお茶じゃなくて夕食を一緒にとらない? もちろん、その後にお茶もしよう」


 いつも通りの顔をされるのがいっそ恐ろしい。

 青ざめるユーフェの額にヴィクトールはキスを落とす。


「……どうしたの? が恋しくなって、魔が差しちゃった?」


 この人はいったいどこまでわかって言っているの。


 ぽと、とユーフェの脇から落ちた荷物を拾い上げ、ヴィクトールは窓に施錠した。


「どこにもいかないで」

「…………」

「俺を支えて。俺の側にいて。そういう約束だよね?」


 ヴィクトールは手の甲に唇を寄せた。

 ユーフェが誓いのキスを贈った箇所だ。


「きみが好きだから、この城に残ってくれるなら俺は何も聞かない。きみの心はいつも誰かに支配されているね。お兄さん? それとも恋人?」


「…………」


「ね、ユーフェは誰の側にいることを選ぶの?」


 今ここで。

 生き延びるための選択肢は一つしかない。


「……ヴィクトール様……」


 よくできましたと言わんばかりにヴィクトールはユーフェを抱きしめた。


「うん。そうして。俺を好きになってよ、ユーフェ」


 ヴィクトールはユーフェの素性にどこまで気づいているのだろうか。


 好きと言うのは嘘?

 ユーフェを情で絆そうとする罠?


 ただ一つわかるのは、今日はもう外に出ることは不可能で、ヨハンの元には帰れないということだ。

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