落込
職員室から出ていく長峡仁衛。
何時もの様に歩きながら帰っていると。
銀鏡小綿の姿が見えた。
銀髪を三つ編みにして、根本で結んで輪っかの様にしている女性など、彼女以外に居ないだろう。
長峡仁衛は、銀鏡小綿に声を掛ける。
「小綿」
その声を受けた銀鏡小綿は肩を震わせた。
そして振り向き、長峡仁衛の顔を見る。
「あ…じ、じんさん」
彼女は既に乙女の様だった。
恥じらいを抱き、愛する人が傍に居るだけで舞い上がってしまう様な、心を持っている。
そんな彼女の仕草は、乙女心など知らぬ長峡仁衛からすれば、怯えている女性の様に見えた。
「あぁ、いや、ごめんな。急に声を掛けて」
長峡仁衛は少し悲しそうな表情をしながら、銀鏡小綿に言う。
一緒に帰ろうと思ったけれど、やはり、銀鏡小綿は長峡仁衛を避けている様に見える。
大切な家族から、その様な反応をされると、長峡仁衛は少し、寂しそうな表情を浮かべる。
悲しそう、というよりかは、傷ついている様に見えた。
彼女が、長峡仁衛を必要としていないのならば、それはそれで良い事なのかも知れないと、長峡仁衛は頷く。
ただ、大切な家族が、自分は居なくても良いと、この世を去る、などと言った、台詞を吐くよりかは、断然に、良い事ではある。
「じゃあ、先に帰るから」
長峡仁衛はそう言って、一人足早く、銀鏡小綿から離れる様に歩き出した。
「あ…」
銀鏡小綿は、長峡仁衛の背中を見て、手を伸ばした。
声を掛けて、長峡仁衛と共に帰ろうと思ったが…しかし、熱によって溶けた声では、長峡仁衛には響かない。
胸に手を添えて、銀鏡小綿は、風邪に魘されるかの様に、体中がジンジンと熱くなっていた。
「(いつも通りであろうとしているのに…じんさんが前に立つと、どうして、こうも、体が思う様に行かない…私は、壊れてしまったのでしょうか)」
その様に心配をする銀鏡小綿。
長峡仁衛の母親である事こそが、銀鏡小綿の人生、その全てである筈なのに。
「(相談、しようにも…じんさんには、それが出来ない…どうすれば)」
そう、思いつめる銀鏡小綿。
また、歩き出して、黄金ヶ丘邸へと、足を速めた。
自宅に到着して、銀鏡小綿は、辰喰ロロと共に料理の準備を行う。
テキパキと手を動かす辰喰ロロ。
銀鏡小綿も、何も考えずに、辰喰ロロの手伝いを行う。
そして、料理が出来ると、それぞれ、自室にいる黄金ヶ丘クインと長峡仁衛を呼んだ。
そこで、夕飯が振舞われる事になるのだが…其処は、なんとも静かな時間だった。
食堂の中は静かだった。
誰も、会話など口にせず、料理を口に運んで舌鼓を打つ。
静謐の最中に、長峡仁衛は、無心になって料理を口に運ぶ。
「…はぁ」
少しずつ、長峡仁衛の気力が削がれていくように見えた。
食べる事など止めてしまいそうな程に食欲が湧いていない。
「…」
辰喰ロロは、そんな長峡仁衛を注視している。
何時もとは様子が違うから、長峡仁衛の行動がつい目に入ってしまう様子だった。
「…」
呆然としながら、長峡仁衛はスプーンに掬ったスープを口に運ぶ寸前で、スプーンを傾けてスープを溢す。
「…あ、熱ッ」
我に返り、長峡仁衛がその様に口を漏らすと、食堂の傍に立っていた辰喰ロロがいち早く、長峡仁衛の傍に寄ると、濡れたハンカチで長峡仁衛が溢したスープを拭う。
「大丈夫か?…火傷してるかも知れないな」
「あ。いや…其処までは」
長峡仁衛は大丈夫だと言うが、辰喰ロロは長峡仁衛を立たせる。
「服を脱げ、新しい服を用意するからな…言っておくが、これは私の仕事だ。ケチをつけんなよ」
辰喰ロロは、半ば無理矢理、長峡仁衛を椅子から立たせると、食堂から長峡仁衛を連れ出した。
そして、食堂の中には、銀鏡庫wたあと、黄金ヶ丘クインの二人が、静かに料理を口にしている。
「銀鏡さん、少し宜しいですか?」
にこやかな笑みを浮かべながら、黄金ヶ丘クインは銀鏡小綿を呼ぶ。
その声に、銀鏡小綿は振り向いて、彼女の方を見詰めた。
「あの。私は…」
「兄様の事で話があるのです。ご一緒して頂けますね?」
その言葉に、銀鏡小綿は逃れる事は出来ない。
ゆっくりと頭を縦に振って、銀鏡小綿は頷いた。
彼女の後ろに付いていき、銀鏡小綿は黄金ヶ丘クインと共に部屋に入る。
其処は、彼女の自室などでは無かった。
この町中に設置された監視カメラの映像が流れているモニタールーム。
其処に、黄金ヶ丘クインは、銀鏡小綿を招いたのだった。
「貴方が何故、此処に呼ばれたか、分かりますか?」
黄金ヶ丘クインは銀鏡小綿に聞くと、彼女はどうして呼ばれたのかを考える。
「…じんさん、の事ですか?」
銀鏡小綿は、黄金ヶ丘クインが彼女を呼んだ理由があるとすれば、長峡仁衛関連だろうと確信していう。
その言葉に、黄金ヶ丘クインは頷いて、椅子に座ると、銀鏡小綿に告げる。
「銀鏡さん、もう、兄様に関わるのは止めて下さい」
と。
黄金ヶ丘クインは、銀鏡小綿にそう告げた。
その言葉を聞いた銀鏡小綿は、瞳を開いて、騒然とした表情を浮かべていた。
黄金ヶ丘クインには見えている。
長峡仁衛と銀鏡小綿の関係性がどの様に変わっているのか。
彼女は理解出来ている。
兄妹としての関係以上に、黄金ヶ丘クインは長峡仁衛を愛している。
自分の役割を奪った相手である銀鏡小綿に、黄金ヶ丘クインは誰よりも観察している。
だから、黄金ヶ丘クインは、二人の事を、深く知っている。
「貴方が、兄様を拒絶するのは別に良い事です。貴方が居なくなれば、私が兄様を寵愛します…ですが」
銀鏡小綿が消えても。
その代わりを、黄金ヶ丘クインが出来ると確信しているが、しかし。
「身の振り方と言うものを考えて下さい、普通に振舞う兄様は傷ついているのですよ…貴方が何をしたかは知りませんが…兄様を悲しませる真似だけはしないで下さい」
銀鏡小綿の行動で傷ついた長峡仁衛。
その傷を癒せるのは、他でもない、銀鏡小綿しかいない。
「私は、その様な真似など…」
「してないと?本当に言えますか?では…兄様が本日、何処に居たのか、分かりますか?」
何時もならば、長峡仁衛の傍に居て、四六時中付き従う銀鏡小綿。
しかし、今では、長峡仁衛が何処に居たのか、把握すら出来ていない。
「…いえ」
黄金ヶ丘クインは神胤を放出する。
このモニタールームは彼女の発生させる神胤に直結して、自在に動かす事が出来る。
映像に映し出されるのは、海辺で昼寝をする長峡仁衛の姿だった。
「兄様は、本日は海に向かっていました。海岸で気力も無く、海辺を見詰めていて、お休みをしていたのです…これがどういう事か…兄様はやつれているのですよ?」
黄金ヶ丘クインは、幼少の頃の長峡仁衛を知っている。
自分の事などどうでも良くて、他の人間に興味がある様な人間だ。
言い換えれば、自分よりも誰かを優先する人間だった。
「兄様は昔から、誰かを大切にして、自分は大切にしない、そんな無頓着な人間なのです…そんな兄様は、誰かが居なければ生きる事は難しい…その役目を、貴方が担っていたのでは無くて?」
傍に居なければ、長峡仁衛は一人では生きられない。
「私…は」
銀鏡小綿は、承知していただろう。
承知していたうえで、長峡仁衛の傍に居る役割を投げ捨てていた。
「それが出来ないのならば、兄様の傍に居る資格などありません。即刻、離れて頂きたいと、私は願います」
黄金ヶ丘クインの正論に、銀鏡小綿は黙る。
けれど、彼女の言葉は半分は本心であり、もう半分は、発破であった。
「それが嫌ならば…早急に、話をして下さい、兄様には、…あな、ッ…貴方が必要なのですから」
何よりも。
長峡仁衛の悲しむ姿は見たくないと思う黄金ヶ丘クイン。
今、彼に必要なのは、銀鏡小綿なのだ。
その言葉を与えて、銀鏡小綿に行動を起こさせる。
中庭で長峡仁衛は屋敷の壁側に背を預けて、空を眺める。
呆然と青空を眺めている長峡仁衛に、扉が開き、歩く音が聞こえて来る。
そして、メイド服の女性が、長峡仁衛の姿を見ていた。
「火傷はしてなかったか?」
辰喰ロロだ。
口元には煙草を銜えている。
長峡仁衛に新しいズボンを与えた彼女は、一服の為に屋敷の外に出ていた。
煙草を唇から離して、反応を伺う。
「…あぁ、辰喰。俺は、大丈夫だよ」
彼女の姿を確認して、長峡仁衛は溜息を吐いた。
「なんだよ。そんな溜息なんか吐いてよ」
失礼な奴だと、辰喰ロロは思った。
「いや…まあ、小綿の事だけど、さ」
話を始める。
これは愚痴だと辰喰ロロは思った。
「あぁ…なんだか、お前の傍に居ると様子がおかしいよな」
銀鏡小綿の事を思い出す。
動向が少しおかしいと思っていた。
「うん…」
辰喰ロロは長峡仁衛に言う。
「確信出来る事を言ってやろうか?女の目線だからこそ分かる事なんだがな…」
その言葉に長峡仁衛は首を左右に振って耳に入れない様にする。
「いや、いい、聞きたくない」
だが、辰喰ロロの言葉は長峡仁衛の耳に入る。
「ありゃあ、明らかにお前を省いてるぜ…はは、お前、嫌われたなぁ」
女同士。
長峡仁衛が距離を取られている。
辰喰ロロからすれば、その様に映る。
しかし、それは、銀鏡小綿が好意的にしているに過ぎない。
案外、的外れな目をしている辰喰ロロであった。
「あー…言うな言うなッ、聞きたくない事をッ」
落ち込む長峡仁衛。
「はッ…まあ、いいじゃねぇかよ。お前と銀鏡、家族なんだろ?」
辰喰ロロはそう言った。
長峡仁衛は頷く。
「家族だよ…母親である小綿を俺は好いている」
長峡仁衛の言葉をスルーしようとするが。
いや、やはり出来る事ではなかった。
「はぁん…お前気持ち悪いな…」
言葉に傷つく。
嫌そうな目をして、長峡仁衛は辰喰ロロを見詰める。
「引くなら言うなよ」
「引くから答えんなよ」
即座に辰喰ロロは返した。
その返しに、長峡仁衛は言い返そうとして、諦め溜息を再び吐く。
「はぁ…どうでもいいよ、もうさ」
本気で落ち込む長峡仁衛に、辰喰ロロは背中を思い切り叩いた。
「そんなに落ち込むなって、ホラ、良く言うだろ?女ってのは星の数程居るんだからよ、すっぱり諦めちまえ」
また新しい出会いを見つければ良いと、辰喰ロロは言うが。
「確かに、星の数程居るとは聞くけど…小綿って言う星は一つだけなんだぞ?」
長峡仁衛にとって、銀鏡小綿の様な人間は一人しかにいない。
中々に、次の恋をする、と言う事など、出来る筈が無い。
「はっ…ロマンチストな事言いやがって、どうでもいいけどさっさと飯食いに行けよ。お前が喰わないと皿が下げられないんだからよ」
いよいよ面倒臭くなった辰喰ロロ。
いい加減に、ニコチンの摂取をしたくなっていた。
「…あぁ、分かった」
長峡仁衛が離れようとする。
口に煙草を銜える辰喰ロロは、長峡仁衛を見ながら言う。
「ついでに言うと、このスペースは私のサボり場だ。未成年は私の傍に居ちゃ行けないぜ」
そう言って煙草に火を点す。
「お前も未成年だろ、十九歳」
長峡仁衛は矛盾している事を口にするが。
「祓ヰ師が社会の規則を守るワケないだろ」
そう言った。
祓ヰ師は基本的に人権が該当しない。
死者として扱われている。
だから、社会の法の大部分を免れていた。
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