約束

傷一つ付かなかった彼女が、長峡仁衛を前にして初めて傷をつけた。

首元に出来た痣、それ以外にも、霊山柩の首元には縫い跡が残っている。


「おい、大丈夫か?」


長峡仁衛がそう言って霊山柩の方によって彼女を抱き抱える。

彼女は反応しなかった、どうやら気絶しているらしいと長峡仁衛は思った。


「(不味いな、此処には畏霊が出るって言うのに…)」


長峡仁衛は霊山柩が手放した地図を確認した。


「(この地図、穴って書いてあるのが、さっき俺たちが出て来た迷宮の入り口か…『安全地帯』?…地図に描いてあるって事は、其処が畏霊の出ない場所って事か?)」


長峡仁衛は地図を確認して、顔を上にあげる。

教室の扉が並ぶ最中、扉の上にぶら下がる小さな看板を確認した。


「(ここが穴、現在地だったら、少し歩いた先に保健室があるな…其処まで彼女を運ぼう)」


長峡仁衛はそう決めて、霊山柩を背負った状態で、保健室へと向かった。


保健室に入ると、廊下の異様な空気とは違い、清潔感を感じる、さっぱりとした雰囲気を感じる長峡仁衛。

彼女を背負ったまま、ベッドの上に霊山柩を寝かせた。


「(これで、ある程度時間が掛かったら起きてくれる事を願おう…さて、安全地帯、現代風な場所だけど、何か生活品とかないかな?)」


長峡仁衛は保健室の棚などを開いて中を確認する。

棚からは、タンクトップと学生用のシャツが出て来た。

戦場の迷宮では、長峡仁衛の衣服は爆破によって破れてしまった。

だから、長峡仁衛の服装は上半身が裸であり、ジーンズも爆風によって裾が焼け焦げていた。


「(ズボン…もあるな、着替えておくか)」


長峡仁衛は自分に合ったサイズの学生服を取り出して着替え直す。

タンクトップとシャツを羽織って、長峡仁衛はパリッとした新鮮さがある衣服を着込んだ。


「(やっぱり、新品は良いなぁ…気持ちの切り替えって言うか、うまく言えないけど、なんだか良いんだよな)」


長峡仁衛は安堵を浮かべながら更に棚を確認する。

冷蔵庫の中にはミネラルウォーターが置かれてあった。

一本を取り出して長峡仁衛は水を喉奥に流し込む。


「くはっ…生き返る、いや、本当に」


口元の端から垂れる水を手の甲で拭いながら、戸棚を確認すると、ダンボールを発見する。

中を確認すると、缶詰が入っていた。


「流石、安全地帯。栄養補給も万全って所か」


無限廻廊では祓ヰ師が度々入って来るので、ある程度の補給品を各迷宮に置いている。

長峡仁衛は缶詰を開いて食事を開始する。


「…」


桃の缶詰を食べながら、久方ぶりに食べる甘味に舌鼓を打った。


「(…帰りてぇなぁ)」


長峡仁衛は、何事も銀鏡小綿の手料理を思い浮かべていた。

最早、彼女の料理でなければ長峡仁衛は満たされないらしい。


ベッドの上に横たわる長峡仁衛。

休息が必要だろう、疲弊した体を癒す為に、長峡仁衛は目を瞑り、回復を待つ。


「(もう少し、もう少しで…戻れる、小綿の元に帰れる)」


長峡仁衛はそんな事を考えながら、眠りに付いた。

睡眠中、長峡仁衛の息は苦しく声が漏れる。

嫌な夢でも見ているのだろう、それは、長峡仁衛が尤も辛かった環境であった頃の記憶だった。


夢の中、…記憶の中。

長峡仁衛は追体験を行う。

痛みと恐怖、泣き叫ぶ声と、淫蕩に満ちた瞳が、彼を見詰めていた。

衣服を脱ぎ捨て、裸となる女性が、小さな長峡仁衛の体を抱き締めている。


無理矢理に硬直させた長峡仁衛の男根を無理矢理自らの中に挿し込ませて彩を帯びた声を撒き散らす…。


長峡仁衛はすすり泣いて声を殺す。

叫べば気分が削がれる、暴力を振るわれる、何よりも…彼女を否定する事で、嫌われる事を恐れた。


行為は一時間程、それ以上に掛かる事があれば、それ以下で収まる事もある。

それが終われば、何時もの彼女に戻る。だから長峡仁衛は受け入れた。

そうする事で、家族に戻ってくれるのならば、それで良いと、思っていたから。


『封緘したモノが悪かった』

『あんな無能でも、役立つ事がある』

『彼女を治める為の供物とさせるのだ』


霊山家の人間はその様な会話を独り言の様にか細く話し合う。

子供に聞かせる様な話ではない事くらいは理解しているのだろう。

傍に居た長峡仁衛は、その言葉を聞いても、ワケの分からない内容だった。


ただ、彼女は病気なのだと、そう思った。

病気は何れ治るものだと、思っていた。


大切な家族は居る。

血の繋がりを持つ者たちが傍に在る。

けれど、長峡仁衛は孤独を感じた。


自分は、一人なのだと、そう思っていた。

そんな時、長峡仁衛は霊山家の討伐部隊の帰省に立ち会った。


長峡仁衛の母親が筆頭する、霊山家最強の畏霊討伐部隊。

この世界に対して反抗を持つ異世界の人物・転生者や、神格を落とし、高天原から追放された『不従万神まつろわぬかみ』を、少数で祓う事が出来る極めて少ない戦闘部隊。

長峡仁衛の母親は、霊山家に置いて指で数える程しか居ない、単独で『不従万神』を祓う事が出来る『祓巫女ふつのみこ』であった。


その遠征では、転生者の集団を捕らえたらしい。

複数の転生者が注連縄の様な手錠で繋がれて屋敷に入っていく。

基本的に捕らえた転生者は封緘するか、保護と言う名目で霊山家に従属させるのだ。

殆どの転生者は、誇りを以て自害をしたり、封緘と言う道を選ぶ為、従属する者は極端に少ない。


長峡仁衛は、母親の凱旋を見届けた後に…彼女と出会った。

捕らえた転生者から逃げ出したのだろう。銀色の髪を持つ少女が倒れていた。

長峡仁衛は…彼女を拾った。そして、自らの家で、介抱したのだ。

理由など無い。ただ可哀そうだから、そんな理由で彼女を助けたのだ。


それが、長峡仁衛の運命を別つ行為であった事は、幼い頃の彼は知らない。


燃え盛る火の最中。幼少の頃の長峡仁衛は目が覚める。

煙が肺に入って噎せ返り、周囲を見回す。


長峡仁衛の目の前に、母親が居た。

巫女服を着込んだ、白色の髪を持つ、盲目の女性。

美麗さが目立つ彼女の胸元には、小さな穴が出来ていた。

その穴からは、血が溢れて、白い着物を赤く濡らしている。


手を伸ばして、長峡仁衛の頬に触れる。

彼女は、悲しそうな表情を浮かべて、涙を流した。


『ごめんなさい…ごめん、なさい、貴方は、悪く無い、誰も、悪いのは…』


口を開き、声を漏らして、長峡仁衛の母親は死亡した。

燃え盛る火の中、長峡仁衛は声を漏らす、母親が死んだ事実が、じんわりと彼の首元から頭に登っていく。

死んだ。血の繋がりを持つ母親が、死んだのだ。

長峡仁衛は、涙を流した。…そして、燃え盛る炎の中。

長峡仁衛の視界には、一人の少女の姿があった。


色は分からない、けれど、長峡仁衛と歳は近いのか、子供の様な姿だった。

煙が充満して、長峡仁衛には何も見えない、意識が昏倒し、長峡仁衛は火の中で倒れた。


…次に目を覚ました時。

既に、長峡仁衛の母親の通夜が終わっていた。

火葬されずに、無限廻廊の最奥へと保管された彼女の母親。


長峡仁衛は、肉身が死に、一人となった。


『残ったのは、穢れた血の子か』

『忌々しい…クズが死ねば良かったのだ』

『追放するべきだ、いっそ、殺すか』

『止せ、万が一がある。霊山家の術式が…【祓巫女】と同じ術式が開花する可能性がある』

『タダ飯喰らいとして生かすか、疫病神めが』


長峡仁衛は、何処までも一人だ。

布団の中から聞こえる人々の声に、長峡仁衛は涙した。

どうして自分だけは家族になれないのだろう。

どうして、自分だけが、一人ぼっちなのだろう。


孤独が長峡仁衛を包み込む。

此処から先、彼を守ってくれる人間は居ないだろうと思った。


『…はじめ、まして』


けれど。

一人だけ。

長峡仁衛の前に、看病をしてくれる子が居た。


『わたし、は…しろみ、です』


長峡仁衛の傍に座り、彼の頭を撫でる少女。


『きょうから、わたしが、あなたの、ははに、なります』


たどたどしい言葉で、必死になって、銀鏡はそう言った。

誰も、長峡仁衛の傍になど居てくれなかった。

肉身ですらない、血の繋がりなどどこにもない彼女だけが、長峡仁衛の世話をしてくれる。


『はは、は…、じんさんの、に、いのちを、すくわれ、ました、ので…はは、は。じんさんの、ははの、かわりに、なります』


小さな約束。

長峡仁衛は、寂しさを紛らわす為に、彼女を傍に置いた。

それが、どれ程救われた事だったか、長峡仁衛は、感謝をしても、しきれない。


そんな記憶を…長峡仁衛は、今まで忘れていた。

思い出すまで、彼女が傍に居る事が当たり前だと思っていた。

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