出発


「仁衛さん…本当に、戻られるのですか?」


名残惜しむ声が、長峡仁衛の耳に届く。

自然を前に建てられた豪邸、それを背景にしながら、長峡仁衛の前に立つ少女の姿がある。

紫陽花の様な黒髪。腰元まで伸びた長髪。

軽く巻かれた髪の毛が、左右に揺れた。

紫水晶の様な瞳が、長峡仁衛を見詰めている。


「あぁ…帰って来いって言われたから帰らないと、じゃないと、どうなるか分からないからね」


長峡仁衛は、先日の話を脳裏に浮かばせながら思った。

結果的に言えば…長峡仁衛は術式を開花させた。

その力は強大であり、一つ間違えれば、一人で軍隊とも戦える程の絶大な力を所持する事になる。

長峡仁衛の能力を嗅ぎ付けた霊山家の暗部が、その詳細を現当主に語った所、こうして長峡仁衛は実家へ強制送還される事となった。

現当主の意向に、長峡仁衛は逆らう事が出来ず、こうして召還に応じている。

不満を持つのは、長峡仁衛の身柄を買った少女だった。


黄金ヶ丘こがねがおかクイン。

現代では退廃となりつつある五大行家。

陰陽師から直伝された陰陽五行の一角を預け賜り、『金』の術式を持つ黄金ヶ丘家の現当主。

術式を開花する事無く、無能として称された彼を買ったのは、他でもない彼女だ。

慈善による行動ではない。元より、長峡仁衛と黄金ヶ丘クインは知り合いだ。

幼い頃に出会い、そして黄金ヶ丘クインはその時から長峡仁衛に恋をしていた。

長年別れ離れとなっていた二人、彼女は漸く、長峡仁衛を自分のものに出来たと確信していた。

だが、術式が開花させた事により、長峡仁衛が離れてしまうと言う事実が受け入れられない。


「…嫌です」


その別れは二人の関係を裂くものだと黄金ヶ丘クインは思った。

折角、寄付金として、長峡仁衛の身柄を買収し、多額の金銭を霊山家へと送った。

それなのに、長峡仁衛を霊山家に戻せと言う暴挙。

腹立たしい事この上無く、黄金ヶ丘クインは悔しい思いをしながら拳を強く握り締める。

薄桜色の唇が震えながら、長峡仁衛とは別れたくないと言う意志を感じるか細い言葉が漏れ出した。


昂る感情が次第に涙となって瞳から流れ出る。

一筋の透明な雫が彼女の頬を通ると、身分も立場も忘れて、長峡仁衛の傍により、その体を強く抱き締めた。


「行かないで下さい、仁衛さん。…いえ、兄様」


兄様。

その呼び方は、幼少の頃に黄金ヶ丘クインが長峡仁衛が呼んでいた呼び方だ。

黄金ヶ丘家は、霊山家と利害関係で結ばれた仕事仲間。

その付き合いは長く、当時の黄金ヶ丘家当主は、幼少期の長峡仁衛の身柄を一度、黄金ヶ丘家へ引き取った事がある。

度重なる暴力。虐待とすら思えない少年の責め苦に苦言を漏らし、身柄を引き取ったと聞く。

その時に、長峡仁衛と黄金ヶ丘クインは出会っていた。


長峡仁衛は幼少の頃の記憶はあまり覚えていない。

精神を崩壊させる程の虐待と恐怖を思い出させない為に、自己防衛として忘れていた。


なので、黄金ヶ丘クインとは、あまり幼少の頃の記憶が薄れていた。


「兄様って…確かに、過去にお世話になった事はあるけどさ」


黄金ヶ丘クインは、顔を上げる。

愛しい人の顔を見詰めた。

灰色の髪に、灰色の目。

霊山家で鍛え上げた屈指の筋肉が、黄金ヶ丘クインを抱き留めている。


「此処で、平和に暮らすべきなのです。兄様さえ居れば、例え誰が相手でも、私は守って見せます。だから、どうか…行かないでください」


必死の願い。

それでも、長峡仁衛は首を左右に振る。


「いいや…それは、無理だ」


彼女の元から、長峡仁衛は離れようとする。

これ以上、彼女に世話になってはならない、甘えてはならないと思い、表情を作る。


「霊山家は、危なっかしいからなぁ…危険な目には遭わせる事は出来ないよ…それに」


長峡仁衛は目を細めて笑った。


「また戻って来るからさ」


長峡仁衛は、彼女に約束する様にそう言った。


「だから、俺の家族を頼んだ」


家族。

そう言って、長峡仁衛は視線を奥の方へと向ける。

真っ白な肌に、銀髪を三つ編みにしてまとめた、翡翠の瞳を持つ女性が、長峡仁衛を見ていた。


「じんさん」


銀鏡しろみ小綿こわた

それが彼女の名前だった。

銀鏡小綿は、長峡仁衛を愛称として呼んで近づく。

彼女は、長峡仁衛にとって心の支えとなる人物。


「また戻って来る、だから、待っててくれ」


長峡仁衛の言葉に、銀鏡小綿は頷く。


「はい、了解しました。ですので、必ず、生きて戻って下さい。貴方が居なければ、母は存在する意味など無いのですから」


彼女、銀鏡小綿は、長峡仁衛に拾われた存在だ。

幼少期の頃から、長峡仁衛の母親代わりとして生きて来た。

長峡仁衛が勘当されて追放されても、それでも、彼女だけは長峡仁衛の後を追って来てくれた。

掛け替えのない家族に、長峡仁衛は手を伸ばして頬を触れる。


「帰って来るよ。心配しないでくれ」


「もし帰って来なければ…こちらから、貴方の元へ向かいます」


心配性な母親代わりな幼馴染に、長峡仁衛は頷くと、その手を離す。

そしていよいよ、長峡仁衛は旅路に着く。


「じゃあ、行って来る」


それを残して、長峡仁衛は豪邸から出て行った。

霊山家へと向かい、決着をつける為に、だ。

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