叶夢日記

 どうやら叶夢は夢日記を付け始めたらしい。

 そして叶夢の部屋のベッドの枕元に放置されている“夢日記”と表紙に書かれたB5ノートを手に取っている。もちろん叶夢には無断で。

 噂で聞いた、夢日記による現実と夢の区別が付かなくなる現象、果たして元から狂っているような叶夢はさらにおかしくなるのか、そして叶夢の見る夢が素直に気になり日記を手に取るまでに至った。

 表紙をめくれば当然ながら最初のページから日記が綴られている。


 12月14日

 久々に夢というものを見た。夢日記を枕元に置いてからだいたい3週間が経過している。あまり夢を見る体質で無いにせよ、遅すぎるような気もする。

 印象の悪い夢だった。学校の教室の中、嫌な静寂の中でひとりで机に向かっている。

 時間を確認しようと黒板の上に掛けられている時計を見ようとするも、そこには時計を掛けるための釘が一本刺さっているのみで肝心の時計は無い。スマホも腕時計もなく、分かるのは日が傾き、空が赤らんでくる夕方辺りであるということだけ。机に目を向ければ化学の教材が隙間なく広げられていた。

 まさか夢の中でも、それも何年ぶりに勉強をする事になるとは思いもよらなかった、まだ化学なだけマシなのだろうか、仮にこれが古文であると想像してみるとなんと恐ろしいことか。

 他にすることもないからという訳でペンを取り白紙のルーズリーフに無機の金属イオンの分離の図を、その横に薬品と、それによって沈澱する物質の語呂合わせを書き込むことを繰り返す。不思議と覚えているもので、一通り書き終わってから確認してみれば9割方正しく書けていた。が、書けはしたものの書いた後の身体には当時のような愉しみは湧き起こらず、ただただ疲労感とつまらなさが残るのみだった。当時からの友人から呼ばれた“生粋の化学狂い”の名が廃る。という気は起きたものの、それをばねにできるだけの反骨精神も残っていなかった。

 卒業してから勉強が嫌いになりかける、不思議な夢であった。



 日記を読み終えると靄のような輪郭の掴めない、不思議な感情が心に現れる。一行に小さな文字でびっしりと書かれた、ページの半分にも満たない文章には十数年間横で見てきた叶夢の印象とはかけ離れていた。奇行奇言ばかりを繰り返している叶夢の頭を開いてみれば極彩色の流動する純度100パーセントの叶夢ワールドが広がっているものだとばかり思っていた。しかしこの日記に描かれていた叶夢はどこか遠くをぼんやりと眺めるような憂鬱さを帯びていた。

 12月14日の日記の下にはかなりのスペースが空いていたが特に記述は無く、ページを捲る。捲った先には当然ながら別の日の日記が書かれていた。


 1月23日

 夢を見た。ここに筆を走らせているなら当然か。

 こぽぽ、とプールに潜ったまま息を吐いた時のような音で一気に視界が開ける。そこは途方もなく広がる海であった。

 ここが海中だと気づいた瞬間に体は酸素を求めてゆらゆらとなびくカーテンと平行に、水面めがけ全力で、平泳ぎの形で水を掻く。どれだけ藻搔いたかは覚えていないが、現実であれば間違いなく死んでしまうであろう時間が過ぎた頃にようやく脳は今自分の身体が全く苦しくないことに気付く。

 落ち着いた頭は自らの周囲に魚を、海底を、サンゴ礁を、そして錆びつき朽ちた沈没船を生み出した。

 海中をゆらゆらと漂う、その行為だけで体にこもった錘が解けて海に溶けてゆくような心地がする。


 さらに潜って海底、とは言っても十分日の光が届く場所に鎮座する沈没船を目前に控える。沈没船と言われれば海賊船や豪華客船をイメージするかも知れないが、目の前に佇むソレには艦橋や煙突の他に砲であろう構造物の残骸が見えた、それは軍艦であった。

 そして舷側に空いた穴が沈没の決定打となったのであろう。かつて広大な海を自らの手中に収めるべく人間の造り上げた技術の結晶が3発、もしくはそれ以上の砲弾やら魚雷やらで呆気なく沈み、今では原住民である魚たちが我が物顔で出入りしている様は有為転変だとかの小難しい単語で表現するにはぴったりの状況であった。

 沈没船から出てくる魚を観察していると不意に空が暗くなった。何事かと上を見上げるとマンタが群れを成して泳いでいた。

 黒く不気味に映る何十匹もの影が自然の偉大さのようなものを心の奥底に植え付ける。

 あまりの迫力に、群れが遥か彼方へと去って行ってもなお、私は口をぽっかりと開けて呆然としていた。

 呆然としたまましばらくすると、次は何百匹にも及ぶ小魚たちの群れが私を囲み始める。

 生きていながらもまるで生気を感じさせないその何百もの目は、私はここにいてはいけないと暗示するように蠢き、どうしようもない恐怖が全身を埋め尽くす。

 思わず小さくなって目を閉じ、耳を塞いで祈るしかなかった。


 目を開けた時には、私は現実へと戻って来ていた。心地良かった夢が一転して恐怖そのものへと変わってしまった事がとても怖かった。

 意識がはっきりと覚めた今思い出しても背筋に冷たいものが走る。



 叶夢が怖い夢を見た、それも急に転落するようにして。

 夢は自分の体験を基に形取られる。というどこかで聞いた言葉が頭に浮かぶが、それはすぐに否定される事となる。そもそも叶夢は透き通った海に潜ったことが一度も無かったからだ。

 中学高校共に修学旅行の行き先には沖縄の名前は無く、その上、実家と現在住んでいる家は海が近くにあるものの、エメラルドグリーンとは程遠い、深緑に濁ったものである。

 恐らくテレビで見た映像が現れたのだろうとも思ったが、それにしては沈んだ軍艦の箇所が引っかかる。父親の影響でミリタリにハマってしまった俺とは違い、叶夢はそういった物に一切の興味を示すことは無かった。

 あれやこれやと考察してみた所で所詮は他人の夢、余計な詮索をする所で無駄だという結論に無理やり自分を納得させて日記を閉じる。


「見たなー!」

 背後で叫び声がするや否や羽交締めにされ、そのままの体勢でベッドに押さえつけられる。

 拘束されている最中、ホラーゲームにありがちな、ストーリーの鍵となる内容の資料に気を取られて背後から襲われる主人公が頭に浮かぶ。

「悪かったって! もう見ないから!」

 柔らかいベッドに押しつけられていたとしても、叶夢の全体重がのしかかって肺は押さえつけられ息が苦しくなる。そんな中で咄嗟に出る、表面ばかりの謝罪の文言を口にする。

「……ホントに?」

 さっきまでの威勢が嘘のように、叶夢はぴたりと落ち着きを取り戻す。

 よくよく考えてみれば確かに、自分が書いた日記は誰にも見られたくないのは当然のことであり、そんな当たり前のことを忘れ、叶夢のプライバシーとも言える日記を勝手に読んでしまったのだ。上辺だけの発言とは言え、真に受けてしまうのは当然の事であろう。

「約束する」

 本心から出た言葉で答える。

 すると叶夢は羽交締めする腕を抜いてから体を起こし、襲撃の衝撃で床に落ちた夢日記を拾い上げると俺の頭を軽く叩いた。

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