第89話 尾撃(可児紫乃)

 アタシもなぁ、別に多くを知ってるわけじゃねェ。


 でかい図体して、店の前で座り込んでたアイツに声をかけたあの日。

 あれからまだ1年たらずだ。


 無口なヤツで、名前も名乗らねェし。

 そのくせ帰る家なんかも無さそうで、動かねぇ。

 しゃあねぇから適当に、愛車のエンブレムにちなんだアダ名をつけてやったんだ。


「なァ……そうだったよな、スコーピオ」


 アバルト595、コンペティツィオーネのパワーウィンドウを全開にする。

 クソ冷てぇ風と一緒に粉雪が吹き込んで、目を細めながらガキどもへ顎をしゃくった。


 ガキどもは困惑してんのか、スコーピオとチャイナ男を交互に見ながら館に駆け込んでいく。


 アイツらマオのダチかな?

 つーか肝心のマオがいねェじゃんかよ。

 ったくメッセージでこんなとこまで呼び出す方も呼び出す方だけどさぁ、愛車かっ飛ばして来ちまうアタシもどうかしてんぜ。


 でもまぁ、ただでさえ誰かに助け求めるなんかしねぇマオがさ。

 アタシを頼ったってんならさぁ……。


 ま、悪かねェよな。


「――ぶえっくしょい!」


 鼻をすする。

 クソ寒ぃ中、睨み合いを続けてやがる男ふたりを眺める。

 風邪引く前に決着つけてくれっかな。


「……馬鹿力だな」


 低く呟いたチャイナ男が手首を返して、スコーピオの腕を振りほどいた。

 2本指を立てた片手を前に、もう片方は拳を握って背中へ。


 カンフーマンに対して、スコーピオのヤロウは構えもせず突っ立ってやがる。

 仁王立ちってやつ。


「ハッ、かっけェじゃんか」


 でもさぁ、やれんのか? スコーピオ。

 用心棒的に雇っちゃいるが、ホントのところ役に立つのかアタシは知らねぇ。


「筋肉などではどうにもならない力の差を教えてやろう」


 踏み込む速度は目で追えなかった。

 一瞬で懐に飛び込んだカンフー男が、スコーピオの顔面を左拳で殴打してた。


「――……ッ」


 顎に入ったか?

 スコーピオはたたらを踏みながらも大振りの右を返す。

 カンフー男の膝がスコーピオの右腕を跳ね上げ、勢いのまま高く伸ばした足が後頭部を撫で斬るように打つ。


「ガ……――〜〜ッ」


 ガクンと膝を落としたスコーピオのみぞおちに、カンフー男の拳が縦にめり込んだ。


「これを“震打”という。覚えておけウスノロ」


 何がそんなに効いたのか、派手に喀血して完全に膝をつくスコーピオ。


 あーあー、ダメだなこりゃ。

 素人から見たって力の差はありありとわかる。

 カンフー男の言う通り、スコーピオにゃ荷が重過ぎる相手ってこった。


 踵を返すカンフー男の足を、けどスコーピオはがっちり片手でホールドした。


「……愚かだな」


 ホントだよ、何やってんだ。

 カンフー男は後ろ手に組んだまま、余裕の表情でスコーピオの顔面を滅多蹴りにする。


 鼻がひん曲がって、鮮血が飛び散る。

 ひでぇな。

 そこらの女子なら顔をそむけるような惨劇だ。


 アタシは愛車のハンドルを指で打ちつつ、じっとその様を眺めていた。


 無口で、本名すらも知らねぇ男だ。

 まぁけどさ、1年一緒にいりゃそれなりの話もしたことあったよな。


 フィリピンのスラムで、ガキの頃から炭焼きしてたつってたっけ。

 廃材から出る毒を吸って、安い賃金もらって。

 そんな生活を抜け出したくて、でかい組織に入り込んで色んなことに手染めたって前に聞いたな。


 自嘲気味に笑ってたっけ。

 なァ?

 そんでわざわざ遠い日本まで流れ着いたんだろ?


「く……いい加減手を離せ肉ダルマがッ!」


 カンフーシューズがスコーピオの顎を蹴り上げ、白い歯が血飛沫と共に弾け飛んだ。

 顔中血だらけになっても、なおスコーピオはカンフー男の足を離さねぇ。


 なぁ、もういいじゃねぇか。

 マオに対する義理は果たしたろ。

 散々苦労してせっかく日本に来たんだ、もうやめとけよ。


 カンフー男は狂ったみてぇにスコーピオを踏みつけてやがる。

 でもその手は離れねぇ。


 まさかアタシへの義理とか言うなよ?

 アタシとオマエの間にそんなもんねェよ。

 毎日適当に飲んで食って、つるんでるだけだよ。


「こんなもん、ただの遊びなんだよ……そうだろ」


「ちぇいさああああッッ!!」


 カンフー男の踵がスコーピオの腕へ叩き落され、ゴキリと嫌な音を響かせる。

 アタシは愛車のドアを蹴っ飛ばした。


 雪が積もりはじめた地面を踏みしめる。

 クソ寒ぃ。

 カンフー男が一瞥くれるが、無視してスコーピオの元まで歩いていく。


 スコーピオの五指がぎりぎりと足首に食い込んで、カンフー男のツラにも余裕はなかった。

 それ以上にスコーピオは虫の息に見えたけどな。


「ぐぅッ! 離せッ! 離さんか貴様ぁッ!!」


 白い地面にびちゃびちゃと血溜まりが広がって、スコーピオは顔を突っ伏して微動だにしねぇ。


 冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで――。


「いつまでやってんだスコーピオッ!! とっとと帰るぞッ!!」


「――……OK、シノ」


 ずるりとカンフー男の足を引き込むようにして、スコーピオが上体をゆっくり起こした。

 遥か後方に引き絞られた腕には、上着越しにでももりもりと隆起した筋肉がわかる。


「ひ――離っ――」


 逃げらんねェよ。

 サソリの毒は、一撃だ。


 鉄でもぶっ叩いたような轟音が響き渡って、カンフー男の体は綿みてぇに吹き飛んだ。

 ずっと向こうまで転げてったヤツは、ピクリとも動かねぇ。


 それにしてもスコーピオの巨体は、肩を貸すのもひと苦労だ。


「……ったくよぉ。もっとスマートにやれねぇもんかね」


「……スマナイ。ショウブ……? ショウブン、ナンダ」


「あ? 性分? ただのドMじゃねぇの」


 ほんの少し、スコーピオが微笑む。

 久しぶりに見たな、そんな顔。


「ほら、車に戻んぞ」


 スコーピオは引きずっても動こうとしねぇ。

 目は、じっと後ろの館を見てやがる。


「まさか行く気かよ。オマエさすがにその体じゃ……」


 黙って首を振るスコーピオは、説得に応じる気はなさそうだった。

 たしかにマオのやつ、いったい何に巻き込まれてやがんだ?

 カンフー男といい、状況は普通じゃねぇ。


 ねぇ、けど……。


「……はぁ、わかったよ」


 これも乗りかかった船ってやつか。

 仕方なくスコーピオに肩を貸しながら、館へ向けて歩き出したとき。


 館の方から何か嫌な――虫みてぇな不気味な羽音が聴こえた。


「ッ……シノ……!」


 足元がおぼつかねぇ。

 なんだ、こりゃ。

 頭が――……。


 アタシはもつれるように、スコーピオと雪の中へ倒れ込んだ。

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