第66話 ジェノサイダー(青柳依子)

 あたしはこうなることを覚悟していた。

 でも、どこかでそれはまだ先の話だと思っていたかもしれない。


 それはけっきょく覚悟できていないのと同じことで、あまりにもまっすぐな気持ちにあたしは答えることができなかった。


 浴槽に体を沈めて、熱いお湯に足を伸ばす。


「はぁ……」


 きもちいい。

 文化祭の疲れも癒えてくし、何もかも忘れちゃいそうなくらい頭がぼーっとする。


 いや、忘れちゃだめでしょ。

 顔にお湯をパシャパシャかけた。


「……蒼介くん」


 ふと名前をつぶやいてみると、昼間あたしを好きだと言ってくれた顔が鮮明に浮かんで、茹だるように全身が熱くなる。


 目は泳いでた。

 足も震えてた。

 それでも好きだと言葉にして、どれだけの勇気を振り絞ってくれたんだろう。


 蒼介くんが、あたしに好意を向けてくれてたことはわかってる。

 けっこう前から……夏祭りよりも、もっと前から知ってる。

 隠そうとしてたのかもしれないけど、視線とか、言葉遣いとか、態度にもぜんぶ出てる。


 なのに――。

 あたしはズルくて、蒼介くんはやさしいから。

 弟みたいで、友達みたいで、いっしょにいて楽しくて、失いたくなかったから。


 決定的な言葉を言われたくなくて、ずっと曖昧な距離を保とうとしてた。

 踏み越えそうになったら茶化して、誤魔化して。

 それが暗黙のルールみたいに、共通の認識だとあたしは一方的に決めつけてたんだ。


「あぁ……さいていだなぁ」


 のぼせそうな気がして、立ち上がって浴槽をまたぐ。

 脱衣所で体を拭いたり、乾かした髪をとかしながら、鏡に映る死んだような目を見つめる。


 われながら、いつにもまして覇気がねぇなぁって感じがする。


「……どこがいいんだよ、こんな女の。マジで」


 キャミ着て短パンを履いて、首にタオルを巻いたままリビングに入った。

 ソファで寝転ぶ風太をチラ見して、冷蔵庫のパック牛乳をゴクゴク飲む。


「姉ちゃんコップ使えよ」


「あたししか飲まないじゃん」


「そういう問題じゃねぇだろ。彼氏に嫌われても知らねぇぞ」


「む……」


 弟がかわいくない。

 ソファにうつ伏せて、スマホいじってる風太は顔も向けやしない。


「ねぇ、お姉ちゃんかわいいかなぁ?」


「ああ!? な、なんだよそれ知らねぇよ!?」


 焦ったようにソファをおりて、風太はそそくさとリビングから出ていこうとする。


「そ、そんなことよりアイツは? 蒼介はどうしたんだよ最近。ゲーム誘ってもあんま乗ってきやがらねぇし、姉ちゃんからも言っといてくれよ」


 曖昧にうなずいた。

 風太の口からこういうような話題が出るのは、一度や二度じゃない。


 階段をのぼっていく弟の足音を聞きながら。

 いつの間にか、こんなにもあたしの日常に溶け込んでいるんだって。

 あらためて……。




 自分の部屋に入って、ベッドに座る。


 やっぱり蒼介くんは、弟とはちがうよね。

 かわいいし、かっこつけるとこあるし、ふざけすぎたりするとこもあるけど。


 あたしを楽しませようと一生懸命になってくれたり、あたしのために必死に台風の中駆けつけてくれたり、紳士だったり。


 胸がキュウっとなっちゃうのは、あたりまえだけど弟なんかじゃないから。


 思えば夏休みに出会ってから、ずっとあたしのそばにいようとしてくれてた……のかな。

 彼氏がいると知ってて、あたしのことが好きで、もし立場が逆だったらあたしは耐えられない。


 つらかったね。

 ごめんね。ごめんなさい。


「……あたしが泣いてどすんだ、ばぁか」


 蒼介くんの気持ちはわかった。

 気づいてたけど、言葉でも聞いた。


 考えなきゃいけないのは、あたしの気持ち。

 机の上にある写真立てを見る。


 あたしには賢司くんがいる。

 とっても大事で、大好きなあたしの彼氏。

 あたしにはもったいないって、いつも思う。


 でもこんな言い方しちゃだめなんだ。

 賢司くんにも蒼介くんにも失礼だから。


 賢司くんの周りには、かわいい子も綺麗な子もいて、だけどあたしを選んでくれた。

 うれしかった。

 その気持ちに報いなきゃいけないのに、夏祭りの夜に罪を犯した。


「…………っ」


 枕に顔を埋める。

 どう考えてもやっぱ最低で、泣けてくる。


 あたしにだれかを選ぶ資格なんてない。

 けど選ばなきゃならない。

 何様だ? 泣けてくる。


 つらい。

 つらい。

 どうしてそっとしといてくれなかったの?


 賽は投げられたってやつだから?

 じゃあ投げたのは蒼介くん?

 ちがうでしょ、あたしがサイコロを握らせたんだ。

 蒼介くんはもう投げるしかなかった。


 最初から、もっと距離を置くべきだった。

 わかってたはずなのに、今さら。

 今さらつらいって、苦しいって言ったって、どうにもならない。


 何を選んだとしても、今が壊れる。

 罪に対する罰だから。

 このままってわけにいかない。

 今からでも精算しなきゃならない。


 スマホを握りしめる手が、みっともなく震える。


 イヤだ。

 こわい。

 つらい。

 悲しい。


 履歴から着信をタップした。

 往生際も悪く“出ないで”なんて願うけど、数回のコールで繋がってしまう。


「……ごめんね。今まで……ありがと」


 鼻水でぐずぐずなあたしを心配してくれる声が、胸に突き刺さる。

 ホント、あたしには価値がない。


 そうしてあたしは“もう会えない”と別れを告げた。

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