第45話 完璧な5秒間
「その森は、冥府へ続くと言われておる。冥府とはすなわち死者の国。本来、生者が軽々しく足を踏み入れてはならぬ森。ほら、聞こえぬか? 死者の騒ぎ立てる声が。ぬしらの足元からじっくりと手を這わせ、肌の温もりを、肉の柔らかさを、骨の堅強さを確かめんとする歓喜が。現世と表裏一体の冥府がぽっかりと口を開けた時……おお、そうじゃ、ほれ見よ、赤い鳥居が――」
「イヤああああああ!!」
ヨリコちゃんが絶叫しながら、俺の腕をぎゅっと抱きかかえた。
そんな様子を振り返ったマオがけらけらと笑い声をあげる。
「や、やめろよマオ! こんな場所でそんな話すんの!」
いいぞ、もっとやれ。
俺の左腕はヨリコちゃんの胸もとに斜めの角度で、いわばパイスラ風にハマり込んでいるのだ。
こんなに嬉しいことはない。
この調子で、建前と本音を上手に使い分けていこう。
「あたしマオの怖い話ほんっっとキライ!」
ぐすぐすと鼻を鳴らし、ヨリコちゃんが俺の腕に顔をぐりぐり押しつけた。
「……いま鼻水拭かなかった?」
「ちがう涙拭いたの!! なんでそんなデリカシーないこと言うの!?」
「ご、ごめん。でもヨリコちゃんの体液だったらどこから出たやつでも汚くないよ」
「言いかたっ! もっと考えてっ!」
うーん、ヒステリック。
彼氏にダメ出しする彼女かよ。
……そんなこと言ったらぶん殴られそうだな。
情緒が安定するまで、しばらくそっとしておこう。
「……けれど、確かに冥府や地獄に繋がっていそうな場所ですね」
水無月さんが漏らした感想に、あらためて周囲を見渡す。
見渡したところで、まじで樹木しかない。
歩いてるところは獣道みたいに荒れてるし、なんか人の声っぽくギャーギャー鳴いてる鳥がいる。
上に目線をやってみても、葉っぱの隙間から見える空はずいぶん遠く感じた。
ちょっと俺まで怖くなってきたな。
「ねぇ、魚沼くんもそう思いませんか?」
「い、いや、僕は……べつに」
「あら? どうして私を否定するの?」
魚沼くんの答えが気に入らなかったのか、水無月さんが鞄から例のぶ厚い本をチラ見させる。
するとおんぶしているアサネちゃんが、もそりと起きる気配がした。
「む……これは面妖な。――おお、確かソウスケだったな? 祭りのりんご飴、礼を言うぞ」
「えっこのタイミングで!?」
俺の背中から降りると、頭頂のアホ毛を揺らしつつ、ゆっくり水無月さんへと近づいていくアサネちゃん。
夏祭りでの魚沼くんと同様に、今度は水無月さんがたじろいで後退する番だ。
「ちょっと……こっちにこないでくださいますか日辻先輩?」
「なに。悪いようにはしないから。そこを動くな」
「くっ……! 一緒に来なさい! 魚沼くん!」
「僕は――ぐえっ!?」
首根っこ引っぱられるようにして、魚沼くんは水無月さんにさらわれてしまった。
アサネちゃんもふたりのあとを追っていく。
「なに? なに!? いったいなんなの!?」
残された俺たち――とくにヨリコちゃんはパニック状態だ。
いまだ掴み取られた腕に、爪がたつほど指がくい込んで痛い。
「お、落ち着いてヨリコちゃん! アサネちゃんがああいう子なのは、よく知ってるはずだろ?」
「え、あ、うん。アサネはずっと寝てるかと思ったら、急に起きて変な行動したり……」
知らなくて驚いたのは俺の方だよ。
二重人格かよ、怖えー。
「まあ、とにかく今にはじまったことじゃないんだから、落ち着いて! な?」
「う、うん……うん、ありがと。少し、おちついた……? え?」
「ん? どうしたの?」
その場でくるりと回るように、ヨリコちゃんが360度周囲に目をめぐらせる。
「ねぇ……マオは? マオはどこいったの?」
「マオ……?」
たしかに、周辺の木々を少し分け入ってみても見当たらない。
名前を呼んでも、不気味な鳥が返事をよこすだけだった。
「もうイヤ――っ!」
ヨリコちゃんが泣き顔を隠すように、俺の胸へ顔を埋めた。
これまでにない密着感に、こんなときだというのに心臓が跳ねあがる。
「だ、大丈夫だから! ちょっと探せば見つかるから!」
「あたし、まともに見らんない、歩けない……! ソウスケくんが連れてって!」
「わかったから! そんなグイグイ押さないで!」
ほとんど抱き合うような格好はありがたかったけど、まじで猪突猛進にヨリコちゃんが進むもんだからズルンと足が滑って――。
「よよヨリコちゃんストップストップ!? こっち崖んなってる!?」
「え!?」
それでもなんとか踏みとどまった。
――はずだったのに、最後にドンッと
「あっ危な……ッ!」
「ひ――〜〜〜〜っ!?」
ヨリコちゃんを強く抱き寄せて、背中から斜面を転がり落ちる。
死ぬかと思ったけど幸い大した高さじゃなく、気づけばふたり抱き合ったまま地面に寝そべっていた。
「よ、ヨリコちゃん、怪我は?」
「だ、大丈夫……みたい」
ドクンドクンと早鐘を打つのがどちらの心臓かわからない。
顔を赤くしたヨリコちゃんが身を起こして、溶けるような温もりが遠ざかっていく。
思わず手を伸ばして。
「ちょ、きゃ!?」
仰向けになりながら、またヨリコちゃんの背中を抱きしめてしまっていた。
「怪我……ほんとにないかと、たしかめたくて」
「……ご、5秒……5秒……だけだから……」
許しをもらえた5秒間、全力で体温と、やわらかさと、匂いに神経を集中させる。
いま、ヨリコちゃんのすべてが俺の手の中にある。
時を止める異能に目覚めない自分を、うらめしく思った。
「ごーーーーーお。よーーーーー…………ん」
「とっくに5秒たったから! おわりおわり!」
「あっ――」
無情にも離れていく体を追っかけた手を、今度は容赦なくパシンと払われる。
「もぅ……それよりここ、どこなのかな……?」
ふて寝してたい気分を押し殺し、しかたなく立ちあがった。
辺りは草が伸び放題の開けた場所だ。
ヨリコちゃんと連れ立ってしばらく歩くと、前方に何かが見える。
「……ねぇ……あれ、マオが言ってた……?」
震える指先が差し示したものは、まちがいなく真っ赤な鳥居だった。
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