第十五話 一服
おどろおどろしい景色が延々と続いている。
黒之助ら一行は現在、"終着の死面"を下山中だ。
この山は昔から、著しく魔の気配が濃い土地だという。
数多の強力な魔族が潜んでいるため、その道中は危険を極める。
万全の備えがなければ、瞬く間に魂を汚染されてしまうであろう
もっともこの面子に限っては、さして問題にならぬのかもしれない。
魔の方面に長け、逆に利用することすら可能な陰陽師のイエミズ。
そもそも、体質による分解で影響を受けない黒之助。
――ギンに関してはよくわからないが、とても元気な様子である。
彼らは魔境を物ともせず、着実に歩を進めているのだった。
「……何にも出くわさないですね」
「擬装しているからな」
「?」
「特殊な膜で我々を覆っているのだ。外からは魔族が単独で移動しているようにしか見えん」
曰く、見つかったとしても同胞と錯覚させることで衝突を避ける術のようだ。
膜は彼を中心として、最大で二百寸くらい広げられるのだとか。
なお先刻まで小休止していた場所にも、同じのものを張っていたそうである。
例の天幕や焚き火については万一、見破られた時の保険だったらしい。
前者は謂わば二つ目の迷彩で、黒之助の隠蔽をさらに手厚くするための代物。
後者には、相手の悪意が強いほど近づけぬ魔除けの火が使われていたとのこと。
「イエミズさんの陰陽術は、魔素を基に想像を現象化しているそうですよ」
(へえ、そこは魔法と同じなのかな)
「まあ概念だとか、曖昧で複雑なものを扱うには不向きだが。物的要素の多い想像を伴う場合は重宝するし、恩恵にあずかるだけなら対象を選ばんのも特徴といえる」
「ふむ……個人的に少し興味があるのですが、もしかして心得があれば誰にでも使えたりするんでしょうか?」
「いや、ある程度の
『やっぱり、へっちりは変だってことだね』
「おい、反論し辛いところで割り込んでくるな」
カルマの意味は不明だが、どうやらこの法力もまた訳ありの模様だ。
魔が関わる力の利用は往々にして、一筋縄ではいかぬものなのだろう。
残念ながら、魔法は無理でも陰陽術ならと寄せていた期待は立ち消えてしまった。
黒之助は稀有な力を有するものの、それ以外は何も持たぬ一介の青年。
手札が増えれば行動時の選択肢も増えると踏んだのだが、現実は甘くなかった。
(にしても、この二人なら襲われたところで問題ない気もするけど)
彼女らが非凡な存在であるのは、言わずとも知れたこと。
無論、成長を遂げた未来と比べれば劣る部分もあるのかもしれない。
しかし先行する二人の背中は既に大きく、凛として気品に満ちていた。
――敢えて用心しながら進むのは、やはりこちらの身を案じての配慮だろうか。
「あの……申し訳ないです」
「! どうしましたか。もしかして体調がまだ……」
「い、いえ、そうではないんです。その、私がいるせいで歩調を遅らせてしまっているんじゃないかと思いまして。きっとイツナさん達だけなら、もっと速く動けるでしょうに」
「え? ……あ、そんなことはないですよ! 普段と何も変わりません、ね、イエミズさん」
「うむ、至っていつも通りだ。……確かに某たちなら敵を往なしつつ進むのも造作ないだろうが、それはあくまでも並の相手に限られる。イツナは駆け出しの身であるゆえ、神通力の練度が不十分だ。そしてそなたも、まだ己の力をよく理解していないのだろう? この状況でもし強敵の集団と
「……ちょっと不甲斐ない気もしますけど、そういうわけなのです。どうか気にしないでくださいね」
「わかりました……ありがとうございます。しかし、駆け出しというのは?」
「えっと……さっき言っていた役割が関係しているお話です。諸事情で詳しくは明かせないのですが、わたしは神通力をもっと深く修めなければならなくて」
「先の登頂はその武者修行も兼ねていたのだが……生憎、胸を借りる相手が不在で骨折り損だったな」
「ひょっとして、私が追い払ってしまったのって……」
「いやすまん、他意はなかった。仮にそうだとしても咎めたりはせん。あまり気に病むな」
最初に羅摩から居場所を聞いた際は、なぜ登山しているのか疑問だったが。
彼女らが目指していたのは、ギンに憑いていたあの存在だったのだろうか。
黒之助は思った。
意図せず修行の機会を奪ってしまった可能性については、忍びなくもある。
とはいえ、あれほどの邪悪に二人を
彼はギンの
◇
引率されつつ、無事に下山を果たした黒之助。
彼は長距離を歩いてみて、初めて気付いたことがある。
精神体による運動は、肉体的な疲労が蓄積せず、発汗もしない。
鼓動のようなものは感じられるし、過度に動けば息も切れる。
だのに、手足が疲れたから休みたいとは微塵も思わないのだ。
お陰でぶっ続けの下り坂も、苦にはならなかった。
ただ、不思議なことに少し喉が渇いた気はしている。
「ふう……これだけ歩くと、なんだか反射的に飲み物が欲しくなりますね」
「ふふ、すごくわかります」
「左様か? では少し休憩を挟むとしよう。魔界において、気休めは肝要だ」
そう言ってイエミズが手で印を結ぶ。
忽ち、例の魔除けと思われる焚き火が出現した。
現在、彼らは山の麓にある森林を抜けている最中である。
"終着の死面"と比べると枯れた木々が減り、鬱蒼としている。
獣道の真ん中で、三人と一匹は地べたに座り込んだ。
『お散歩、楽しかったなぁ』
「まだ目的地には着いていない。少し休むだけだ」
『そうなの? まあ、ぼくは余裕だけど』
「ふん、後でへばるんじゃないぞ。さて、何が欲しい?」
「じゃあ、わたしは霊水を頂けますか? 食べ物は遠慮しておきます」
(レイスイ? たぶん霊水だよな)
「わかった。そなたは?」
「……もしかして、何でも出せる感じですか?」
「ああ。魔法ではないゆえ多少、品質は劣るがな。あと某が知らんものは無理だ」
『ぼくは肉と水がいい』
「ん。で、そなたは決まったか?」
「うーん、私は緑茶が飲みたいですね」
「リョクチャ……? って何でしたっけ」
「えっ、普通のお茶ですけど。急須で淹れる……」
『わ、いい匂いがするやつの名前だ。ぼくは飲めないんだけど』
「ギンちゃんも知っているの? すごいね」
「そなた、実は富豪の家系か? 今の時代、茶葉なんぞまず手に入らんだろうに」
「あ、あー、どうなんでしょう。緑茶が好きだったのは覚えているんですが、その辺りもかなり曖昧でして」
(やっぱり、ご自身の記憶も朧気なのね……)
「ともあれ奇遇だな、某も昔から緑茶には少々うるさい。急須ということは
暗にイエミズの家柄が知れたような気がする。
ともすれば、この時代錯誤な格好は単なる趣味なのだろうか。
俄然、彼の素性が気になるところではあるが。
自分は内情を隠し、方便を使っている手前だ。
後ろ向きな理由は無いといえども、一方的な詮索は公平でない。
この場で尋ねることは慎むとする。
聞き慣れぬ時代名称の方は、いずれ訊いてみるのもよかろう。
それにしても危ない局面であった。
よく考えれば、食文化に違いがあるのは当然である。
油断大敵、今後は迂闊な発言をしないよう留意しなくてはならない。
――別段、過去から来た事実について伏せる必要はないのかもしれない。
ただ、何事にも相応しい時期というものがある。
邂逅から間もない今、突拍子のない情報を不用意に連発するのは危険だ。
それは不信感を募らせるだけでなく、あらぬ混沌を招く可能性を孕む。
未来から来た経緯も含めて、まだ話すべき頃合いではないだろう。
黒之助は深呼吸して気を取り直し、イエミズの手元を見つめた。
まるで手品の如く、次々と物質が生成されている。
まずは大きめの皿が出来上がると同時に、中が水で満たされた。
別の皿には、よく焼けた牛肉らしきものが現れる。
この体は基本的に腹も減らぬようだが、芳しい湯気が食欲を刺激する。
「ほれ」
『えへへ、ありがとうへっち……ううん、イエミズ』
「まったく現金なやつだ……しかし、お前の鼻が道の選定を捗らせたのも事実。ひとまずそれを食って英気を養うとよい。その代わりこの後も頼むぞ、ギンよ」
『わかった!』
下山の道中、ギンは常に先頭にいて、何かを嗅ぎ分けながら進んでいた。
それを追従するイエミズの様子が、不自然に大人しいとは思っていたが。
どうやら一度も敵に遭遇しなかったのは、彼の功績でもあったらしい。
擬装の陰陽術に加えて、適切な迂回路の察知。
この両者の警戒があれば、旅路における危機管理は万全といえそうだ。
次に出てきたのは、ほどよく茶渋で濁った湯呑である。
おかわり用なのか、南部鉄器の急須も付属している。
立ち昇る癒やし香りは平穏と郷愁を齎し、黒之助の心に染み込んだ。
手渡された湯呑からは、非常に熱い感覚が伝わってくる。
「気をつけて啜れよ? 本当は五感を下げるべきなのだが、そなたは術を受け付けないからな。一応、風味が損なわれない程度に低温で創っておいた」
(そうか、精神体だと猫舌になるようなものなのか)
恐る恐る、口に含んでみる。
――確かにこれは熱い。
体感では90度くらいに感じる温度で、加減を誤れば火傷しそうだ。
ところがそれが無問題になるくらい、この茶は美味かった。
「……強めの渋みですが、後からまろやかな甘味が出てきますね。力強い香りなのにすっと抜けていく感じで、上品な味わいです。こんな美味しいの、今まで飲んだことないですよ」
「はは、大げさな奴だな。しかし、口に合ったならば何よりだ」
「うう……なんだかとっても美味しそう」
「イツナさんも少し飲んでみます?」
「えっ、いいんですか」
「そういえば、お前に振る舞ったことはなかったな。霊水を創るのは少し時間が掛かるから、先にそれで一服しておけ」
「ありがとうございます! わ、わたしもそのままの五感で頂いてみますね」
既に半分も飲んでしまっていたため、黒之助は急須を持ち上げた。
くるくると優しく撹拌させて、渦の勢いを保ったまま注ぐ。
旨味を伴った深緑が注ぎ足されると、湯呑は再び八分目まで満ちた。
それを受け取ったイツナは、黒之助に倣って左手の平に底を乗せる。
倒れぬよう右手で掴み支えながら、ゆっくりと傾けて味わった。
「あ、熱っ……」
「大丈夫ですか!」
「はい……クロノスケさん、これをあんなに速く飲めるなんて」
「いや美味しかったものでつい。私もすごく熱かったんで、無理しないでくださいね」
「ふふ、気をつけます。でも……そうなるのもよくわかる味です」
「どうだ、美味いだろう?」
「ええ。初めて飲みましたが、なんだか懐かしいです。心がほぐれてゆくような、落ち着く風味……こんなに素晴らしいものを知っているなら、早く教えてくださればよかったのに」
「単に機会がなかっただけだ。他にも何か思い出したら、今後はご馳走しよう」
「やった、期待していますね!」
そう言って、彼女は再び茶を啜った。
満面の笑みでほっこりと吐息を漏らしながら、黒之助に湯呑を返す。
こうしていると、途端にすべての重圧が幻だったのではないかと思えてくる。
だが、いくら穏やかな情緒が
自分が大きな使命を背負っているのを、忘れてはいけない。
「うーん。霊水、もしかしたら間に合ってしまったかも……リョクチャでこんなに精神力が回復するなんて」
「おいおい、もうできたぞ。せっかく創ったのだから飲んでおけ」
「あの、私もちょっとだけ味見してみてもいいですか?」
「? といっても、霊水ですよ?」
「えっと……緑茶がここまで美味しいなら、もしやと思いまして」
「随分と買われたものだ。流石に、無味に大差はないだろうが」
「では、先に飲まれますか? どうぞ、クロノスケさん」
イツナの言葉から、霊水とは精神的に前向きな作用の働く水なのだろう。
見た目は硝子のコップに入っていて、普通の水とまったく変わらない。
嗅いでみるも匂いはなく、無味無臭の液体である。
起こる反応は未知数だが、これも学びと捉えて一口だけ試す。
(……? 思ったより、水だな……)
「はは、言った通り特に変哲もなかろう」
「そうですね。ただ雑味はないので、良質な天然水って感じでしょうか」
「効能が宿っている以外は、只のお水と同じですからね」
「でも美味しかったです。お先に頂いちゃってすみません。ありがとうございました」
黒之助はお礼を言いつつ、イツナに霊水を渡した。
そうしているうちに心なしか、いい意味で全身の力が抜けた気がする。
纏わりついていた負の念や、凝り固まった感情がさっと引いた感覚。
この変化が精神力の回復を指すならば、霊水とは重要な飲料かもしれない。
おそらく魔素を見た際などの、心理的な疲弊も緩和できる可能性があるからだ。
(そういえば俺はある種、魔に耐性があるわけだけど……考えてみれば外的要因に対してだけだよな。無心の時は除くにしろ、内面で湧き起こる恐怖とかは防げてないし)
ギンの一件で気絶したのは、エネルギーの消費によるものと思われるが。
一方、あの邪悪な存在や雲と対峙した折に押し寄せてきた、畏怖や焦燥の大津波。
少なくともそれらの動揺は、精神に深く関わっている現象に違いなかろう。
――以後、いつ同じような局面に至るか予想はできない。
ならばその場合に備えて、この段階で手を打っておくのが賢明といえる。
「イエミズさん、もしよければなんですけど、携帯用の霊水って創れるでしょうか?」
「ん? もちろん創れはするが……精神体の身で異質なエネルギーを持ち歩けばその分、余計に精神力を消費することは記憶にないか? 携帯しても摩耗が早まっては、本末転倒だ。飲みたくなったら某が随時、創ってやるぞ」
「ありがとうございます。ですがこの先、もし何らかの理由で自分たちが分断されるような事態が発生してしまったら、どうなるのかなぁと思って……」
「確かに、あり得ない話じゃないですね」
「……そんな事態を回避するために某がいるのだがな。しかし、重なる負担は小休止の頻度を増やせば賄えるし、一理あるとも言えるか……わかった。では追加で全員分を用意するので、もう暫し寛いでいてくれ」
その後、黒之助は高さ十寸ほどの小さな瓢箪(ひょうたん)水筒を貰った。
イツナも同じ物を腰に括り付け、ギンは首から下げている。
来(きた)る有事のささやかな対策を行ったところで、彼らは再び歩き始めた。
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