第十三話 風向き
「う……」
黒之助は呆ける頭を押さえながら上半身を起こした。
その拍子に、掛けられていた布団がずり落ちてゆく。
どうやら気を失っていたらしい。
周囲を見回すと、非常に狭い空間の中にいるのがわかった。
ぺらぺらの壁には、焚き火と思われる橙色の光が透過している。
状況から察するに、ここはおそらく天幕の内部。
一人で寝かされていたようだが、外に誰かがいるのは間違いない。
彼は、いま思い出せる最新の記憶を辿った。
ギンを助け、隆正と別れたところまでは覚えている。
もしそこで倒れたのだとしたら、あの場にいたのはギンのみだったはずだ。
人語で意思疎通ができるとはいえ、犬である彼が天幕を張ることはできまい。
消去法で、思い当たる存在は限られてくる。
(イツナさん達か……)
まさか、このような邂逅の体裁になるとは予想していなかった。
外の気配が彼女らなら、ひとまず様子見で保護されたとみるべきだろう。
当然、素性の知れぬ自分は現在、たいそう警戒されているに違いない。
だが幸い、こちらが目覚めたことにはまだ気づかれていないようだ。
黒之助はそっと体を戻すと、再び目を閉じた。
今のうちにどういった方向性で話を進めるのか再考しなければ。
ところが、そう思ったのも束の間。
不意の一声により、彼の計画は儚くも破綻した。
『あ、クロ、もう起きてるみたいだよ!』
「!?」
外から聞こえたのはギンの声だった。
息を潜めていた手前、影法師の動きで勘付かれたわけではなさそうだ。
ならばその不自然な呼吸を気取られたのか、あるいは匂いの変化でもあったのか。
いずれにせよ、このままでは狸寝入りの嫌疑が掛かる可能性が出てきた。
ただでさえ怪しい身の上で、いま余計な猜疑心を煽るのは得策ではない。
彼は覚悟を決めて、今一度ゆっくりと起き上がった。
ぶっつけ本番、即席の対応で乗り切るしかなかろう。
「ありがとうギンちゃん、ちょっと見てくるね」
外から人影が近づいてくる。
声はイツナのもので間違いなかった。
薄っすら万が一の事態も脳裏を掠めていたが、それは杞憂に終わった。
さておき、彼女に安堵した様子を見せるわけにはいかない。
自分たちはあくまでも初対面、と繰り返し心に言い聞かせる。
鼓動の跳ね上がるなか、まもなく天幕の出入り口が捲られた。
「あ……えっと、目を覚まされたのですね。お加減はいかがですか?」
「……はい、大丈夫です。あの……ここはどこでしょうか」
「"終着の死面"の山あいですよ。頂上から少し下りたところにある場所で、今は野営中です。周囲に魔族はいませんので、どうかご安心を」
「あ、ありがとうございます。私を……助けてくださったのですか?」
「ええ、危険な場所に、お一人で倒れていらっしゃいましたから。それにこの子が、貴方を助けてって」
『うん!』
イツナの横からひょっこりと、ギンが顔を出した。
なんだか嬉しそうな、無邪気な表情をしている。
――若干、予定は狂わされたが。
このふさふさの前には些細なことだった。
黒之助は微笑み返し、ほどよく弛緩した精神を集中状態に切り替えた。
以降の対話は、慎重を期して臨まねばならない。
彼はその場で正座すると、まずは深々と頭を下げた。
「重ねて、本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
「ギンも、心配してくれてありがとう」
『いいよー』
「失礼ですが、貴女のお名前は?」
「……イツナと申します」
「イツナさんですね。私は天利黒之助といいます」
「アマリ……? 珍しいですね、名字をお持ちなんて」
「えっ?ああ、よく言われます」
「ふふ、素敵なお名前です。よろしくお願いしますね、クロノスケさん」
「はい、こちらこそ」
名字が珍しいというのは初耳である。
そういえば、羅摩も自己紹介のときに姓を名乗っていなかった。
未来においては、それが普通なのだろうか。
早速ボロが出そうになり、黒之助は肝を冷やした。
「それで、クロノスケさんはどうしてあんな場所に?」
「あー……その、すみません。実は私にも、よくわからなくて」
「わからない……?」
「ええ。といいますのも、私は最近この世界で目覚めたのですが」
「はい」
「厄介なことに、記憶がないんです。文字通り右も左もわかりませんで……それで、山頂にいたのはですね。あそこに行けば、人と会えるって聞いたからなんです」
「人ですか?」
「はい、それが誰なのかまでは教えてくれなかったんですけど……何でもその人に、とある伝言を伝えれば全てを思い出せるって言われて」
「ふむ……? ちなみにそのお話というのは、どなたから聞いたのでしょう」
「うーん、私も詳しくは知らないのですが、男性の人ですね。名前は確かホウゲンさんだったかと」
「……え?」
「離れろ、イツナ!」
いきなり一人の男が現れ、イツナを抱えて後方に跳躍した。
あの特徴的な烏帽子――紛うことなきイエミズである。
だがその眼差しには熾烈な敵愾心が含まれていた。
ホウゲンの名を出せば、何かしら反応があるだろうとは思っていたが。
正直、ここまであからさまに敵意を向けられたのは予想外である。
魔を齎すと称されし者との繋がりは、時として諸刃の剣ということか。
とはいえ、この誘導については遅かれ早かれ行うつもりでいた。
何故なら、彼を伏せたまま第一目的を達成するのは困難だからだ。
即ち、彼女らの大義名分が既に失われているという理由の説明。
黒之助は塞がった出入り口の垂れ幕を右手で除けつつ、演技を続けた。
「あの……急にどうされたのでしょうか?」
「(イ、イエミズさん。まだ、そうと決まったわけじゃ……)」
「(だが用心すべきだ。この地は魔の巣窟なのだから)」
少し離れた位置に、ひそひそと相談している二人が見える。
イエミズもイツナも、未来で見たのと変わらぬ姿をしていた。
ならばゾグは、と辺りを確認するも、この場には見当たらない。
たまたま席を外しているのだろうか。
訝しがる彼の横で、ギンもはてなを浮かべながら事の成り行きを見守っている。
「お前、何者だ?」
「え? すみません、仰っている意味がよく……」
(齎魔の名を出した上で白を切るか。一体、何を企んでいる? 事と次第によっては……)
「ご、ごめんなさいクロノスケさん。もう一つお聞きしたいのですが、そのホウゲンさんという方にはどこで会ったのでしょうか」
「あ、はい。古城だとかなんとか言っていたような気がしますが」
「それって、あの場所でお間違いないですか?」
光は何も無い遠方に到達すると、やがて周囲の空間にひびが入っていった。
そして、まるで風穴をあけるかの如く。
円状に砕け散った宙に、その先に隠されていた真の景色が映し出される。
どうやら見えぬ障壁の類が迷彩となっていたようだが、例の結界だろうか。
黒之助は手で望遠鏡を作って、彼女の光が何を暴き立てたのか凝望した。
断崖絶壁の上に、大きな城が
「えっと……外観を知らないので何ともいえないんですが。あそこに見える城がこの魔界の最北に位置していて、手前の空間擬装みたいなやつが魔の結界ってことで合っているなら、たぶんそうだと思います」
(かの居城がある方角のみならず、結界の存在も知っているだと……?)
「それも、その方が言っていたんですか?」
イツナが手を下ろしながら尋ねる。
結界と思しきものは一瞬で修復され、景色は元の暗闇へと戻った。
「はい。あと、私はこちらに転移陣で来ました。丁度、直通のものがあるから使えと言われて」
「転移陣? この付近には見当たらなかったが、どこにあるのだ」
「それなんですけど、何故か着いた途端に消えてしまったんですよね。で、しばらく辺りを探してみたんですが……まだ見つけられていません」
「(消えたということは一方通行の陣か。まあ、わかりきっていた話ではあるが……しかしこの男、そんな基本的なことも知らされずに、この魔境へ送り込まれたのか? 相手方の意図がまるで読めんぞ)」
「(ねえ、イエミズさん。今のところ彼の言葉に矛盾はないですし、内容的にも、本当に齎魔と会っていなければ説明がつかない部分があります。もう少しだけ、お話を聞いてみませんか?)」
「(むう……)」
また二人が小声で何か相談している。
辻褄が合うように精一杯、答えたつもりだが、何か間違えただろうか。
言葉を交わす度に走る緊張が、神経をすり減らしてゆくのを感じる。
仄かに虚構を混ぜる罪悪感も相まって、早くも挫けてしまいそうだ。
ギンはそうした彼の機微を捉えたのか、心配そうに尋ねた。
『クロ、もしかして迷子?』
「そうみたい。しかも結局、何もわからずじまいだし……」
「……聞くのが遅れたが、そもそもこやつは何なのだ? どうして言葉が通じる」
「え? えっと」
『へんちくりん、ぼくはコヤツじゃなくてギンだよ』
「へん……!? おほん、某はイエミズと申す者。ギンとやら、分を弁えよ」
『ぶってなに? ……へんちくりんだと長いから、へっちりでいいか』
「こやつ……!」
「まあまあイエミズさん。それで、ギンちゃんとクロノスケさんはどうして一緒に?」
『ぼくはクロに助けてもらったの』
「えっ、何かから襲われていたの? 大丈夫?」
『うん、平気! 悪い夢はもう覚めたから』
「……ますます意味がわからんな。おい、お前が説明せよ」
「はい。言葉が通じる理由は私にもわかりませんが……転移陣を探している途中、あそこで何か邪悪なものに取り憑かれているギンを発見しまして」
(……邪悪なもの? ゾグはあそこに"最悪"があるって言ってたけど)
(そのような存在、痕跡すらなかったはずだが)
「それはとても恐ろしい存在でした。でもどうにかギンを助けようと思い、力を使ったところ、幸いなんとかなったようで」
「待て待て、力だと? どういうことだ」
「ええ、実は」
彼は魔を分解する己の体質と、独自のエネルギーを行使できる事情を説明した。
ただし何故そうなのかは、調べたもののわからなかったと
また、自分が山頂で倒れていた理由についても、もう少し詳しく言及した。
行けば誰かに会え、その者に言伝を伝えることで記憶がよみがえる――。
ホウゲンから受けたこの指示に従い、城からあの場に転移した
そして偶然、何者かに襲われるギンを発見し、これを救助すべく謎の力で奮闘。
結果、おそらく代償として蓄積した疲弊が過度となって気絶し、今に至る。
以上、およそ半分くらいが作り話の説明を行いながら、黒之助は天幕を出た。
そうして近くにあった丸太へと座り込み、焚き火の揺らめきを静かに眺める。
あくまで自分に害意はなく、真摯に和解を望んでいる姿勢を示す趣向である。
聞いていた二人も、警戒を保ったまま火を挟んで向こう側にある丸太に着座した。
「というわけです」
「……到底、信じがたい話だ。不明点も多い」
「でも確かに、クロノスケさんには陰陽術が効きませんでしたよね」
「陰陽術?」
「……えっと、ごめんなさい。倒れているクロノスケさんを最初に見つけたとき、魔素の動きも含めて不可解な事象が多かったものですから。イエミズさんが陰陽術と呼ばれる、魔を使った法力を間髪入れずに貴方へ撃ってしまって」
「依然、正しい判断だったと思うがな」
「そういうことですか。私は別に気にしませんので、大丈夫ですよ」
「……ありがとうございます」
「ふん」
「ちなみにその後って、イツナさんが神通力で助けてくださった感じですか?」
「ええ。酷く汚れておられたので、回復と浄化の処置を行わせていただきました」
「道理で小綺麗に……こちらこそ、色々とありがとうございました」
気絶してしまった前後に何があったのか、これで大体わかった。
やはり既に幾つか実験されていたらしく、端から色々と疑われていたようだ。
ともあれ釈明は無事に果たされ、目的達成のために必要な準備も整いつつある。
黒之助は気を引き締め直し、残りの説明を完遂すべく、心を鎮めた。
なおギンは話に飽きてきたのか、近くの地面で丸くなって寝ている。
「……ところで。クロノスケさんが最初にこの世界で目覚めたときって、どこに居たのか覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、例の古城です」
「え、本当ですか!?」
「はい、間違いないです。ただ、それが何でなのかはわかりませんでした……わからないことだらけで、本当に申し訳ありません」
(普通に考えればあり得ない話だと思うけど、彼の体質や力なら、あるいは……)
「……某も参考までに聞きたいのだが。そのホウゲンとやらはどんな奴だった?」
「元々は全身、黒ずくめで頭に二つ角が生えてましたね。魔族だって言ってましたが、理知的な方でしたよ」
(元々?)
「ふむ。で、互いに素性を探り合ったのはわかったが……他には何か言っていなかったか?」
「特には……ただ、今ふと思ったのですが、あの人が言っていた"会える人"ってもしかすると、イツナさん達のことだった可能性もありますね」
「うーん、それはどうでしょう……少なくとも、わたし達がお会いするのはこれが初めてですし。今のところ、貴方の記憶に関する情報に心当たりもないですから……」
「そうですか……でも、ならホウゲンさんは一体、誰に対する伝言を……」
「そういえば、その伝言とは何なのだ?」
待ち構えていた質問が飛んできた。
話しながら組み上げておいた回答を、脳内で最終確認する。
ここで一気に本題に入り、彼女らの出方を窺う寸法だ。
黒之助は意を決して切り出した。
「まあ、口止めされているわけでもないですから言ってしまいますと、伝言の内容はこんな感じです。"自分は既に魔族としての力を失った。ゆえにハナノミコトもお役御免である。よってこの旨、速やかに上へと報告し"……」
「な、お前それ……!」
「クロノスケさん、最初から詳しく聞かせていただけますか?」
「え? あ、はい。自分にわかる範囲でなら」
「ありがとうございます。まず魔族としての力を失ったという部分ですが、それがどういう意味なのかわかりますか?」
「ああ、それはたぶん、ホウゲンさんが白くなったことに関係しているのかと」
「白くなった?」
「ええ、先ほど説明した私の力なんですけど、ホウゲンさんが自分に当てろと言い出しまして。ちょっと抵抗はあったんですが、やってみたらどんどんあの人の姿が変わっていったんです」
「…………」
「で、元々黒かった全身が白くなって、角もなくなっちゃいました。本人は魔力から解放されたと言ってましたけど」
「……馬鹿な……それで奴は、まだ生きているのか?」
「も、もちろんです。……確かに、いま思えば危険な行為だったのかもしれませんね。言われるがまま、そうしてしまったのは軽率でした」
「…………クロノスケさん、少々失礼します」
二人は再び、こちらに聞こえぬよう小声で相談し始めた。
何しろ、討つべき齎魔が自ら悪意を手放したというのだ。
しかもそれに加担したのは、得体の知れぬ眼前の男――。
彼女らは現在、さぞや混乱しているに違いない。
「(……流石にわたしも、今の話を鵜呑みにはできないと思います。彼の力は魔を分解する性質とのことでしたが、齎魔の力がそんな簡単に破られるわけがありません。それに最近現れたという彼に何故、自裁を手伝わせるような命令を下したのかもわかりませんし)」
「(全くだ。……まあ、与太話かどうか確認する方法はあるが)」
「(え、どんな方法ですか?)」
「(ああ。魔族が魔族に向かって魔法を行使しても、通用しないことは知っているな? あれは齎魔という存在が生まれてからできた理なのだ。もし奴が本当に力を失ったのならば、今に魔族同士での争いが各地で起き始めるはず)」
「(そ、そんなことが……)」
「(ただこの近辺はとりわけ魔が多いゆえ、適当に焚きつけて実験する方が早かろう。某が確認してくる)」
「(わたしも行きます)」
「(いや、お前はあの者を見ていろ。齎魔がお前を
「(わかりました……イエミズさんも気をつけてくださいね)」
「あの……ハナノミコトとか上とかについては、私も何を指しているのかさっぱりわからないんですけど。もし変なことを言ってしまっていたのなら謝ります、すみませんでした」
「あ、いえ……こちらこそ、内緒話なんて感じが悪かったですよね。ごめんなさい」
「クロノスケとか言ったな。某は少々、急用ができた。すぐに戻ってくるが、お前はそのまま大人しくしているように」
そう言い残し、イエミズは枯れた木々の合間を縫って闇に消えていった。
十中八九、こちらの話した内容について、何か裏付けを取りに行ったのだろう。
彼が戻った際、この場が具体的にどう転ぶのかは予想できないが。
大別すれば信用を得るか失うか、そのどちらかに帰結すると思われる。
黒之助は如何なる事態が起きてもいいように、改めて覚悟を決めるのであった。
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