第十二話 きせき

「おっぼぉぇええぁあっっ!!」


青年は内臓ごと吐き散らす勢いで戻した。

実際には青白いものが出ていったに過ぎない。

だが全身の痙攣が治まらず、涙が止めどなく溢れ出している。

冷え切った体は脂汗に塗れ、鉛のように重たい。


(む、無心に……ならないと……)


おそらく無心に至れば正気を取り戻せるはずだ。

ただ、明滅する視界にはあの黒い物体が佇んでいる。

この状況で瞑想するのは不可能に近い。

絶体絶命、青年はうずくまりながら起死回生の一手を探す。

それを見下すように、黒い物体は怒気を含ませた声で言い放った。


『……なぜ自我を保っている』


どこか聞き覚えがある声だった。

そう、これは先ほど幻の世界で、幾度となく耳にした心の声。

苦悶の表情を浮かべつつ、青年は物体を凝視する。

――揺らぐ輪郭は、あの恐ろしい黒い煙に他ならなかった。

異形に成り果てたギンが、そこにいた。


『確かに魔で覆い尽くし、貫いたはず。……お前、何者だ』


如何せん頭が働かないが、不審がられている理由は想像がつく。

自分は、差し向けられた魔を分解する体質を持っているのだ。

今しがた、魔に関する何らかの現象を分解し、無効化したのかもしれない。

しかし魔法を受けたのであれば、こうも不調にはならないはず。

一体、何が起こっているというのか。


「君は……ギン、だよね?」

『ギン? ……懐かしい響きだ。そうか、お前はあいつの仲間か』


ギンの漆黒がより深く、より暗い色へと堕ちてゆく。

魔力と見紛う悍ましき流動。

可視化せずとも見えるため、似て非なるエネルギーと思われる。

その凄惨たる晦冥かいめいは、直視できないほどの醜悪を帯びていた。


『次はコロス』


彼の殺意が闇の刃となり、無数に降り注ぐ。

この光景を前に、青年は思い出した。

幻が始まる直前、自分はこの剣の雨に打たれたのだ。

反射的に脳が躱せと指示するが、体がついていかない。

青年はきつく目を閉じ、頭を抱えてひれ伏した。

為す術もなく、魔の刺突が辺りを埋め尽くす。


だが、いくら待っても痛みが来ない。

一向に幻も見えぬため、青年はおずおずと周囲を確認した。

当たったはずの剣は、どこにも見当たらない。

特に外傷もないようだ。


『またコロシ損ねたのか……?』


ギンが恨めしそうに睨みつけてくる。

結果を見るに、今のはどうやら攻撃魔法だったらしい。

使用しているのが魔力でなければ、魔法とは言えないのかもしれないが。

いずれにせよ、分解できる範疇だったのは不幸中の幸いである。

青年は乱れた呼吸を整えつつ、彼に問うた。


「ねえギン……君は何故、こんなところに?」

『……我を魔に染め、封じ、世界の贄としたのはニンゲン』

「ニンゲン? ……誰が、君に何をしたの?」

『そうではない。他者を傷つける心こそがニンゲン。お前達がニンゲンならば、我もまたニンゲン……永遠の地獄に囚われた、憎悪の肉塊』

「…………」


あの幻で見たものが、どこか現実で起こった出来事であると仮定した場合。

ギンは最期まで優しく在ろうと藻掻き、義を尽くして生を全うしたはずだ。

だのに眼前の彼は、この陰鬱な地で独り、すべてを憎みながら佇んでいる。

斯様な帰結を許した摂理は果たして、どれほど崇高な弁明をするのだろうか。

彼を追い詰めた不条理の跋扈を疎み、青年の胸が悔しさで満たされてゆく。

激しい無念の共感は再び、悲痛の雫を目の奥から湧出させた。


『お前はなぜ囚われない。ニンゲンではないのか』

「人間……だよ」

『……では何度でもコロスまで。すべてをコロシ、破壊し、天地を翻してくれよう。それが我らに課せられた唯一の在り方にして、永劫に繰り返されるべき復讐の連鎖』

「それは違う!」

『黙れ』


光を失ったギンの血眼が至近距離まで押し寄せ、青年を睨む。

心がぐちゃぐちゃで麻痺しているからか、恐怖は感じない。

青年は目を逸らさず、伝えるべき言葉だけを愚直に紡いだ。


「俺を殺すのはいい。全部破壊したっていい。ギンがそうしたいのなら、そうすべきだと思う」

『ならば望み通り――』

「でも、これ以上……どうして君が傷つかなければならない。ふざけるな」

『……気が触れているのか。コロスのは我で、痛みに泣き叫ぶのはお前だ』

「君は……君なら知っているはずだ。誰かを殺す時、その痛みは相手にとどまらず……自分自身さえもまた、殺してしまうということを」

『笑止。我は既に多くをコロシた。コロシた者は失われるが、我はここに在り続けている。それ以上の真実はない』

「ギンはお爺さんのこと……隆正さんのこと、忘れてしまったの?」

『……た……か……?』


ギンの瞳が遠のき、曇天を見上げて静止する。

反応を見る限り、彼のなかの爺さんはまだ消えていない。

しかし、すぐに思い出せぬほど永き時間が経っているのか。

あるいは、その想起を阻害する何か働いているのか。

上の空で立ち尽くすギンの様子が、徐々に変わってゆく。


『あいつ……の……あな……たの……せいで……我は、佳代かよさんを……コロシて……』

(佳代さん? お婆さんの名前か)

『……そうだ……婆さんをコロサせた、ぼくを……爺さんが見てるんだ。悲しそうに、怒り狂った顔で……なんで、そんな目で見るの……?』


おかしい。

自己嫌悪のなかに含まれる責任転嫁。

無論、自責の念がそうさせている部分もあるのだろう。

だが不自然なほど、罪の所在が捻じ曲がっている感じがする。

何より、ギンを苛むものの中心に隆正がいる気がしてならない。

彼にとって隆正や佳代は、かけがえのない大切な存在だったはずだ。

そして事件を起こしたのは、あくまでも犯人達である。

それにもかかわらず、未だ彼らに対する感情が見えてこない。

まさか。


「……ギン、答えて。君を殺したのは……誰?」

『ぼくをコロシたのは……爺さん……』

「!!」


刹那、ギンの纏っている黒い煙に歪な濃淡が生じた。

浮かび上がった髑髏どくろのような揺らめきが、声なき愉悦の嘲笑を象る。

酷く邪悪なエネルギー、その悍ましさは魔素すら比較にならない域に達している。

――この改竄かいざんはギンの摩耗した精神が作り出した、まやかしの類などではない。

ぶり返す強烈な吐き気、煮え返る腸、心に吹き荒れる狂気の暴風。


(なんだこれ……こんなもの、俺の手に負え……)


せ返るほどの畏怖と嫌悪が思考を支配する。

たとえ自分が魔に汚染されぬ体質であるにせよ。

まともに対峙すれば、心の方が保たぬかもしれない。

ただその懸念は、さらに強い情動によって捻じ伏せられた。


(……でも、ギンはもっと……もっと……!! )


燃え滾る慈悲の激昂。

青年は自らの頭を思い切り殴った。

強い衝撃によって意識が飛び、地面に倒れ込む。

数秒後、目を覚ました彼は泥を啜っていた。

鼻を突く腐敗臭と、全身を包む厭わしい湿気。

――だがこれでよい。

喜怒哀楽を強制的に鎮めた青年は、最短で無心に辿り着く。

そうして得たエネルギーのありったけを、ギン目掛けて放った。


『!?』


まるで煙突から延々と立ち上る有害物質の如く。

黒い煙は、ギンの頭上へ向かってみるみるうちに蒸発してゆく。

そして青年の目には、はっきりと映っていた。

髑髏の発する痛烈な悪意が、鬼の形相でこちらを睥睨へいげいしている姿が。


『おのれ……よもや我が呪詛を破るとは』

「あんた、ギンを殺したやつか?」

『……さてな。我は何もやっていない・・・・・・・・・・

(どこまでも外道な)

『フハハ、いい顔だ。……まあ、疾うに目的は達した。十分すぎるほどに』

「……?」

『もはやこいつがどうなろうと構わん。我が思念、ここで朽ち果てようとも……魔は恒久の耽美。せいぜいこれからも、地獄の旅を楽しむといい』


髑髏は不敵な笑みを浮かべながら、勝ち誇るように消えていった。

彼奴がどのような存在だったのかは気になる。

だが今は後回しだ。

視線を落とすと、犬の姿に戻ったギンが横たわっている。

ただし首は無く四肢がもげていて、ぴくりとも動かない。


(確か精神体は、肉体が健在しないと成り立たないんだったな。つまり、このギンは……)


少なくとも、精神体ではないことになる。

――もう一人の自分が言っていた、向こう側の精神体と関係あるのだろうか。

いずれにせよ、どのような体であっても、その大元に魂があることは学習済みだ。

今の彼とて例外ではなかろう。


(本来、肉体や精神体は魂を投影しているって聞いたけど……この場合は逆に、肉体の欠損が深く魂に刻み込まれてしまったとみるべきか)


あの壮絶な体験がそうさせたのか、はたまた、これも髑髏による悪行なのか。

青年はふと、視界の端に散らばっている骨を見つめた。

あれらは、掘り返された穴に埋まっていたものと思われる。

石碑のような大岩も含め、偶然このような状況が生まれているとは考えにくい。


(少し調べてみよう)


気は進まぬが、骨を拾い上げ、組み合わせる。

そうやって嵌め絵の如く、骨格が成立するように並べてみた。

すると一本の脚と思しきものが完成する。

これをギンの前脚部分にあてがったところ、案の定、ぴったり噛み合った。

同時に、突如として光が発生する。


(……!)


眩む目を細めながらギンを見遣ると、衝撃が走る。

なんと脚がくっついているのだ。

しかも肉が戻り、白毛が生えている。

傷痕も残っておらず、欠損など初めから無かったかのように。

青年は直感した。

理屈はわからぬが、これはきっと彼を救うために必要な処置である。

慌てて周囲を見回し、他の骨を探す。

現状、それらしきものは見当たらない。

だがどこにあるのかは、容易に想像がついた。


(ギン、許しておくれよ)


最初の穴は石碑の裏のそば、右横に空いていた。

だからというわけではないが、逆側を掘ってみる。

果たして、新たな骨が次々と見つかった。

確信を得た青年は、同じ要領で石碑の周りを一通り確認してみた。

最終的に、残りの三本の脚と頭蓋骨の発見に成功する。

それらを一つ一つ、丁寧にギンの体へと帰してゆく。

やがて、あの幻で見た五体満足の彼の姿が再現される。

ふさふさの白き中型犬は、ゆっくりと目を覚ました。


(ここは……)

「ギン! 良かった……!」


見上げると一人のニンゲンが泣いている。

辺りは夜のように暗いが、その瞳は青天のように眩しかった。

わしゃわしゃと撫でられる感覚は、遠い昔を思い出させる。

温かい緑茶と、冷たくて心地よい冬の風の香り――。


"お前とこうしていると、心に羽が生えたようだよ"


『爺さん……?』

「え? ……ああ、ごめんね、俺は隆正さんではないんだ」

『……本当だ。かさかさじゃないね』

(念話の類かな? まさか会話できるなんて)

『……ずっと、夢を見ていたんだ。痛くて、苦しくて、悲しいのが終わらない夢』

「…………」

『ぼくはニンゲンになれたはずだったのに。爺さんも婆さんも、どこにもいなかった。独りで寂しかった』

「……ギン」

『でも、不思議だなぁ。この姿が一番、ニンゲンに近い気がする……ねえ、あなたがぼくを起こしてくれたの?』

「ううん、俺は、ギンがどう在りたいのかを考えてちょっと手伝っただけ。これは君が、君のなかで大切なものを守り抜いたから得られた結果なんだと思うよ」

『よくわからないけど……あなたは何ていうの?』

「俺は、人間の天利黒之助あまりくろのすけです」

『あま、くろ? 変な名前だね。ぼくは銀弍ぎんじだよ。そのまま、ギンって呼んでくれて大丈夫』

「うん、よろしくねギン」

『……あ』

「……え?」


脈絡もなしに、いきなりギンが目を丸くしている。

彼の目線が背後に向けられているため、黒之助は振り返った。

するとそこには、光を纏った、薄い半透明の隆正が浮かんでいた。

何やら曇天から細い糸のようなものが伸びていて、繋がっている。

ギンは立ち上がり、尻尾をぶんぶんと振りながら瞳を輝かせて言った。


『爺さん! やっと会えた!!』

《……ギンや。よく頑張ったな》


その隆正の声音には、ありとあらゆる感情が含まれているように感じられた。

ギンは何かを言いかけたが押し黙り、大粒の涙を溢して体を震わせた。

ただ静かに、見つめ合う両者。

――未来で貰った道標がまた一つ、導いてくれたようだ。

感謝を胸に二人を見守っていると、隆正がこちらに向き直り、神妙に切り出す。


《ギンを救っていただいて、感謝してもしきれません。本当にありがとうございます》

「いえ、そんな。しかし、あの存在は一体なんだったんでしょう」

《……申し訳ございませんが、わたしも詳しいことは存じ上げません。ただギンは、永らくあれに囚われていました。わたしのいる次元からは到底、手が出せないほどの深い魔です》

「隆正さんのいる次元?」

《ええ。わたしは現在、四次元の高位相におりまして、この体は分霊となります。本来であれば低位相の隔離領域であるこちらの魔界には、来ることすら叶わないのですが……神様にお願いして、特別に降ろしてもらっている次第です》

「な、なるほど?」

《……ある時、ギンの苦しそうな声がわたしに届いたのです。それ以来ずっと彼を探していたのですが、ようやく見つけられた時にはもう、あの魔に取り憑かれた状態で……助けようにも為す術がなく、もどかしい状況が続いておりました。おそらく現実世界では、数百年から千年以上の時が経過しているでしょう》

「そんなに永い間……」


曰く、次元に関する諸問題で隆正や神はこちらに直接、干渉ができないそうだ。

ただし間接的であれば、一つだけ救済に繋がる方法があったらしい。


《ですが最近になって、あれに一分いちぶの隙が生じましてね》

「隙ですか?」

《はい、理由はわかりませんが、どうやら魔のエネルギーに歪みができたらしく、奴の支配力が不完全となったようで。そこへわたしの意識を潜り込ませることに成功したのです》


隆正は神の助言に従って、そのようにしたのだと言った。

無論、目的はギンを救える可能性に賭けるためである。

可能性といったのは、いわゆる他力本願の体裁になるからだ。

――即ち、魔界にいる第三者の手を借りねば完遂できない方法。

それにはまず、その第三者に一切の事情を伝える必要があったとのこと。


(ギンの辿った軌跡が俺に見えたのは、神様のちからで隆正さんが潜り込ませた意識を汲み取ったから?)


だとすれば、もし黒之助がここに現れていなかったら。

現れたとして、ギンを見捨てる選択をしていたのなら。

考え得る限り、幾重にも偶然が重ならなければ救済は成立していない。

例によって、神は全てを見通していたのかもしれないが。


《奴の支配が完全に解けた今、こうしてわたしの意識を一時的に顕現できたのですが……でもそろそろ、時間のようですね》

「え?」

『! 爺さん!!』


半透明の隆正が、さらに薄くなってゆく。


《もうあまり猶予がないようです。体が消える前にこの糸を伝って上に戻らないと、わたしの魂は消滅してしまいます。そうなったら、せっかく自由になったギンに二度と会えなくなってしまいますからね》

「そんな……!」

『……爺さん、またどこかに行ってしまうの……?』

《はは、ギン。お前はもう、ぼくらと同じ・・・・・なんだよ。久しぶりに目覚めたばかりで、まだ何もわからないだろうけど……今まで通り、お前がお前で在り続ければきっと、またすぐに会えるから》

『やだよ、爺さんと一緒に行く!!』

《いいかいギン。全ては、お前の心が決めることだ。……婆さんと一緒に待っているから、自分の足で歩いておいで》

『ぅう……わからないよ、またバイバイするなんて寂しいよ!』

《……黒之助さん》

「はい」

《大変、身勝手な願いで恐縮ですが……ギンのこと、これからもよろしくお願いできますでしょうか》

「……あまり自信はありませんが、可能な限り協力させていただきます」

《ふふ、貴方とギンが引き合った奇跡に感謝します。それでは二人とも、また会う日まで、どうか息災で》


隆正は嬉しそうに、優しい笑顔のまま天に昇っていった。

黒と赤の空に浮かぶ、美しい光の跡。

それを見つめるギンの瞳には、離愁と勇奮の念が映っている。

黒之助は決意を胸に彼の頭を撫でたが、同時に意識が遠のく感覚を憶えた。


(あれ、なんだか急に目眩が……)


倒れ込む黒之助。

ギンは驚いて彼の頬を舐めたが、反応はない。

狼狽する最中さなか、木々の向こう側から何者かの足音が聞こえた。

やがて現れたのは、二人のニンゲンだった。


「! イエミズさん、あれ!」

「ああ、行ってみよう」

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