第七話 在り方

当初は有望でなかったクロノスケの案が、一縷の望みに包まれる。

ホウゲンとイツナはそれぞれ、魔力や守護によって封印の法力を相殺してしまう。

そこで、彼は己の第三ともいえるエネルギーを利用しようというのだ。


「そなたの真意、某も理解した。しかしゾグよ、実現可能なのか?」

「ま、やってみんとわからんな」

「ゾグにもわからないんだ……」

「ともあれ、これでクロノスケ殿のご意向は明らかになりました。……皆様。見届け人として一つ、発言をよろしいでしょうか」


羅摩が舵取りする。

演繹が続いて忘れそうになっていたが、これは対談の場だ。

着地点を見据え、そろそろ結論に向かって進んでもよい頃合いである。

ホウゲンはまた「構わぬ」とぶっきらぼうに承諾した。

イツナも羅摩を見て静かに頷く。


「ありがとうございます。……現在、三つの案が挙がっておりますが、この中で最も公平な結果に至る可能性が高いのは、クロノスケ殿の案が成就した時かと存じます」

「……そうだろうな。あくまで成就すれば、の話ではあるが」

「わたしもそう思います」

「ではお二方の案については、先にクロノスケ殿の案を試してから再検討する形で問題ありませんか?」

「いいだろう」

「はい」


両者とも、神妙に首肯する。

彼らはこの対談のために、多くの時間と労力を費やして準備してきたはずだ。

互いに譲れない一線、揺るぎない信念があって、この場に立っているのだろう。

それはもはや、ここにいる全員が重々承知していることである。

その上で自分たちの案は二の次でよいと譲歩した二人の心奥――。

クロノスケは推し量らずにはいられなかった。

歪だと指摘した趣意を考え直し、思い留まってくれたからこその妥協なのか。

あるいは今もなお、葛藤の渦中にあって決断はできずにいるのか。

いずれにせよ、クロノスケは深く感謝せねばと思った。

この流れに導いてくれた羅摩と、こちらへの尊重を惜しまぬ一同の心遣いに。

願わくば、彼らの抱える愁いを解き放ち、恩返ししようと心に誓う。


「皆さん、あの。私なんかの話に耳を傾けていただいて、ありがとうございます」

「……お前は妙な奴だが、その型破りな体質も、ここに居合わせているのも、決して偶然ではあるまい」

「え……?」

「因果の巡りには、必ず理由があります。クロノスケさんは何やら引け目を感じているみたいですが、少なくともわたしは、貴方に大海を知る機会を頂けたと思っていますよ。……封印、是非とも試してみましょう!」


あの時とは違う、屈託のない笑顔でイツナが言った。

クロノスケは目が覚めるような心地がした。

記憶喪失、時代錯誤の覚束ぬ常識。

未知の体質に、度々おとずれるくしびな何かに誘導される思考と直感。

己の謎に触れるほど、深い迷宮を彷徨う、孤影悄然たる侘しさが襲ってくる。

もし「俺は誰」だという追究を始めれば、自分という存在の何かが崩壊する予感。

思えば内より外を知ることに躍起になっていた理由は、それなのかもしれない。

きっと、無意識に抱いていた恐れが必要以上の自問を葬っていたのだ。

そうして目を背けた先で、他者への貢献に感けて気を紛らわせていた。

だが、いま直面している笑顔はおそらく、その不透明な自分から生まれたもの。

それは進むべき道を照らす光のようで、彼にとって他でもない道標となった。


「だとよ、坊主。責任重大だな」

「恐縮ですが、私にできることはなんでもやらせていただきます」

「意気やよし。ならば早速、どうやって封印を現象化するかを考えるぞ」

「はい、よろしくお願いします」

「ふむ。ホウゲン様は先ほど、魔素や神気は阿尓真が変質したものと仰っていましたね。つまりクロノスケ殿の精神体が変質前の阿尓真をエネルギーとして活用しているなら、魔法、神通力とは異なる法力が必要になると」

「ああ。だがおれに心当たりはない」

「吾も知らんのう」

「……つまり、新たな法力を創るところからってこと?」

「やっぱり、そうなりますか」


クロノスケが思いついたのは、未知のエネルギーの発見と利用だ。

発見が成った現在、具体的な利用方法を模索する段階に入ったといえる。

ところが、ゾグやホウゲンですら該当する法力の存在を知らない様子だった。

否、存在しないから知る由もないと言った方が正しいと思われる。

淡い期待を寄せていた二人には頼れぬ、厳しい現実が立ちはだかっている。

せめて取っ掛かりを得なければ、早くも手詰まりとなってしまう。


(考えるんだ。確か魔法は悪意、神通力は善意が効果を決めるんだったな)


相反する法力、二つの根底にある共通点を見出す。

善意と悪意はどちらも意識であるのに変わりはない。

意識が他者を貶めるか、活かすかの違いがあるだけだ。

どちらも相手に働きかけて、変化を促す目的は同じ。

鍵があるとすれば――。


「あの、ホウゲンさん。魔法を放つまでの過程って、意識的にはどんな感じなんですか? 」

「過程か……いわば目的を具象的に思い描き、魔力を乗せれば自ずと発動するといったところだ。例えば"お前を攻撃する"という目的を炎として想像し、魔力を使って現象化したのが先の攻撃魔法に当たる」

「ということは、魔法の種類って想像次第で無数にあるんでしょうか」

「そうだ。ただし、術者の持つ魔力量によって現象化できる内容は限定される。加えて、相手を直に殺すようなものはおれであっても使えぬ」


(いわゆる即死魔法……使えないってことは、効果の幅は等価交換みたいな感じなのかな)


「某からも少し説明させていただこう。そなたは想像次第でと簡単に言うが、実際には非常に高い技能が要求される。起こる現象に対する霊学的な熟知と、脳波の切り替えによる精密な想像が必要だからだ」

「そ、それは普通の人には無理そうですね……魔法って人族でも使えるんでしたっけ?」

「使えはしますけど、魔法もどきになっちゃいます」

「もどき?」

「はい。人族は魔族と違って固有の悪意を持っていません。そもそも自力で魔素を魔力に変えることすらできないのです」

「よって体外で魔力を精製する必要があるのですが、魔素の抽出は困難を極め、成功しても少量の魔力しか生み出せません。さらに想像が間接的になるので現象化の際に伝導率が下がり……意のままに操るのはまず不可能です」


大広間に入る前、羅摩から聞いた話が理解できた。

魔法はとどのつまり、魔族専用といっても過言ではない法力のようだ。

人界でほぼ利用されないのも、当然の成り行きなのだろう。

ただ、根幹にあるのが目的意識と確認できたのは収穫だった。


「では羅摩さん、神通力の過程はどうでしょう」

「そうですね。まず、神通力に想像は必要ありません。神様に目的をお伝えすれば守護を通して神気が供給され、自動的に現象化するからです」

「ちなみに目的が不純で、神様に却下されたら発動できないんですよ。あ、あと羅摩さんの使っている神通力はかなり特殊だと思います」

「特殊といいますと?」

「わたしの神通力は禁厭きんえんと呼ばれ、予め札に言霊をしたためて神気を付与しておく手法です。都度お伺いを立てずとも効果を発揮できます」

「言霊ってカクエとか、ショウチョウとかの?」

「ええ。効果ごとに定型化された言葉、および念のことですね。長い歴史のなかで、人と神様とが心を通わせ、編み出してきたものです」

「すごいですね。いつでも使えるというのは便利そうです」

「いえ……実際のところ神通力は札を介さずに直接、行使した方が効果が高いものですから。神気の殆ど届かないこの魔界でくらいしか、利用価値はないのです」

「そういえば、神気って魔素みたいに漂っているわけではなくて、あくまでも受け取るものなんですね」

「はい。魔界においては強力な守護があって初めて賜ることができますが……その供給量はごく僅かです。しかも、それらは魔素から身をまもる役割のために使われてしまいますので、その上で別の神通力を行使するのは至難の業と言えましょう」

「なるほど。イツナさんも今、神通力を使うのは難しいんですか?」

「わたしは守護が強い関係で多少は使えますが、人界と比べたらかなり制限はありますね」

「じゃ、やっぱり禁厭を主軸にしている感じでしょうか」

「あ、えっと。禁厭って多分、古代の秘法なんですよ。わたしも何となく知ってたくらいで、使っている人を見たのは今日が初めてで……」

「おれも、お前以外に使っている奴を見たためしが無いな」

「それは……」

「まあ白き娘にも色々あるってこったろ。そんなことより、坊主は魔法と神通力の仕組みを紐解きたかったようだが、何か妙案でも浮かんだかえ?」


ゾグの深い眼差しがクロノスケを射抜く。

既に一つ、とある仮説が輪郭を持ち始めていた。

神通力は神に目的を告げて発動するようだ。

魔法も然り、そこには「こうしよう」といった意識が内包されているはず。

「こうしよう」は、「こうしたい」に換言できる。

つまり欲だ。

法力の出発点にはおそらく、本人の欲がある。

欲を叶える方法は何か。

それが三次元の話なら、行動を以って成し遂げる。

では四次元はどうなのだろう。

ふと、先刻のホウゲンやゾグの言葉が呼び起こされる。


『魔素や神気――これらは世界に蔓延した悪意や善意が、阿尓真を変質させたものだ。おれやお前たちは、それを取り込むことで魔力ないし守護を纏い、魔法や神通力を使って自身の本懐を遂げている』

『そういうわけだのう。要はな、本人の魂が悪意によって魔素と呼応すりゃ、大元にある阿尓真が触媒となって、魔力って燃料を生むのよ。逆も然り』


(そうか)


クロノスケは閃いた。

欲とは、悪意や善意といった意識。

それに呼応するのもまた、目に見えぬ世界における同種の意識。

即ち、魔素や神気だ。

そして全ての根源には魂がある。

要するにアニマは、魂の声を聞き届け、時に姿を変えて寄り添う存在。

これが四次元の法則であり、法力の出発点なのかもしれない。

ならば純粋なアニマは何を聞き、何を語るかを考えればよいのではないだろうか。


「……ゾグさん、魂ってどうやったら知覚できますか」

「クク。なかなかどうして聡いのう、坊主は」

「魂の知覚?」

「クロノスケ殿、何故そのような発想に?」

「うまく言えないんですが、魔法も神通力も、元を辿れば魂があるんですよね? 行使するには対応するエネルギーも必要みたいですけど」

「ああ。魔力も守護も、魂が纏うものだからな」

「……だとしたら、そのどちらも纏ってなさそうな私の魂が、どんな風に存在しているのかがわかれば……」

「いまいち話が見えないな。そなたが魂を知覚するとどうなる?」

「アニマを、私のエネルギーとして使えるようになるんじゃないか、と考えています」


触媒の特性を持つアニマが、自分に限っては直に呼応している節がある。

その理由が意識に関係するならば、まだ拾えていない要素があるはずだ。

クロノスケが導き出した結論。

それは、己の魂における未踏領域の探索だった。


「そなたのエネルギーとして……か」

「徐々に混乱してきましたが、さしずめクロノスケ殿は、魔力でも守護でもない何かを得るために、魂の知覚が必要だと?」

「はい。たぶんそれが法力を起こす前提じゃないかって」

「うう……辛うじて、わからなくもないような……ゾグ、どうなの?」

「試せばわかる。だが坊主、魂の知覚とは、汝が誰なのかを深く自らに問うことに他ならない。その覚悟はあるのか?」


再度、ゾグが見通すように尋ねてくる。

クロノスケは、ちらとイツナの方を見た。

彼女が分け与えてくれた光。

たとえ、慄き遠ざけていた自問を越えた先であったとしても。

今ならば、その道標を見失うことはないだろう。


「……正直にいうと、少し怖いです。いま向き合っても、この自分はたぶん以前の自分とは違うわけで。まあ違うかどうかも、記憶喪失で実際にはわからないですが」

「……」

「ここで自分の発見を積み重ねれば、忘れてしまった何かをも忘れて、元の自分が消えていくんじゃないかという不安があります。ただ、皆さんと話していて一つ思いました」

「ほう?」

「私のこれまでの言動は、たとえ私が私でなかったにしろ、それでもやっぱり私の魂から始まっている気もするんです。なので……」

「確認がてら、とにかくやってみようってわけかの?」

「はい」

「クハハ! その度胸なら、きっと大丈夫だわな」

「で、ですかね。えっと、具体的にはどうしたらいいんでしょうか」


まだ魂の知覚にどういった自問が必要になるのかまではわからない。

前に、精神体は半分が魂で出来ていると羅摩に教わった。

物的部分を切り裂くと出てくるエネルギーは実質、魂の一部なのかもしれない。

だが、ここで求められる知覚とはそういった話とは違う。

己の魂が発する意識、その在るがままを見つけることに同義なのだ。


「……魂ってのはのう、普通は知覚しようなどと考えずとも、勝手に知覚されているものなのよ」

「?」

「生まれ持ったかたち――人族、魔族、他の何でもそうだが、既に魂を知覚しているからこそ、自然とその在り方になっとる」

「つまり、どういう……」

「坊主の場合、記憶とともに在り方すらも忘れてしまっている。そんなところか」

「私の、在り方ですか……」


生まれ持ったかたちとは、外見だけでなく性格なども指しているのだろう。

クロノスケの精神体は人の姿をしている。

加えて羅摩は、彼の在り方を人族そのものだと評価していた。

では何を忘れているというのか。


「ゾグ様のお話からすると、法力を使えるわたし達は無自覚に在り方を弁えていて、自然体で魂の知覚も行っていることになりますね」

「合っとる」

「だが彼の場合は、故意に自覚しなければならないのか……」

「しかし在り方などという幻影、どうやって取り戻す? お前の説明では先天的に備わっているもので、意図的に暴ける道理はないようだが」

「うむ。肝心の方法だがな、瞑想でいけるだろう」

「瞑想、ですか?」

「知らんか? 俗に言う、薄く目ぇ閉じてスーハーするあれよ」


雑な説明だが、クロノスケにも瞑想がどういった行為かはわかる。

ゾグが言うからには、魂へ接近するのにうってつけの方法なのだろう。

とはいえ、半目に胡坐、呼吸法といった形だけの知識しか思い出せない。

一体、どう臨めば結果が得られるのか。


「知ってはいますが、正しいやり方がわかりません」

「なに、難しく考えずともよい」


ゾグ曰く、精神体における瞑想は肉体よりも容易らしい。

例によって、五感から霊感まで上がっているからである。

姿勢については、楽であれば座っていても立っていても構わないそうだ。

また、調息の方法については、深呼吸するだけでよいとも教わった。

そして最も重要なのは、体を流れるエネルギーを感じること。

目を閉じて、頭に浮かんだ映像を無心で追うのが肝要なのだという。

追った先で見つけたものが答えになるとゾグは締め括った。


「瞑想か……」

「おい、本当にそんな方法で上手く運ぶのか?」

「現状、他に当てもなかろうて。ほれ、吾らは待機だ」

「あ……そういうことなら、わたし達が傍にいるとクロノスケさんの気が散ってしまうと思います」

「ええ。一度、卓に戻りましょう。ホウゲン様、何か仕切りのような物はございませんか?」

「いま用意する。クロいの、とりあえずやってみるといい。こちらは気にせず集中しろ」

「わ、わかりました」


クロノスケは移動し、皆の声が遠のいたのを確認する。

次にホウゲンが魔法で出した仕切り板を背に置いて、床で胡座をかいた。

目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。

思えばこうして心を休めるのは魔界に来て以来、初めてのことだ。

数回、肩を竦めては落として、さらに緊張を解す。

鼓動が落ち着いたところで、ゾグの助言に従い体内のエネルギーを探ってみる。

まず手に傷を作ったときに出る、あの揺らめきをぼんやりと想像した。

改めて考えると信じられないが、この体を流れているのは血ではないのである。

火に似ている、魂の一部と思しきエネルギー。

暫くその循環を感じていると、やがて熱くない炎に包まれていることに気づく。

しかし、めらめらと燃える感覚は次第に、ゆらゆらと靡く感覚に移り変わった。

風に舞う綿毛となった自分。

ところがそれは同時に、水面で漂う海月くらげのようでもあった。

そしてよく見ると、空や海だと思っていたものは、澱んだ沼だったらしい。

濁った泥にまみれる自分の本当の姿は、そこに沈みゆく苔むした石ころで――。

変動する光景と己の姿が、目眩くように、想像の世界を駆け巡ってゆく。

しかしどういうわけだろう。

同じところを延々と流離さすらっている実感が、不動のまま横たわっている。

ふと思った。

自分はどこかに迷い込んでしまったのか。

心の隅に怖気の雫が湧き出して、冷やかに伝う。

その黒き一滴は意識の泉へと落ち、波紋を広げながら全体に融け込んでいった。

すると瞬く間に、鬱蒼とした暗闇の森が育まれ、世界を全て覆い隠す。

刹那、行く手を阻むかの如く現れる無数の蔦。

クロノスケに襲い掛かるそれらは強固な呪縛と化し、彼を容赦なく蝕む。

なんと苦しいことか、なんと恐ろしいことか。


(無心を保つんだ)


木々の怨嗟を、只のざわめきとして聞き流す。

絡みつく不快感は、抱擁として受け入れる。

彼は、ただここに在るという空っぽの脱力で、無との合わせ鏡を構築した。

すると上方から一筋の光が舞い込み、足元から百花繚乱の美観が広がってゆく。

気づけば暗黒の森は消えていた。

澄み切った空の下、花吹雪が降り注ぐ広大な草原に立っている。

先のほうでは太陽の光が収束し、進むべき方向が指し示されていた。

その煌めきに導かれるまま歩んで行くと、天空へと続く虹色の階段が出現する。

一段、また一段と階段を昇るうち、下が見えぬほど高い新天地に至った。

不思議と恐怖はなく、光風霽月の境地だ。

この奇妙な旅路の果て、最後に辿り着いたのは大きな扉だった。

辺りは黄金の色彩に埋め尽くされ、雲が棚引いている。

静謐な空気に浸っていると、徐に扉が向こう側から開いた。

そこへ現れたのは、クロノスケと同じ姿をした人であった。


「やあ、こんにちは」

「…………」

「あ、あれ? こんちはー」

「…………」


挨拶に反応せず、クロノスケはひたすら彼を眺めていた。

視線は合っているため、無視ではなく不干渉の絵面である。

もう一人のクロノスケが目の前で手のひらを振るも、依然として反応はない。

しばし首を傾げていた彼だが、やがて頭の電球を点灯させた。


「もしかして、無心のまま在ろうとしてる?」

「…………」

「はは、ここまで来れば大丈夫だよ。今は何を考えようが、瞑想が終わることはないから」

「…………そう、なの?」

「うん。とりあえずこっちへ」


扉のなかへ案内される。

極めて底の浅い、金色の湖が穏やかに漣を立てている。

見渡す限り水平線で、近くに真っ白な椅子が二つだけ置いてあった。

彼は先に腰掛けると、クロノスケにも座るよう促した。


「で、何が聞きたいの?」

「君は、俺?」

「うーん、まあそうとも言えるかな」

「ここは妄想が作り出した場所ではない?」

「魂の領域だよ。瞑想して君自身が乗り込んで来たんじゃないか」

「確かに……なら、君は俺の魂なの?」

「いや、これは意識だよ。君も意識」

「……?」

「とりあえずさ、色々気になるのはわかるけど……本当にしたい質問は?」

「ああ、ごめん。えっと、三つある」

「どうぞ」

「俺の記憶はどこにいったの?」

「まずはそれか。すまんけど、どこかは言えない。ただ、失くしたわけじゃないから安心して」

「ほんとに?」

「うん。二つ目は?」

「俺の魂ってどんな感じなの?」

「ざっくりしてるなぁ。ま、答えは簡単だよ。ここに来るまでに見たもの、全てが君の魂だ」

「え……? 俺、確か海月とか石になったりもしたんだけど」

「でも別に違和感とかなかったでしょ」

「そ、そうだったかなぁ」

「じゃないと、ここには来れないしね。つまりさ――」


立ち上がった彼は水平線を指さす。

よく見ると太陽や月、他にも星々が天象儀のように美しく輝いている。

あまりにも非現実的で、幻想的な世界。

だが同時に、懐かしい感じもする。

その気持ちを代弁するかのように、彼は続けた。


「君は自分が思っている以上に、君なんだよ」

「俺が、俺?」

「そう。そして俺も君といえるし、あの星も、この湖も君だ」

「……じゃあアニマも俺なの?」

「あ、それは違う。というか、アニマじゃなくてだよ」

「阿尓真……」

「そうそう。阿尓真はさ、友人みたいなものなんだ」

「友人?」

「ほら、今まさに君が発してる声、その姿も。阿尓真が手伝ってくれるから存在できてる」

「そういえばこの体って?」

「精神体だよ」

「え? 俺は精神体から旅してきたんだけど」

「あ、勘違いしてるみたいだね。あっちは精神体じゃない」

「でも、皆が精神体だって」

「……まあ、呼び方は何でもいいと思う。とりあえず今の君と、瞑想している君の体は別ってこと」

「はあ。こっちでは阿尓真がこの体を構成しているの?」

「そんなとこ。で、最後の質問は?」

「どうすれば、あっちでエネルギーを使える?」

「君が俺と同化すればいい」


淡々と、受け答えが返ってくる。

同化――文字通り、一つになるという意味だろうか。

だが、彼がもう一人の自分ならば。

共在する両者は、独立しているように見えて同一のはず。

そして全ての根源である魂の領域にて、邂逅せしこの状況。

そもそもこの瞑想自体が、彼との同化に当たる行為ではないのか。


「残念だけど、当たらない」

「え、思考が読めるの?」

「そりゃね。俺たちはそういう存在だから。ちなみに同化は簡単だけど、容易ではないよ」

「矛盾してるような……」

「なんでか教えるよ。同化したらさ、君という意識も、俺という意識もなくなるからさ」

「なくなる?」

「うん、新しい意識が生まれて、俺らはなくなる」

「死ぬってこと?」

「ある種、そう。殺すことでもあるかもしれない。どう? やろうと思えば簡単だよ。お互いに全てを委ねるだけでいいから。でも容易じゃないでしょ」


矛盾が氷解する。

今、ものを考え感じ、動いている自分。

消滅してしまうなんて想像ができない。

なくなったらどうなるのか。

きっと、新しい自分になるのだろう。

しかし、果たしてそれは自分なのか。

そして彼もまたこの気持ちを抱いているのだとしたら。

――同化とは恐ろしいことのような気がする。


「だよね。ただ君はもう、答えが出てるみたいだ」

「え?」


クロノスケは、己の全身が光っているのに気がついた。

この優しくあたたかいものを、自分は知っている。

イツナから貰い、羅摩やホウゲン、ゾグやイエミズ達が信じさせてくれた輝きだ。

彼らとは、どれほど時を共有したのだったか。

数時間、数十分、いや、もっと少なかったかもしれない。

幾つの言葉を、どれほどの想いを交わしたのだったか。

他愛のない話を、数えるほどしかできなかったかもしれない。

だのに、悠久の時を過ごしたという懐古の錯覚が全身に染み渡って馴染んでいる。

何故だろう。

ふと、貢献に感けていた自分の行いが見つめ直される。

あれは逃避であったが、また本望でもあったのだと悟る。

恐れる自分、見つけた自分、捧げたい自分、求める自分。

その全てが、"光と共に進め"と背中を押しては雲散してゆく。

恐怖を超越し、徐々に晴れ渡るクロノスケの表情。

それを見て、彼は苦笑しながら言った。


「俺は君の答えに従うよ」

「でも、君もなくなってしまうんでしょ?」

「大丈夫。俺だって、君と一緒なんだからさ」


彼の全身からどす黒い何かが立ち上る。

魔素に似ているが、本能的な畏怖は訪れない。

むしろこちらの光と同じく、穏やかにじんわりと心を包み込む温もりがある。

その闇はクロノスケを覆う光と交わって、踊るように頭上を旋回している。


「俺は君を殺すの?」

「ああ。そして俺も君を殺す。でも、また生まれるんだ」

「本当のいいの?」

「いいさ。俺はそのために、ここに居続けたのだから」


白と黒が捻じれ、合わさって、世界の色とかたちが失われてゆく。

それらは灰色になることなく、円を描きながら天へと昇り、星々に並んだ。

二つ在った意識はいつの間にか消え去り、そこには一つの瓶が浮遊している。

中には花浜匙はなはまさじが美しく、鮮やかに揺蕩っていた。


『さあ黒之助、目覚めのときだ』

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