第二話 見えぬ理
「よん……!?」
ここに来てからというもの、奇々怪々の連続である。
今しがた取り戻した記憶に拠れば、自分は2039年にいたはずだった。
魔界や四次元と同じく、4042という数字はあまりにも突拍子がない。
地名を聞いて得られていた安心感が、早くも過去の遺物となり果てる。
やはり、ここはどこまでも見知らぬ場所であるらしい。
「おそらく貴方は、2000年ほど前の時代から来たと推測されます」
「…………」
魔界の次は未来へのタイムトラベル。
普通なら、失笑を煽る発言の数々だろう。
だが、羅摩の言動は一貫して真剣だった。
そして何より、先の予感と己の信じる直感が告げていた。
これらの世迷い言が、おそらくは真実であることを。
とはいえ、確証がなければ素直に納得できる話でもない。
「それってさっきみたいに、何か証明できるものはありますか?」
「難しいですね。ここが三次元なら、根拠も多く説明は容易なのですが……」
「……確かに、未来の機械とかを見れば納得はできそうですけど。ん? でも魔界は三次元が反映されてるって話でしたよね」
「はい。ですが、反映されるのは原則として自然に関わるものだけで、それ以外の物質は特定の条件が揃わないと顕現しないのです。機械などの人工物については、こちら側には殆ど無いものとお考えください」
「そう、なんですか。この古城は特別ってことでしょうか?」
「左様です。条件などは複雑なお話になりますので、恐れながら今は割愛いたしますが」
「……わかりました。ふと思ったんですが、三次元に戻ることはできないのですか?」
「本来、然るべき手順を踏めば戻ることはできます。しかし……」
「何か問題が?」
「ええ、実は少々。あちらとこちらは基本的に門で行き来するのですが、現在その門の扉が、原因不明の固着によって開かなくなってしまっているのです」
「門――あれ、ということはもしかして。羅摩さんも今、帰れない状況だったりするんでしょうか?」
「それは……正直に申しますと、そうなってしまいますね」
「マジですか……」
事態は深刻といえる。
記憶のないクロノスケにとって、帰るべき場所が日本のどこなのかはわからない。
しかしそれ以前に、実は三次元に戻る手立てさえ無い状況だったのである。
これでは拉致などの陰謀論が否定できても、路頭に迷っている現実は変わらない。
また仮に帰れたとして、そこは未来であり元いた時代ではない可能性もあるのだ。
今後の指針を得るためにあれこれ情報を拾ってきたが、閉塞感が強まってゆく。
それでも彼は、羅摩の善意を無碍にせぬよう気丈に振る舞おうと笑顔に努めた。
だがその表情には、隠しきれない影が落とされている。
「……どうか、あまり気を落とさないでください」
「すみません、顔に出てましたか」
「いえ、心中お察しいたします……しかし、門の閉鎖はこれが初めてではありません。既に担当が解決に向けて動いていますから、そう遠くないうちに通れるようにはなるでしょう」
「あ、そうなんですね。早く戻れるといいんですが……」
「きっと大丈夫ですよ。……それに、わたし達がこうして存在している以上、少なくとも三次元の方は無事、ということになりますしね」
「三次元の方?」
「あ……至らずに申し訳ございません。ご説明いたします」
「ありがとうございます」
「クロノスケ殿は精神体の概念をお持ちですか?」
「精神体……精神体ですか。なんとなくはわかりますけどね。文字通り、精神世界の体って意味でしたら」
「その認識で問題ありません。より正確に表すなら、精神体とは四次元の低位相においてのみ具現化する、実体を伴わない存在を指します」
「急に難しくなりました」
「ええっと……」
羅摩の説明によれば、四次元には低い所と高い所があるとのこと。
ただしそれは物理的な高低差の話ではなく、波の違いだそうだ。
クロノスケは早速、匙を投げそうになった。
ともあれ、重要なのはこの魔界が低位相にあるという点らしい。
つまり今こうして対話している二名は、精神体に該当している。
加えて、精神体は三次元の肉体が健康でなければ存在できないそうである。
彼は半信半疑で、自分の身体をあちこち確認した。
「普通に五感が働いている気がするのですが……いま喋っているこの体が、精神体なのですか?」
「その通りです。こちらは証明が簡単ですよ。少しそのまま休んでいてください」
羅摩はそう言うと立ち上がり、すたすたと歩き出した。
先ほど転移陣と呼んでいた壁の中へと入ってゆく。
やがて戻ってきた彼女は、左手に何かを携えていた。
見れば、三十寸ほどの刃物がぎらりと光を反射させている。
「それ刀ですよね」
「はい、些か物騒ですがご安心を。わたし自身に使いますゆえ」
「どういう意味でしょう?」
「今から腕を切断しますので、そこで御覧になっていてください」
「えっいやいや」
クロノスケは狼狽した。
いきなり目の前で腕を切るなどと言われて、動揺しないはずもない。
だが別段、羅摩は乱心したわけではなかったようだ。
早まってはならぬと制止する彼を、落ち着いた口調で
「ご心配には及びません。精神体は、悪意によって負わされた傷以外は痛みませんし、治癒も容易ですから」
「悪意? そ、そういうものなんですか……」
散々トンデモ話を聞いた手前、疑わしくも納得できるくらいには順応している。
しかしクロノスケには、五感だけでなく倫理感も健在だった。
このまま静観すれば、羅摩が自傷する光景を目の当たりにすることになる。
たとえ実害がないにしろ、その証明方法は気乗りするものではない。
「でも羅摩さん、私が自分の身体で確認しては駄目でしょうか」
「お優しいのですね。ではせっかくですし、こちらを」
羅摩が柄をこちらに向けて差し出す。
刀を受け取りながら、クロノスケも立ち上がった。
まだ少し倦怠感が残っているが、歩かなければ支障はないだろう。
早速、左手で
ずっしりと重く、まるで日本刀を構えている感覚だ。
刀身は青光りし、細かい意匠が施されていて風雅を放っている。
何やら全体が輝いているが、これも三次元を反映した特殊物質なのだろうか。
「間近で見ると迫力がありますね」
「ふむ、適当に引き抜いてきた
「そんな大層な代物だったんですか!」
「ええ。この古城に流れついた詳しい経緯は存じ上げませんが、見る限り非常に強い神性を保っています」
「神性といいますと?」
「刀の周囲に光が漏れておりますでしょう。それが加護の目印です」
輝いているのは別段、目の錯覚ではなかったようだ。
ゆらゆらと、光の粒子が立ち昇っては消えてゆく。
不規則な明滅は、眺めているだけで深い安らぎを憶える。
美しいという言葉は、この情緒を表現するためにあるのかもしれない。
「確かにキラキラしてますね。綺麗です」
「同感です。……本来ここは魔界の深奥ですから、加護が希薄になっていてもおかしくありません。この輝度はかなり強力な気が入っていると言えますね」
「希薄……? 差し詰め、魔界には加護を蝕む何かがある、とかでしょうか?」
「おおよそ、その通りです。正確には……いえ、つい脱線してしまいましたが、今は証明を完遂してしまいましょう」
「あ、はい。これで斬ればいいんですよね」
「ええ。わたしはわかりやすく腕ごと斬り落とすつもりでしたが、慣れていないと怖いかと存じます。まずは軽く刃を握って、引く程度に留めるといいかもしれません」
「やってみます」
羅摩の助言に従い、右手で刃を包んでそっと動かす。
確かに痛みはない。
ただその所為か少し加減を誤ったらしく、予定よりも深く刻んでしまった。
通常ならば、血が吹き出すであろう大きな傷ができている。
ところが斬れた皮膚から覗いたのは、青白い炎のような揺らめきだった。
「あっなんか出てます」
「精神体が持つエネルギーですね。ここでは傷ができると、血液ではなく、そのエネルギーが溢れ出します」
「なるほど。火みたいですが、熱くない……なんだか少し温かいです。今のところ痛くもありません」
「何よりです。繰り返しになりますが、悪意による傷は痛みを伴いますので、くれぐれもご注意くださいね」
「その悪意って何でしょう。恨みとかって意味ですか?」
「はい。恨みも含め、相手を貶める意識に起因した攻撃は、等しく悪意を伴っています。精神体は怪我で死ぬことがありませんが、肉体よりも苦痛は大きくなるので、もしそうした攻撃に見舞われた際は極力避けられた方がよいです」
「苦痛は大きくなる?」
「そうです。精神体とは半身半霊、物的要素と霊的要素が調和している存在です。霊的要素とは魂のことで、つまりこの体は魂が半分剥き出しになっていて、あらゆる感応が直接的に起こる分、五感も上昇したように感じられるのです」
「ほお……というか、魂ってあるんですね」
「……驚きました。2000年前はどのように捉えておりましたか?」
「概念があったのは覚えています。実在を謳う人も結構いたと思いますけど、誰も証明はできなかった感じですかね」
「物質に偏重した時代だったことは知っていましたが、そうだったのですか。しかし精神体の説明は簡単でも、魂となると……」
「ああ、大丈夫ですよ。もう既に色々と見せてもらっていますから、ひとまず魂の存在についても信じます」
「よろしいのですか」
「まあ今は羅摩さんを信用していますので」
「――ありがとうございます」
頭巾の下で、羅摩が微笑んだ気がした。
少し空気が軽くなると同時に、クロノスケは改めて自問する。
やはり彼女は信用に足る人物だと思えてならない。
しかし、この根も葉もない直感が強引に干渉してくる感覚。
一体、何がそうさせているというのだろうか。
先刻の話を思い返してみると、一つ思い当たる節はあった。
五感が増幅するならば、あるいはこの直感も――。
クロノスケは刀を置いてソファーに腰掛け、透かさず質問する。
「ところで、先ほど五感が上昇したように感じると言っていましたが、第六感とかもそうだったりします?」
「第六感、霊感の一種ですね。それについては、実際に感度が上がります」
「やっぱりですか。鮮明に思い出せるわけではないんですけど、第六感ってなんとなく憶えておりまして」
「はい」
「前は、確かこう漠然と、曖昧な予測みたいなのが脳裏を掠めたと思うんです。ただその予測って全然信憑性がなくて、合理的な思考が間に入ると"そんなことあるわけない"って感じで、すぐに消える弱いものだったような気もします。……でも」
「今は違うと?」
「ええ。ここで働く第六感は疑念すら払拭できてしまうといいますか、とにかく強烈だと思います」
「察するに、わたしのことを信用してくださったのも、その第六感によるものといったところでしょうか」
「……お見通しですね。ちょっと気恥ずかしいですが、仰るとおりです」
「ふふ、重ねて感謝を申し上げます。なるほど、クロノスケ殿がどういうお人なのか、段々とわかってまいりました」
「そ、そうですか?」
「先ほども申し上げましたが、精神体は第六感が実際に上昇しています。でも、どういった方向にそれが働くかはその人、その魂によって変わるのです。これは三次元でも同じなのですけれども」
「方向というと、ピンときた時の内容が前向きか後ろ向きかって感じでしょうか」
「どちらかといえば、その直感が働いたことによって物事が良い方に運ぶのか、はたまた悪い方に運ぶのかという意味です。もっともその良し悪しは我々、人の尺度で図れるものではございませんが」
「……?」
「端的に言い表わせば、神様のモノサシに依るのです」
「神性と聞いた時から薄々気づいてましたけど、やっぱり神様もいるんですか……」
果たして、神なる存在へと話が移ってしまった。
魔界や次元の話を聞いた時とは、また異なる性質の眉唾を感じる。
等しく胡散臭いはずなのに、心象とは不思議なものである。
一気に濃くなった宗教色に、クロノスケはやや警戒を示した。
ただ脈絡からして、そうと決めつけるのはまだ早計かもしれない。
これまでと同様、彼女の話に耳を傾けて吟味する。
「残念ながらこの魔界には
「なんでですか?」
「わたし自身、神様の守護を賜っておりますから。この白装束がそうです」
そう言って羅摩は両手を広げて見せた。
当初から気にはなっていた、一風変わった白装束。
聞けばこの精巧な衣装は、なんと神から授けられたものだそうだ。
極めて神性が高いため、魂の状態が良くない者は直視すら難しいという。
逆説的に、拒否反応のないクロノスケの魂は良好な状態といえるらしい。
一応、例外もあるそうだがこの場では省略された。
そして度々、彼女に対する信用を促してきた根拠のない直感の干渉。
これらは、纏っていた神気を無意識に感じ取ったからだろうと説明された。
また神気の察知自体、直感が適切な方向に働いている証拠でもあるそうだ。
「どれも、清らかな方でなければ成立しないことなのですよ」
人柄がわかりつつある、と言っていた彼女の言葉を理解する。
反面、クロノスケには己が清らかである自覚など全くなかった。
とはいえ、敢えて否定するような場面でもなかろう。
彼は頓着せず、新たに生じた疑問について考えることにした。
羅摩は先刻、白装束が神の守護だと言っていた。
ところが御神刀のように輝いている様子はない。
もしや、加護と守護は違うものなのだろうか。
「羅摩さんが神様の守護を受けていると証明できるのが、その服ってことですよね」
「はい。これがないと、わたしは魔界で精神体を維持できません」
「え、それまた何故でしょう?」
「目には見えませんが、魔界には"魔素"と呼ばれるエネルギーが充満しています。神様の守護がない場合、精神体における物的部分は魔素を取り込んでしまう性質がありまして。こと魔界では過剰な吸収を引き起こすため、結果として霊的部分にも影響が及び、魂が魔に汚染されてしまうからですね」
「魔素……もしも汚染されて、精神体が維持できなくなったらどうなるんですか?」
「正気と自我を失って、人の姿でなくなります。肉体が三次元にいることも認識できなくなってしまうので、実質、狂気を抱えた異形のまま魔界を彷徨い続ける運命です」
「……ちなみに肉体の方は……?」
「植物状態になるか、他の存在が入り込んで自己破壊が始まります」
「ほ、他の存在ですか……とりあえず、魔素がとんでもないものだってことはわかりました」
「まあ実際には、濃度が低くてほぼ影響がないというだけで、魔素自体は三次元にもあるのですけれども。この場合は、魔界が濃すぎると言ったほうが適切かもしれません」
「致死量の毒物を、常に摂取させられてしまう感じですかね。でも、守護さえあれば大丈夫になると?」
「はい。ただ厳密にいうと例外もあります。神気と魔素は互いに正反対のエネルギーでして、両者が出会いますとどちらか一方、単純に力の強い方が生存します。基本的に神気は強大な力ですから、ほぼ大丈夫と言っても差し支えはないのですが……魔素が著しく濃いところでは、押し負けてしまう場合もあるのです」
「要するに、羅摩さんの守護はとりわけ強力ってことですか」
「そうとも言えるかもしれませんね。守護神にはいつも感謝しております」
「なるほど……しかしそれで、この御神刀も強い神気が入っていると言っていたんですね」
「その通りです。一つ補足しますと、物質に付与される神気が加護で、魂に賜る神気が守護、という違いはあります。どちらも魔素の侵蝕を防ぐ効果は同じですが、前者については失われると物質そのものが四次元から消滅します。そして元となっている三次元の物質は残るものの、帯びていた神性が魔性に変化するため、あちら側には悪影響が出る結果となります」
「うーん、どれも興味深い話ですけど、羅摩さんのそれは守護、なんですよね?」
「はい。この白装束は物質に加護が入っているわけではなく、わたしの魂と、そこに宿していただいている神気が形成した守護の形です」
曰く、守護が象るものはその者の魂と、宿る神気の性質で千差万別のようだ。
また何に対してどのような効果を発揮するかでも変化するらしい。
ただし、魔素対策における守護の形はどれも共通しているのだという。
即ち、彼女の白装束と同じく全身を覆い隠す衣類、または見えない障壁の類。
精神体の物的部分をまもる都合上、例外なくそうした形になるとのことである。
ならば、次なる疑問が生じるのは必然だった。
クロノスケは静かに息を吸い込み、思案顔で尋ねる。
「……つまり私も、障壁で守護されていると考えてよいのでしょうか。記憶喪失で心当たりはないですけど、正気は保っているつもりですし」
「実はこの部屋に来ていただいたのは、それを確認するためでもありました。前置きが長くなりましたが、ここからが本題です」
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