空華綺想のハーバリウム ~魔法の効かない特異体質と零の力で、皆が幸せになれる道を探します~

第零章

第一話 循環

「……ほう」


暗澹たる様相の書斎に一人、黒衣の男が椅子に腰掛けている。

不意に異変を察知した男は、部屋の中央を睨みつけてその動向に注視した。

すると突然、何もない場所から白い光が浮かび上がる。

同時に周囲の空間も陽炎のように揺らぎ始めた。

光は暫く煌々と輝き、辺りの視界を奪い続ける。

しかし白の蹂躙は次第に衰え、波立つ空間も凪いでゆく。

男は一連の現象を瞬きもせずに観察していた。

やがて、僅かとなった光源の中に謎の輪郭が顕現する。

先刻までは影も形もなかった存在。

そこには忽然と、見知らぬ青年が倒れていた。


(この領域に直接、そして光か)


男は面倒そうに立ち上がると、のそのそと青年の方へ歩み寄る。

息はあるが、気絶しているのか力無く床に横たわっている。

顔立ちは端整で、年は二十代前半といったところだ。

整った短髪は黒みがかり、上下ともに布の服を着ていて、体の線はやや細い。

耳飾り以外に目立つ装いはなく、変哲のない陳腐な成人男性といえる。

だが、それらの表面的な情報は些事に過ぎなかった。

男にとって重要なのは、摂理に反するその内面の機微であった。


(人の姿を模して、妙な奴だ……ひとまず気つけしてみるか)


男は自らの頭上に手をかざす。

直後、周囲に風が吹き荒れ始め、無数の赤い粒子が舞った。


「起きろ」


振り下ろされた手から、青漆の稲妻が轟音を響かせて奔る。

耳をつんざく霹靂は瞬く間に収束し、一帯には薄い瘴煙が残った。

異臭が鼻をかすめる室内に、暫しの静寂が訪れる。

男は黙って佇み、青年の様子を窺っていた。

ところが彼は伏したまま微動だにしない。


(……回復せぬとは。よもや)


今しがた放たれた何らかの超常的な一閃。

それはどうやら攻撃の類ではなく、青年を回復させるための一手だったようだ。

男は何か目論見が外れたのか、鋭い目つきになって両腕を組む。

ほどなく俯瞰を終えた彼は、徐に無人の空間へ向かって呼び掛けた。


「ラマよ、来れるか」

「はい」


すぐに、部屋の壁に描かれた奇態な紋様から何者かが登場する。

凝った意匠の白装束に身を包み、顔は頭巾で覆い隠されている。

ラマと呼ばれたこの者は軽く会釈すると、伏した青年を見遣って首を傾げた。


「ホウゲン様、この方は?」

「お前も知らぬときたか。こいつは先刻、光とともに現れた」

「……それは」

「加えて、治癒魔法を当てたが全く反応がない」

「魔法が……? なんとも不可解ですが、どうなさいますか」

「ひとまずお前の神通力を試してくれ」

「なるほど、承知しました」


白装束は、懐から文字の書かれた札を取り出す。

そしてその文字を読み上げると、全身から黄金の揺らめきが生じた。

文字は空中に浮かんで溶解すると、青年の中へと吸い込まれてゆく。

白紙になった札は、青く発光しながら燃え尽きた。


(さてどうなる)


男が監視するなか、青年の周りを大きな泡の数珠のようなものが取り囲む。

その輪は勢いよく回転し、遠心力で引き伸ばされるようにして雲散した。

伴って、輪の内側にいた青年の身体から細長い光が次々と立ち昇ってゆく。

周囲の空気中には小さな黒い珠が生成され、青年の頭部に融け込んでいった。

これらの不可思議な現象がすべて終わると、再び場が静まり返る。

しかし、此度の静寂は早くも破られた。

顔をしかめながら、青年が動き出したのだ。


「効きましたね」

「ああ」


青年は覚束ない動きで、何とか片膝をつく体勢まで漕ぎ着ける。

息切れしており、まだ自力では立ち上がれない様子だ。

その体勢のまま、目線だけを動かして辺りを確認している。

薄暗い室内、光は四隅にある燭台のみで視界は非常に悪い。

それでも傍に立っている二人に気がつくと、青年は怪訝そうに尋ねた。


「あの、これはどういった状況でしょうか」


男は白装束と顔を見合わせ、青年に返答する。


「それはこちらの台詞よ」

「……?」

「お前は突如ここに現れたのだ」


予想だにしない返答だったのか、青年は困惑の表情を浮かべた。

すると、それを見ていた白装束が「ここはお任せを」と割り入る。

青年と同じく床に膝をつき、目線を合わせて彼に問い掛けた。


「恐れ入ります。先に、幾つかこちらの質問に答えていただけますか」

「は、はい」

「まず、目を覚ます前に何があったか、その記憶はございますか」

「記憶? ……あれ、物の名前とかはわかるんですが、何も思い出せません」

「では、ご自身の名は覚えていらっしゃいますか」

「名前、名前は覚えています。アマリ・クロノスケといいます」


二人の対話を聞いていた男は、溜息をついて席に戻ってゆく。

白装束はそれを尻目に、質問を続けた。


「ではクロノスケ殿、あなたの名はどのように綴るのか教えてください」

「字ですか? ……すみません。何故だかそれも覚えていないようで」

「わかりました。これが最後の質問です。あなたは、人であられますか?」

「……はい?」

「言葉を換えましょう。貴方にとって、止まると死に直結するものはなんですか」

「えっと、話が全然見えないんですけど」

「動転されているところ、本当に申し訳ありません。しかし今は、ひとまずお答えを」

「……心臓で合っていますか。それとも脳のことでしょうか」

「そうですね、結構です。ご協力に感謝いたします」


白装束は一礼して、腰掛けた男の方を振り返った。

男は抽斗ひきだしから異形の鍵を取り出し、机上に置く。

その意味を理解した白装束は鍵を掴みに行くと、クロノスケの方へ向き直る。

彼は問答する間に多少回復したらしく、鈍重ながらも立ち上がろうとしていた。


(なんで記憶が? というか今の質問はなんだ? この人たちは一体……)


クロノスケは自分がこの場にいる理由について、一切の心当たりがなかった。

状況のすべてが不透明、思考すら不自由で、言いようのない不安が襲ってくる。

しかし悩む暇は与えられなかった。

先ほど意味深な質問を投げかけてきた白装束が、再び口を開く。

顔が隠れているため断定はできないが、声の響きから女性だと思われる。


「クロノスケ殿、それでは一旦こちらへお越しを。ゆっくりで構いません」


返事を聞く前に、白装束は扉から出て行ってしまった。

遅くてよいと言われても、こうなれば気が急くのが人情というものである。

クロノスケはふらつきながら、後を追いかけた。

だが横から刺してくる痛烈な視線が、彼の歩みを一瞬止めさせる。

男は依然、何も言わずに腕を組み、どっしりと構えていた。

まさに威風堂々たる風格だ。

その容貌は決して若くはないが、老いも感じさせぬ美丈夫である。

金色の混じった銀髪が逆立ち、身体は黒い衣とマントで覆われている。

目の錯覚か、角のようなものが垣間見えた気もするが、定かではない。

珍妙だと思いつつ、その剣幕に気圧されたクロノスケは深入りしなかった。


「あの、とりあえず失礼します」


そう言って、炯眼を掻い潜るように扉へ向かってゆく。

本心では尋ねたいことも多かったが、今は悠長に話している場合でもない。

彼はドアノブを捻って静かに開き、気力を振り絞る。

鉛の身体を退室の瞬間だけ機敏に動かし、流れるように扉を閉めた。

ぱたという小さな音と引き換えに、部屋は元の深閑を取り戻す。

広くなった書斎で、ただならぬ威厳を保ったまま男が視線を落とした先――その机上には、一冊の本が開かれていた。


"流転るてんが果てに至りし時、永き明暗が袂別べいべつす。れど蔓延はびこるは終焉の跫音きょうおんなり"


男は複雑な表情を浮かべて静かに目を閉じる。

その心奥を知る者は、まだ誰もいない。



白装束に導かれるまま、彼は長い廊下を進んだ。

この廊下は先ほどの部屋から一本道に伸びている。

途中、他の部屋の扉や窓が全く見当たらないのは何故なのだろうか。

ぼんやりしながら暫く歩いていると、突き当たりの一室に辿り着く。

扉には鍵穴のない南京錠が掛けられている。

白装束は男から受け取った鍵を近づけ、空中で捻る所作を行った。

その動きに連動して、奇妙にも南京錠が外れる。


「お入りください」


謎の現象が繰り広げられ、クロノスケは些か固まっていた。

しかし開けた扉の横で白装束が待機しているため、ひとまず入室する。

入ってすぐ手前の壁には1つだけボタンが取り付けられていた。

先の部屋は蝋燭だったが、こちらは電気が通っているのだろうか。

そう考えているうちに、白装束も入ってきて丁寧に扉を閉めた。

壁のボタンが押されると、果たして視界が鮮明になってゆく。

室内はそれほど大きくないソファーとテーブルがあるばかりだ。

他の物は一切置いておらず、客間にしてはミニマルな雰囲気が漂う。

ソファーの方へ手のひらを向けて誘導され、クロノスケは着座した。


「ここはどういった場所なんでしょうか」

「臨時の応接室のようなものですよ」

「ああいえ、そうではなく。この建物は一体」

「これは失礼しました。ここは魔界の深奥にある古城です」

「……え、まかい?」


クロノスケは面食らった。

まかいと聞こえてきたが、その抑揚が"魔界"だったのだ。

彼が耳を疑ったのも無理はない。

記憶はなくとも、語彙でその言葉を認識できたからである。

魔界とは、超自然的な負の世界を表す言葉。

そしてこの局面で出てくるには、明らかに場違いな言葉でもある。

何故なら魔界は観測できるわけでなく、あくまで想像の域にある世界。

それ以上でもそれ以下でもないのだから。

思いがけず立ち込めたもやが、彼の中に猜疑心を生む。


「いかがされましたか」

「魔界っていうのはどういう……」

「ああ、ご説明いたします」

「お願いします」

「今回、貴方が魔界に来られたのはおそらく相応の理由があってのこと。貴方はハナノ――」

「あ、ちょっと待ってください」

「はい」

「……何度も遮ってすみません。どうか気を悪くしないでいただきたいのですが」

「大丈夫ですよ。何でしょう」

「魔界って魔の世界って意味ですか? それともそういう地名の場所ってことでしょうか」

「チメイ? 魔界というのは……」


問い掛けに対して、白装束は何か答えようとした。

しかし咄嗟に「いえ、少々お待ちを」と取り繕って、続きを呑み込んでしまう。

その後は右手の拳を顎に当て、頭巾の下であれこれ考察を進めているようだ。

一方、クロノスケも視界の左下を見つめて重い頭を酷使していた。

――彼の常識では、魔界とは在ってもよいが無きに等しいものでもある。

別段、魔界という概念が存在すること自体に抵抗があるわけではない。

とはいえ、そのような話を進めたところで知りたい情報は得られないだろう。

クロノスケが求めているのは当然、現実世界の情報だからだ。


(悪い人ではなさそうな雰囲気だけど……)


白装束を一瞥する。

案外、純粋に慮って説明方法を考えているのかもしれない。

だが迂闊を避けて言葉を選ぼうとしているようにも見える。

そうする必要が、そうしなければならない事情があるのだろうか。

クロノスケの猜疑心が育つ最中、白装束から返答があった。


「……お待たせしました。色々と考えられますが、ひとまず先にクロノスケ殿のお話を伺った方が良さそうですね。魔界については追ってご説明いたします」

「……わかりました。ちなみに、あなたのお名前は?」

「はい。申し遅れましたが、わたしはラマと申します。綴りは修羅の"ら"に摩擦の"ま"で"、羅摩です。どうぞよろしくお願いいたします」

「羅摩さん、改めましてアマリ・クロノスケです。よろしくお願いします」

「ご丁寧にありがとうございます」

「えっとそれで、私は何を話せばよろしいでしょうか」

「そうですね。まず、クロノスケ殿はここで目を覚ますよりも前の記憶がないと仰っていましたが、元々どこにいたのかも覚えていませんか?」

「……はい。具体的にどこだったのかはさっぱり。でも、日本にいたのは確かだと思います。現にこうして日本語を喋っているわけですし」

「それは道理ですね」


出身地こそ思い出せないが、自分が日本にいたのは漠然と覚えていた。

魔界云々はさておき、言葉が通じる以上ここも日本の何処かなのだろう。

ところがそう思ったのと同時に、彼の猜疑心がとある憶測を生み出すに至った。

"本当は海外にいるのではないか"という憶測である。

目覚めた部屋と、ここに来るまでの廊下の構造、雰囲気。

初めて出会った二人の外見もそうだが、冷静になってみれば異様でしかない。

これが和の感覚の残留によって生じた違和感なのかはわからない。

しかし、あたかも異国の地で遭難しているような切迫感があるのだ。

非日常的で馴染みのない空気の香り――呼吸の度、平穏と焦燥が交互にやってくるような感覚。

仮にここが海外ならば、どのような事態が考えられるであろうか。

膨れ上がった猜疑心は、真っ先に最悪の情況を想定させた。


(誰かに拉致された挙げ句、何らかの方法で記憶障害まで引き起された、とか?)


思考が飛躍している自覚はある。

だが心に渦巻く不安が、そうした可能性を完全には否定できなくしていた。

よく考えれば、白装束が名乗った羅摩という名の響きにも違和感がある。

聞きそびれてしまったが、そもそも、どうして姓を名乗らなかったのか。

想像は加速してゆく。


「私はクロノスケという名の響きからもわかるように日本人だと思いますが……」


その先をすぐには紡がず、姑息の熟考を図る。


(知らぬ間に意識を絶たれて、どこかアジアの裏社会にでも売り飛ばされた? 宗教染みた面倒事に巻き込まれているという線も……いやでもなぁ)


ふと白熱によって冷静さを欠いた自分を認識し、客観視に努める。

すると無意識に押しのけていた希望的な側面が顔を出し、盲目が解けた。

その理由は、目の前にいる羅摩と名乗る者の人柄にあった。

というのも、彼女からは全くと言っていいほど、悪意が感じられないのである。

話す内容こそ奇天烈ではあるが、専ら誠実で物腰の柔らかい言動の数々。

先ほど言葉を選んでいた節がある以上、油断できないのもまた事実ではある。

だがそれらを差し引いても、なぜか自分を陥れようとしているようには思えない。

もっともこれはあくまで彼の直感に過ぎず、非常に楽観的で危険な判断だ。

しかし彼にとって直感とは、このような情況でも捨て置けぬ要素だったらしい。

葛藤の末に捻出された言葉は、それに中和されつつも踏み込む形となっていた。


「そういえば羅摩さんも日本語がお上手ですよね」


羅摩は刹那、白装束の下できょとんとしたように感じられた。

不用心な鎌の掛け方だが、羅摩が外国人か確認を行ったのである。

相手が相手ならこの時点で失言、自ら窮地に陥るであろう悪手。

彼は自分のことながら、直感ひとつでこれを敢行した己の蛮勇に驚く。

ただし軽率だったと省みる傍ら、不思議と後悔はなかった。


ここから想定される分岐は幾つかある。

反射的なお礼や謙遜による肯定、誤魔化しや豹変などの否定。

そうした反応があれば、現状には何か裏があると考えてよいだろう。

逆に後ろ暗さがないのであれば、合理的な切り返しがあると予想できる。

ただ表情が見えぬ以上、声音こわねと返答内容で判断するしかない。

そしてそれが根拠に乏しく、当てにならぬものであることを彼は理解していた。

だが早々に現状を整理するためにも、まずは対話の取っ掛かりを得る方が先決。

少なくとも魔界がどうのと話をするよりは、有意義なやり取りができるはずだ。

クロノスケはそのように考え、注意深く羅摩の返答を待った。


「……わたしの素性が知りたいのですね。確かに、貴方の境遇を考えれば当然のこと。右も左もわからない中、このように顔も見えない者と向き合うのはさぞ、ご心労をお掛けしてしまったことでしょう。配慮が足らずに、申し訳ありません」

「ああ、そういうわけじゃ……」


純粋な謝意が心に絡む毒気を祓い、信じる心が台頭する。

ひとまず、直感の優先が仇となる展開は避けられたようだ。

とはいえ言葉を選び抜いた挙げ句、魂胆が明け透けだった事実に変わりはない。

クロノスケは火照る顔を見られぬよう、大きく俯いた。


「何か深刻にご心配なさっているようですが、わたしは日本の生まれですし、ここは日本の魔界で間違いありませんよ」


自責と羞恥による感情の撹拌が急停止する。

また魔界。

しかも今度は"日本の"と冠しているせいで、余計に意味がわからなくなっている。

如何せん気は進まぬものの、彼はもう少し話を聞いてみることにした。


「日本の魔界……? とりあえず、ここは海外ではないと?」

「ええ、もちろん海外ではないです。……なるほど、そこからご説明させていただく必要がありそうですね」

「正直、いま自分がどういう状況下にあるのか見当すらつきません。できれば色々と、詳しく聞きたいのですが」

「承知しました。ではこれから疑問にお答えしてまいりますが、一旦失礼します」


羅摩はそう言うと背を向けて、左耳に手を当てる仕草をした。


「ホウゲン様、先ほどの件ですが少々掛かるかと。はい、一行が到着するまでには何とか。……それはダメですよ」


羅摩たちのやり取りが耳に入ってくる。

クロノスケは装束の下にイヤホンマイクか何かがあるのだなと思った。

"先ほど"と言っているあたり、相手はあの黒ずくめの人物だろう。

名はホウゲンというらしい。

それにしても一体、彼らはどういった人間関係なのか。

人に様づけしているのを聞く機会など、そうはない。

だが高貴な相手にしては、どこか親しみのある態度にも見える。

ふと、クロノスケはホウゲンの容姿を思い出した。

変装にしては不自然なほど、違和感のない風貌。

放たれる途轍もない威圧感。

日本語を喋っていたが、外国人ではないのだろうか。


(……知りたいことは他に山ほどある。後回しにしよう)


クロノスケは差し当たり、欲しい情報に優先順位をつけた。

幸い、今のところ羅摩は尋ねれば何でも答えてくれている。

だが"一行が到着する"と言っていたからには、何か用事があるに違いない。

いつまでも相手をしてくれる保証はないのだ。

通信が終わったのを見計らって、早々に切り出す。


「お手数をお掛けしているようで申し訳ありません、何か取り込み中でしたか」

「実は、これから来客があるのです。でもまだ時間はございますので、大丈夫ですよ」

「すみません……では早速ですが、ここは日本の魔界と先ほど言ってましたよね。ってことは、やっぱり"まかい"ってどこかの地名を指しているんでしょうか」

「いいえ、クロノスケ殿が最初に仰った魔の世界の方で合っております」

「で、でも日本なんですよね?」

「はい。まず今いる魔界がどこに在るのかを説明しますと、の一角です。そしてこの魔界には三次元と重なっている領域があるのですが、それが地球で唯一、日本でして」

「…………」


大真面目な調子で、予想を遥かに凌駕した説明に殴りつけられる。

これまでは辛うじて耐えられたが、流石に呆気に取られてしまった。


「羅摩さん……それはちょっと」

「……やはりクロノスケ殿はご存知ないようですね。つまり、三次元以外での活動はこれが初めてでいらっしゃると」

「えっと……初めても何も、こうしてお互い物理的に話しているわけですしね。なんですか四次元って」

「ふむ、物理法則が三次元の範疇であるご見識はお持ちの様子……ならば、ここが四次元に在るという証拠を確認していただいた方が早そうです」


羅摩がすたすたと部屋の壁に近づいてゆく。

壁には記号にも絵にも見える、奇天烈なものが描かれていた。


「ご覧ください」


彼女はすっと左手に拳を作ると、それを壁に向けて思い切り打ち出した。

普通なら鈍い音が響き渡り、繰り出した本人が痛みに悶絶しそうな拳打だ。

ところが現実はそうではなかった。

羅摩の拳は音もなく、吸い込まれるように壁の中に消えたのである。


「!?」


貧血気味に歩み寄り、恐る恐る手を壁に当ててみる。

するとやはり羅摩と同じく、手から腕までが壁の中へと呑まれた。

四次元の証拠というだけはあり、尋常でない現象のように思える。

非現実的な光景を目の当たりにし、クロノスケは平静を失った。

気づけば彼は、突飛な提案を口にしているのだった。


「これ頭を入れても大丈夫ですか?」

「もちろんです。移動用の転移陣ですから」

「転移陣……」


碌に警戒もせず頭を突っ込む。

壁の向こう側を覗くと、そこには暗く狭い別の小部屋が広がっていた。

不思議なことに、振り返るとあるはずの壁が見えない。

代わりに、元の部屋の様子だけが目に入ってくる。

まるで小部屋のど真ん中にワームホールが出現しているような具合だ。


(何だこれ。どこにでも繋がってるドアみたいな……壁だけど)


クロノスケは頭を引っ込めて、沈黙しながら興奮していた。

未知というものは得てして、底知れぬ恐怖と冒険の好奇心を煽るもの。

表裏一体の感情、そのどちらが勝るかは人それぞれである。

ただ彼の場合は、後者の占める割合が大きかったようだ。


「如何ですか。これならわかりやすいと思ったのですが」

「確かにこれは三次元ぽくないですね。原理とかはまるでわかりませんけど……そういえば部屋に入る時に鍵が勝手に開きましたけど、あれは?」

「あの南京錠は、あそこにあるように見えて実は全く異なる場所で施錠されているものでして。それを四次元の鍵を用いて開けた次第ですね」

「な、なるほど……?」


冷めやらぬ感情を持て余しながら、ソファーに戻る。

羅摩は無事に説明が果たされたと判断したのか、安堵している様子だ。

文字通り、異次元の体験をしたクロノスケ。

彼は先刻までの思考を、強制的に切り替えることにした。

無論、これらの超常現象に種や仕掛けがある可能性は依然として残されている。

だが記憶を失っている以上、なけなしの常識に拘り過ぎるのは愚策――実際に見たものを柔軟に捉え、信憑性の吟味や取捨選択は後から行えばよいのだ。

相も変わらず楽観的だが、ここは臨機応変に徹する。


「ここが四次元なら、魔界というのもぎりぎり頷けます。まあどちらにしても、私にとっては異界に変わりないんですが……夢と表現した方がしっくりきますね」

「……クロノスケ殿が四次元に疎い理由はまだわかりませんが、もう少しお話を伺えば何か見えてきそうな気もします」

「本当ですか。私はいま自分のことすらもよくわかっていないので、引き続き分析していただけるとすごくありがたいです。……それで、魔界は日本と重なっているんでしたっけ?」

「ええ。魔界の一部に、三次元の日本列島と重なっている領域があるのです。当古城もその領域の中にございます」

「3.5次元みたいな感じですか」

「差し当たり、その認識で問題ありません。特徴としましては、土地などの自然物、また一部の建築や器財といった、人工物が三次元と同様に存在している点が挙げられます。三次元の物質が、魔界にも反映されているわけですね」

「つまり、この建物は三次元にも実在していると?」

「まあ……仰るとおりです。ちなみに海や空には違いがあるのですが、今は置いておきましょう」

「後で見てみたいですね。しかしそうなりますと、この建物――古城でしたか。三次元ではどこに建っているのですか」

「どこ、といいますと座標の話でしょうか?」

「座標……でもいいのですが、単純に地名はどこになるのかなと思いまして」

「チメイですか。先ほどもその言葉が出ていましたね……数秒お待ちを」


羅摩は顎を少し上に向けて考え始めた。

これで二度目である。

彼女は喋る内容を頭で推敲する際、敢えて時間を設ける慎重な人物らしい。

ちなみに頭巾に隙間はなく、この角度でも素顔は見えない。


「……クロノスケ殿が知りたい地名とは旧国名や、藩のことですか? それとも都道府県でしょうか」

「ああ、それです! 都道府県です!」


気になる言い方ではあるものの、聞き慣れていると感じる単語が出てきた。

クロノスケが初めて安堵の表情を浮かべる。

現在地が具体的にわかれば、海外説も否定できよう。

無論確かめる術はないが、今はとかく、羅摩の言葉を信用することにしている。


「でしたら、北海道に当たる地域かと」

「北海道ですか、ありがとうございます!」

「おや、少し緊張がほぐれたようで……よかったです」

「あ、はい。気持ちの問題なんでしょうけど、ちょっと安心しました。帰るべき場所は思い出せないにしろ、何だか急に故郷にいる実感が湧いてきた気がします」

「それは重畳」


残念ながら、身の上に繋がりそうな記憶は一切浮かんできていない。

だが北海道と聞いて、地図上における位置や名産品などは思い出せた。

これはある種、クロノスケにとって救済ともいえる情報だった。

五月雨式に降り注いでいた、理解を超える現実の強襲。

引き換え、その身近な情報は気薬きぐすりの如く、するりと体に馴染んだ。


「ずっと気を張っていらっしゃったので、本当によかったです」

「いえ、そんな。私もさっきは変なことを言って失礼しました」

「どうかお気になさらず。…………しかし、ふむ」


羅摩が何かの確信を得たような口調で呟く。

その陰影を察知し、クロノスケの脳には何か予感めいたものが駆け巡った。

このざわめきが吉兆か、凶兆かはわからない。

だが少なくとも、不安に支配され身動きが取れなくなるような鬱気ではない。

むしろ石橋を叩きつつも、探求心が期待を膨らませ、浮き立っている感覚だ。

クロノスケは小さく和んでいた空気はそのままに、畏まった面持ちで問い掛ける。


「もしかして何かわかった感じですか」

「ええ、おそらくは。確認ですが、生年月日は思い出せますか?」

「誕生日ですか……駄目ですね、それも抜け落ちてしまっているようです」

「では、クロノスケ殿が見聞きしたことのある歴史的な出来事や、それが起きた年号などは答えられますか」

「うーん、そういえば最近大きな戦争があったばかりのような」

「戦争ですか……魔族との抗争の話ではないですよね?」

「やっぱり魔族もいるんですね。でも、これは人間の話です。確かアジアを発端に世界が……」


そこまで言ったところで突如、クロノスケの全身に電流が走り抜ける。

不意の衝撃に、思わず「うお」と声が漏れてしまった。

脳の痺れは直ちに引いていったものの、くらりと横に崩れ落ちそうになる。

幸い、倒れ込む直前にソファーに腕をついて事なきを得た。


「だ、大丈夫ですか!?」

「おっと、急にすみません。平気です」


意識が回復してきたと油断した矢先、追撃の如くやってきた目眩のような症状。

もし再び気絶すれば、次も同じ環境で目覚められる保証など、どこにもない。

やはり今は、非常時であると肝に銘じる必要がありそうだ。

緩んだ糸を張り直し、朧気な状態へと逆戻りした頭を無理やり再起動させる。

クロノスケは直前に何を話していたのかを思い出した。


(確か、戦争だったな。何の戦争だっけ? ……あ)


彼はすぐに、不調の代償として得たものがあることに気づく。

霧掛かる記憶の中から、必要な部分の回収に成功していたのである。


「思い出しました。第三次世界大戦がありました」

「第三……? 少々お待ちください」


羅摩が上を向くのも、この短期間で三回目だ。

さっきまでは気づかなかったが、よく見ると左手の指先が微かに動いていた。

貧乏揺すりのような等間隔の律動ではなく、何か意図のある所作に感じる。

数秒ほど羅摩の挙動を勘ぐっていると、間もなく返事があった。


「それは西暦2032年に起きた戦争でお間違いありませんか?」

「え? 2028年のはずですけど……あ、あと同時に思い出せました。今は2039年でしたね」


少しずつ記憶が蘇っている事実に、クロノスケはまた一つ安堵する。

反対に、羅摩は表情こそわからないものの、俄に真剣な雰囲気を醸し出した。

今のやり取りで、何かを掴んだのだろうか。


「どうかしましたか?」

「クロノスケ殿。貴方の出自について、明らかになったことがあります」

「えっ! 本当ですか」

「ええ。おそらくさらに混乱させてしまうと存じますが、まずは真実だけお伝えしますと」


張り詰めた声音で改まった物言いをされ、クロノスケは少したじろいだ。

これから知らされる、真実なるもの。

それは希望かもしれないし、絶望なのかもしれない。

ただ、ここまでの会話で芽生えていた、思考に纏わり付く奇妙な予感と高揚。

その正体は、きたる綺想の幕開けを告げる、霧砲の幻影だったようだ。


「今、世界は4042年です」

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