亡国カルバラにて

第61話

 吸い込んだ空気に夏草の香りを感じ、トレンスキーはゆっくりと瞬いた。

 次第に焦点をむすぶ視界には揺れる木立の影が映る。やや首を傾けると、隣にはぼんやりと遠くを眺めるアンティの横顔が見えた。


「アンティ」

 声をかけると、アンティはすぐにトレンスキーを振り返った。トレンスキーの顔をのぞき込みながらそっと尋ねる。

「大丈夫ですか、師匠せんせい?」

 頷いたトレンスキーは軽く周囲を見回した。


 夏の空が眩しく見えた。鮮やかな緑で描くトーヴァの稜線りょうせん薄靄うすもやの向こうに佇んでいる。どうやらアーシャ湖から少し離れた場所まで移動していたらしい。

 遠目に見えるアーシャ湖には日の加減で柔らかな虹が架かって見えた。中天から注ぐ日差しは強く、外套がいとうを羽織ったままの肌は木陰にいてもやや汗ばんでいた。

 背にした木から体を起こしたトレンスキーは側に座るアンティに聞いた。

「サリエートは”還せた”のじゃな?」

「はい」

 頷いたアンティの目元にはくっきりと深いくまが浮かんでいる。それでもその顔には達成感が満ち溢れていた。アンティの表情を見て、トレンスキーもようやく安心したように笑みをこぼした。


「そういえば、ラウエルの姿が見えんが?」

「ラウエルさんは一度湖まで戻りました。取りに行くものがあると」

「取りに行くもの?」

 不思議そうに首をかしげたトレンスキーが再び湖の方角を眺める。見ればこちらに向かって歩いてくるラウエルの姿が見えた。

「ラウエルさん!」

 立ち上がったアンティが大きく手を振った。トレンスキーが目覚めたことに気づいたのだろう、ラウエルの歩幅がやや大きくなった。

 二人のいる木陰までやって来たラウエルはトレンスキーに問いかける。

「気分はどうなのだ?」

「大丈夫じゃよ。……なるほど、お主が取りに戻っていたのはそれか」

 ラウエルは頷くと、手にしていた帽子を隣に立つアンティの頭に乗せた。落としたことに気づいていなかったのか、アンティは少し驚いた顔をしてラウエルを見上げた。

「それから、これは君に」

「ワシに?」

 ラウエルがトレンスキーにハンカチを差し出す。受け取ってその中身をのぞき込んだトレンスキーはおおと息を吐いた。


 そこには色も大きさも様々な四精石しせいせきの結晶が包まれていた。その一粒一粒に、大人一人が楽に一年暮らしてゆけるだけの値が付けられるはずだ。

「……水精石すいせいせき第三晶、”融和ゆうわ”か」

 トレンスキーはひときわ大きな青い結晶を手に取ると、そっと木漏れ日にかざした。薄青色の目を細めると感慨深げに呟く。

「たぶんこれが、サリエートあやつの核じゃろうな」

 横に立つアンティもトレンスキーの掲げる青い結晶をのぞき込んだ。二人の姿を見下ろしたラウエルが小さく言う。


「今回は、これのお手柄だったのだ」

「アンティの? そうなのか?」


 アーシャ湖に雨を降らせてから先の記憶はぼんやりと曖昧だ。興味深そうに尋ねたトレンスキーにラウエルは頷いてみせる。

「これの判断がなければ機会を逃していたかもしれない。それに、これは初めて四精術しせいじゅつを使ったのだ」

 トレンスキーが大きく目を見張った。

「本当か、アンティ?」

「はい、その、……ゲルディさんの真似をして」

 アンティは少しはにかんだ表情で答えた。

「あやつのか、それはまた意外じゃな?」

「君の唱えるトフカ語はひどく難解なのだから、あれの術の方が良い手本になったということなのだ」

「むぅ、そんなことは……」

 ラウエルの言葉に心外そうな顔をしたものの、トレンスキーはすぐに気を取り直したようにアンティに笑いかけた。

「それにしても、本当に頼もしくなったのう。さすが男の子、成長が早くて何よりじゃ」


 その言葉にアンティはぱちりと目を瞬かせた。しばらく木陰を見下ろした後で、ゆっくりとトレンスキーに言った。

「……師匠せんせい、違うんです」

「違うとは?」

 トレンスキーは不思議そうに首をかしげる。その目をやや緊張した面持ちで見つめながらアンティは言った。


「僕は、男ではありません」

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