第60話

 どくどくと鼓動の音が鳴り響く。血と共に、溢れんばかりの苛立ちと怒りがアンティの体中を巡っていった。

 それがサリエートのものであるとすぐに理解できた。渦巻く感情の最奥さいおうで、叫び出したくなるほどの孤独が胸を刺したからだ。噛み合わせた歯の間からアンティは静かに息を吐き出す。

(──大丈夫)

 この感情はサリエートのものだ。自分がその気持ちに呑まれることはない。

 なぜなら今、自分が感じているのはサリエートの心だけではないのだから。


 穏やかな中に、自分に対する信頼を寄せてくれているのは上空にいるラウエルだ。その心に意識を向ければ煮え立つような気持ちも凪ぐように鎮まる。そして、さらに意識を伸ばした先に感じるのは。

 深い、心の底からの喜びだ。


 トレンスキーのうたが呼んだ何かが、行き場を失くした招来獣しょうらいじゅうたちの心に優しく触れてゆくのを感じた。それは温かな力でもって、忘れかけた遠く懐かしい世界を示していざなう。

 ──これが君たちの”かえる”道だ、と。

 柔らかな陶酔にアンティの戦意が消えかかる。はっと意識を戻した視界にはサリエートの翼がすぐ近くにまで迫っていた。

 とっさに腕で庇ったが、巨大な翼に殴打されてアンティの体が大きく弾かれた。


「──ぁぐっ!」


 跳ね返るほど氷に叩きつけられ背に鈍い痛みが走った。すぐにサリエートの迫る音を感じて氷の上を転がる。間一髪で倒れていた場所が重みを持った爪に抉られていった。

 引きつった息を吐きながらアンティが身を起こす。倒れたアンティに狙いを定め、サリエートが鋭く光るくちばしを構えて正面から突進してくるのが見えた。

 立ち上がる時間がない。アンティがポケットを探った。掴んだ包みの色を見て、距離を詰めるサリエートへと視線を定める。


 攻撃が届く直前、アンティが眼前のサリエートめがけて紐を緩めた包みを投げつけた。不意をつかれたサリエートが動きをわずかに止める。周囲に散ったのは赤色に輝くかけらだった。

 一瞬生じた隙。アンティが首に下げた袋を切って最後のつたの種を凍った湖面へ撒いた。

 深く息を吸う。冷たい空気が肺腑はいふに満ちた。


『──雪解ゆきどけにう、まみえの僥倖ぎょうこう!』


 短く鋭いトフカ語に呼応して、サリエートの足元に散った火精石かせいせきが淡く輝いた。

 緩やかな熱で氷がじわりと溶かされる。その雫が蔦の種に触れると、軽い音を立てて種が目覚めた。


 蔦は複数伸びて至近距離からサリエートを絡め取った。広げた翼までを押さえられれば逃げることはできない。振りほどこうとサリエートがもがく度に、蔦はきつく絡みついてその体を締め上げる。

 サリエートが断末魔のような悲鳴を上げた。

「……っ!」

 聞く者の肌が粟立つような激しい声音だった。その声を間近で受けたアンティは短剣を落として強く耳を塞いだ。


 うずくまったアンティの肩にそっと手が置かれたのは、サリエートの叫びがはたりと止んだのとほぼ同時だった。

 おそるおそるアンティが顔を上げる。側には灰茶の外套がいとうを身につけたトレンスキーが立ち、静かな微笑を浮かべてアンティを眺めていた。


 辺りに漂う風は彼女の周りだけ不思議と暖かい。トレンスキーはアンティから手を離すとサリエートに向かって近づいた。

『……今まで、ずいぶん辛かったようだね』

 穏やかな声でトレンスキーが言う。倒れるサリエートの前に膝を折ると、乱れた羽毛を優しく撫でて整えた。

『居場所を無くし、同胞を無くし、元いた世界ばしょへ帰る術もなく。どんなに心細く、寄る辺ない思いに日々を過ごしたことだろう』

 恐慌状態の去ったサリエートがトレンスキーを見つめる。

 彼女の笑顔に目を細めるとサリエートはくるる、と小さく鳴いた。薄青色の瞳も応えるようにゆっくりと瞬く。

『もう大丈夫だ、君の放浪はようやく終わる。君は──”還れる”』

 トレンスキーの両腕がサリエートの体を包みこんだ。

 絡まる蔦ごと巨大な白鳥がその姿を消し、代わりに四精石が落ちるかすかな音が湖上に響いた。


 トレンスキーが目を閉じると、暖かな気配は静かに霧散してゆく。その顛末てんまつを、側にいたアンティは瞬きも忘れて見入っていた。


 ──サリエートの帰還が、成功した。


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