第62話

「え……?」

 トレンスキーの表情が固まった。


「え、え?」

 大きく見開かれた瞳がまじまじとアンティを眺める。アンティは申し訳なさそうに金色の目を逸らせて言った。

「その、師匠せんせいが気づいてないのは分かっていたのですけど。今までずっと、言い出せなくて……」

 心底言いにくそうに告げるアンティから、その隣に立つラウエルへと視線を移す。二人の会話を聞いていたラウエルは平然とした顔で頷いた。

「これは、君と同じ女性なのだ」

「な、な……」


 その意味を理解した途端、トレンスキーがわなわなと震え始める。やがて大声でラウエルに叫んだ。

「何故に言ってくれんのじゃ、お主は!?」

「君が聞かなかったからなのだ」

 ラウエルはしれっとした顔で答えた。

「いずれ気づくか、これが自分から伝えると思ったのだが。思ったより時間がかかったのだ」

 それを聞いたトレンスキーがぴたりと口を閉ざした。真っ赤になっていた顔が次第に青ざめてゆく。しばらくして、気まずそうに小さく呟いた。

「もしやして、ゲルディークもそのことを?」

 若草色と金色の目が揃って瞬く。顔を見合わせた二人は口を揃えてトレンスキーに言った。


「たぶん、知っているのだ」

「たぶん、知っていると思います」


「くあぁ……っ!」

 トレンスキーは言葉にならない声を上げて地面に突っ伏した。

 言われてみれば、この大事な局面でゲルディークがあえてアンティをよこした理由も納得できた。男ではないアンティにサリエートの声が効かないことを、自分以外の全員が知っていたのだ。


 トレンスキーはゆっくりと顔を上げる。目の前にはおろおろとこちらをうかがうアンティの顔があった。

「せ、師匠せんせい?」

「アンティ、……すまぬっ!」

 アンティに向かってがくりと首を垂れると、トレンスキーは絞りだすような声で言った。

「ワシの思い違いのせいで、今までお主には、本当に申し訳ないことをしてしまった……っ!」

「もうしわけ?」

 ぽかんとしたアンティの手を取ると、トレンスキーは勢いこむように言った。


「イルルカに戻ったら、ラウエルとではなくワシと一緒の部屋で寝よう。それから普段着る服だって、もっと可愛いものを選ぼう。その装束ふくだって黒が嫌ならば新しいものを仕立て直そう。な、そうしよう?」


 必死に言い募るトレンスキーをしばらく見つめたアンティは、堪えきれなくなったように小さく吹き出した。

 アンティが無邪気に、年相応に声を上げて笑う姿を見せたのは初めてのことだった。トレンスキーはやや驚いた顔をしたが、やがてつられたように笑った。


 二人が笑いを収めると、側で眺めていたラウエルが一つ頷いて踵を返した。

「では、そろそろ戻るのだ?」

「ああ、そうじゃな」

 立ち上がり、灰茶の外套がいとうと篭手を外したトレンスキーは、少し迷った後でアンティに手を差し出した。アンティは一瞬きょとんとした顔をすると、すぐに笑ってその手を握り返した。


 歩き始める前にトレンスキーは一度だけ振り返ってアーシャ湖を眺めた。

 サリエートが”還った”ことで、凍りついたままの湖面もやがて夏の日差しの下に元通りになるだろう。その最後の光景を目に焼き付けたトレンスキーは、二人に向き直ると笑顔で言った。

「さあ帰ろう、アンティ、ラウエル。イルルカに戻ったら、皆で一緒に甘い菓子でも食べに行こうかのう」


 澄んだ夏空の下、三人はアーシャ湖に背を向けて歩き出した。



《 四精術師と帰還の詠 ─完─ 》


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る